salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2017-08-25
匣の中のペット



《前回までのあらすじ 郊外電車の急行が止まらない駅近くの居酒屋の常連、祐美(若いウェッブライター)、越野(ギャンブル好きのサラリーマン)、薮本(土地成金)がある夜、近くのガード下で奇妙な空匣を並べているおっさんの話を始めた。匣の中には眼には見えないペットがいて、タダで持って帰ってよいという。そこで祐美が、その匣をもらい受けてペットを育ててみると宣言し、その夜は別れた。そして、数日後、祐美が酒場に現れ、箱をもらいペットを育てていると報告した。姿は見えないが確かにいるらしく、言葉もしゃべるという。疑心暗鬼の他の常連を尻目に祐美はそのペットとの不思議な体験を次々に語る。しかも、その晩そのペットを肩に乗せて来たと伝えたのだった。無論誰の目にも姿は見えないから、他の常連客は戸惑うばかりだった。》

微妙な空気に包まれた店内で、独り祐美だけが落ち着き払っていた。マスターも他の常連も、祐美とペットをどう扱えばいいのか、適切な答えを見つけあぐねていた。祐美がどこまで冗談のつもりか本気のつもりか判断するには、材料が少な過ぎた。そこでマスターが、あえて軽快に質問して、糸口を探すことにした。
「祐美ちゃん、ペットの名前は」
 祐美は躊躇なく答えた。
「MOSS。ガード下のコンクリート壁面に、苔が生えているから、それにちなんでM・O・S・S=MOSSにしたんです。女か男かわからないけど」
 周囲がほっとした。祐美への対処の入り口が見つかった気がしたからだ。
 早速越野が、その入口から侵入しようとした。
「祐美ちゃん、いいネーミングだね」
「クールでしょう。苔って水気がないと、ほとんど枯れて死んでしまったのかと思うほど、アウトな感じなんです。ガード下のコンクリートの壁の苔、見たことあるでしょ。下手な痛い落書きされても、雨が降らないともう、落書きも見えなくなるぐらい、ダメダメになってしまって。でも、雨が降ったりして水分が与えられると、鮮やかな緑になって劇的に生き返るでしょ。死んでいるのか生きているのか、生きているのか死んでいるのか、まあ、ほんとわからない不思議な生き物。死にそうなときには生きようとしないから、いいのかな。MOSSはそんな苔みたいな感じのとってもいい子なんです」
 入口に間違いはなさそうだと思った薮本だが、やはりその室内の様子はさっぱりわからないので、さらに祐美の心の小部屋の奥へと踏み入ろうとした。
「MOSSは、何食べるの。ペットフード」
 一同がまた固まった。まだ、そこまで不用意に入りこむのは冒険じゃないかと思ったからだ。祐美の表情にみんなの視線が注がれた。
 祐美が答えた。
「ペットフードは食べないんですよ。餌は人が食べるおいしいものなら、なんでも」
 マスターはニヤッと笑ってから、目を泳がせた。越野はひきつり笑いをし、薮本は目を丸くした。入口は正しかったようだが、その室内の様子は、誰もが想像し得ない混沌としたもののようだった。
 祐美は嬉々として話し始めた。
「おいしいものっていっても、本当にあげるわけじゃなくて、イメージ。浅草鮒金の佃煮の川えび、しそ昆布、まぐろ角煮とか、麻布青野の抹茶ぷるるんとか、自分が実際に食べたことのあるものを思い出して、おいしかったなーとイメージしながら、心をこめてあげるんです。そうすると、とっても喜ぶ顔が見えるんです。もちろん家事えもんのマクドナルド風のチキンナゲットでも、自分で作っておいしかったなと思ったやつなら、それでいいんです、安くても高くても。とにかく、心を尽すってことが大事で、いくら高いものを想像してあげても、心がこもっていないと、すぐにヘソ曲げちゃって始末が悪いんです」
 越野も薮本もマスターも、もうペットの実在の有無を解明することは、無意味だと諦め、祐美が飼い始めたペットについての詳しい性質を解明する方向にしか進めない雰囲気を受け入れたのだった。
 薮本が尋ねた。
「それで祐美ちゃん、おっさんは、大事にするという条件で、祐美ちゃんに匣の中のペットを譲ってくれたんだよね」
「そうです、そうです」
「祐美ちゃんは、今、どうやって大事にしているの」
「まあ、そういうわけで、餌あげるのも一苦労で、真心こめておいしいものあげてるんですけど、それがなかなかね、難しんですよ。桑原さんには約束したものの、いざ飼い始めると、どうすることが大事にすることなのか、さっぱりわからなくて困ってるっていうのが実情です」
 マスターが皿洗いの手を休めて尋ねた。
「桑原さんっていうの、あのおっさんの名前は」
「たぶん。わからないけど、そんな気がしたから、そう呼ぶことにしたんです」
「クワバラ、クラバラって、なんかあったよね」と薮本。
「雷除けのおまじないですよ」と、越野が入ってきて、「天のイカズチを受けないように、気をつけないとね。あまり世迷言を言いすぎて」と諌めるように言ったものの、越野が一番祐美の話にのめりこんでいた。祐美の話にどんどん引きずられていく自分が怖くなり、なんとか歯止めをかけようとしたのだった。しかし、祐美は越野を無視して、とどまる気配を見せない。
「まあ、MOSSにとってどんなことが大事されることなのかよくわからないから、私はとりあえず、できるだけ一緒にいてあげるようにしたんです」
 祐美の話はしばらく続いた。
「寝坊してすっごく慌てているときはダメだけど、最初は朝の忙しいときも、二分でも三分でも、匣から出して遊んであげたんです。そしたら、とっても喜ぶんです。それまでは一日中ずっと匣の中だったから、すっごく喜んでいる雰囲気が伝わってきて、私までなんだか楽しくなっちゃって。ところがそんなことが続くと、朝私だって結構忙しいのに、頑張って相手してあげているのに、外に出しても全然嬉しそうじゃなくなってきて。嬉しそうな素振りはするんですけど、心から嬉しそうには見えなくて。そのうち露骨につまらなそうな顔をするようになって。物足りないって感じで。だから今度は仕方なく、仕事から戻ってクタクタなときも、できるだけ外に出して一緒に遊んであげるようにしたんです。そうしたら、また嬉しそうで。私も一日の疲れが取れるぐらい嬉しくなって。でも、それが続くとまたMOSS、つまらなそうな顔になって。だから、また次のサービスを考えるようになって、そのサービスも続くとまた…。その繰り返しになってしまったんですよ。この子の満足って何よって考えるようになりました。こっちが大事にすればするほど、足りないっていう気持ちがMOSSの中で育っていくみたいで。ちょうどいいところで止まっていられないのって、文句いいたくなっちゃいました」
 祐美の話が一段落ついたようなので、薮本が尋ねた。
「そうか。いよいよ、いつも一緒、今夜も一緒っていうことになってしまったんだ。でも今の話、MOSSは聞いていないの? 気を悪くしたりしないの」
「ええ、大丈夫みたいです。今は越野さんの肩の上に乗って胡坐かいて、私の話をニヤニヤしながら聴いているみたいだから」
越野は酔いがいっぺんに冷めたように驚いて、左右の肩を慌てて確認した。
「おいおい、カンベンしてよ、オレ、実はこういう話、一番弱いんだよ」
 祐美は楽しそうに越野を安