salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2014-09-5


Etsu

 先週末、代々木第一体育館で、高校時代のバスケットボール部のOB会が開かれたので行ってきた。私も老人チームに入って試合をした。往年の名?シューターも、この年となっては見る影もない。放ったシュートがことごとくゴールの手前で失速した。
 それはともあれ、代々木に行ってきたことを娘たちに伝えると、「なんでこのタイミングで、ピンポイントでそんな所に行くかなー」と呆れられた。
 今まさに代々木公園はデング熱で大騒ぎとなっている。そして、代々木第一体育館は、代々木公園のすぐ隣。潜伏期間は一週間とか。まだ一週間は過ぎていない。感染していないことを祈るばかりだ。
 で、デング熱といえば、蚊。このところ10月並みの気温も多くなり、急に秋めいてきたが、夏の終わりとデング熱にちなんで、今回は、前にいつか一匹の蚊と話をしたときのことをご紹介する。

 ある日の昼下がりのことだった。蚊が一匹、網戸の目の一目にはまり、もがいていたので、つぶそうと思った。けれどやめて、説得することにした。
「どうして俺たちを刺すんだい。
 もういいかげんにやめてくれないか。
 血は少し多めにあるから吸ってもいいよ。
 でも代わりに痒い液を置きみやげにするなんてひどいじゃないか。
 お陰で刺されたところを爪で×してもムヒ塗っても、気休めぐらいでいつまでも痒い」
 説得が説教に移り始めると、蚊はブンブン羽ばたきもがくのをやめて、「わかった、わかった、わかったから、ちょっとここから出してくれないか」と、不機嫌に口をとがらせて言った。
 そこで私は逃げないか、逃げないなら出してやってもいいと告げた。
 蚊は長い口を下に向けてうなだれて、「はい、逃げません」と、いつになくしんみりとした口調で言うものだから、信用して網目から出してやった。

 私は蚊をテーブルの上に正座させ、説教を続けた。
「あの羽音もなんとかならないかい。
 今まさに寝んとして、わずかの意識があるだけで、頭はもう手足の神経との交信を絶とうとするときに、ブーンと飛んできて、我らを悩ます。
 逃げようにも払おうにも、追おうにも、もう手足が十分動かないから、君たちの攻撃を甘んじて受けるしかない。
 それでも緩慢な手つきで君らを追い払い、夢うつつの間で不自由に逃げ惑うあの嫌な時間。
 そもそも君たちは我々の血を栄養にするしか方法がないのか」
 すると蚊は寂しそうな目を向けた。私はようやく後悔し、改心するのかと思った。蚊は静かに口を開いた。
「バカかお前」
 私は砂糖水のつもりで塩水を飲んだときのように、一瞬正しい理解ができなかった。けれどすぐに血がのぼり、蚊をつぶしそうになったが、蚊ごときの一言で心を乱すのはニンゲンの名折れだと思い、怒りを抑えて話の続きを聞くことにした。

 蚊は私をたしなめる口調で続けた。
「お前昨日か今日、ブタ食ったよな。ブタじゃなけりゃ、ウシ。ウシじゃなけりゃアジかサンマ。先おとといは、トビウオと若どり、食ったよな」
 私はもちろん、蚊の言い分を理解した。
 生きるためなら、他の連中に迷惑をかけているのは同じだろ。そしてお前らは、俺たち以上に迷惑で、殺生までしている。その罪深さをさしおいて、殺生まではしていない俺たちに、説教するとは、厚顔にもほどがある、と言いたかったのだろう。
 私は蚊の分際でと、腹の中でせせら笑った。
 偉そうなことをほざくと、本当につぶすぞと思った。
 思ったとたんに、猛烈な恥ずかしさに襲われた。
 
 ふと見ると蚊は、いつの間にか正座を崩して立て膝になり、片膝を両手でかかえながら、諄々と諭すように私に話し始めていた。
「どうだい、ここらでまた、あのすばらしい法律を、三百年ぶりに復活してみたらどうだろう。犬、猫、鳥や魚介類だけじゃなくて、俺たち蚊や蟻の殺生も禁止するってやつ。人のほほにとまった俺たちを、パチンってやったら、島流し。俺たちの子、ボウフラも大事にするために、ドブ川の水を道に撒くのも禁止とか。君らは天下の悪法として伝えるけど、あんな善法はない。それに人間界でも最近、動物愛護の活動の人とかベジタリアンが、綱吉さんと憐みの令を、再評価し始めたそうじゃないか。エコロジーの観点からも、俺たちを絶滅させちゃ、まずいんだろう」
 私は大きなものには説得されやすいが、小さなものにはされにくい。山の中の大きな古木は、神かと思うことがあっても、道端のカタバミの花はいかに可憐でも神とは思わない。
 確かにこの蚊、いいことはいっているが、この三ミリグラムの物体を、心から尊敬することは、感覚的にとても難しかった。
 
 とはいえ、話すうちに私たちは打ち解け、互いの立場を少しずつ理解できるようになっていった。
 それじゃ、近づきの印に、一杯やろうかという話にもなり、なんと私は生まれて初めて、蚊と呑み交わすことになった。
 私は焼酎が残っていたので、それを呑み、蚊は酒を飲まないから、私の腕にとまらせ、ちょっとだけ血を分けてやった。
 ほどなく私たちは、真っ赤になった。
 蚊は、大きな真っ赤な腹を抱えながら言った。
「すまないな、こんなことまでしてもらって」
 私は豪気な心持がしてきて、
「いいんだ。気にするな」と答えた。
 
 蚊と打ち解ける気分は、新鮮だった。けれど残念なことに、蚊の腹は小さかった。私はもっと杯を重ねたいのに、蚊はすぐにダウンした。飛べないほど、血で体を満たし、目はうつろになった。
「蚊ーちゃんよ、もっと飲めよ」
 私はすすめた。
「もういいよ、勘弁してよ」
 と、蚊は断る。
 私は酒席の礼儀を知らない輩が、嫌いだ。
「腹を割った二人なら、とことんつき合うのが礼儀だろ」
とすごんだ。すると蚊は、急にきりりとして、眉間にしわを寄せて言い放った。
「礼儀は正義か。正義は真理か。勝手だな」
 私はいっぺんに酔いが醒めて、傲慢な自分を恥じて平謝りした。

 それから二週間が過ぎた。奴とは二、三日おきに呑む約束をした。
 家族ぐるみのつきあいになった。奴の家族は、やたらと多かった。相変わらず腕にとまらせ、一緒に呑んだ。
 もちろん猛烈に痒かった。痒いのを我慢していると、この友情の価値が、どんどん大きくなり、私も人間として成長できる気がした。
 もちろん、奴らがこちらの好意を際限なく利用するだけなら、すぐに私は奴らをつぶしていたかもしれない。しかし、奴らは、私の血を得て産卵できることに心から感謝の意を表し、これ以上には迷惑をかけないようにと、産児制限までしていると聞くに及んで、私は胸を熱くした。
 共存共栄。美しい時代の幕開きに、涙さえ催す私だった。

 無論、蚊との対話は作り話である。いわゆる午睡の出口付近でまどろみながら、蚊と話したような気になっただけだ。
 目が覚めると二の腕の裏がとても痒かった。実際蚊が来たて吸って行ったらしい。ツメで×してムヒを塗った。そしてその指で目をこすったものだから、目がヒリヒリ痛くなった。よくやる失敗だ。
 蚊はデング熱とのかかわりからも断じて退治すべきものである。議論を待たない。されど、やはり命。生殺与奪の権は、できたら放棄したい。
 などとぼんやり考えていたら、床を黒い物体がダッシュで横切り、部屋の隅で止まったのが見えた。ゴキブリだ。この夏、ゴキブリもたくさん退治した。ゴキジェットに手を伸ばそうとして腰を静かに浮かした。するとゴキブリがこっちを見た。見逃すことにした。
 私はいつかゴキブリとも、キチンと話す機会を持たなくてはならないと思った。

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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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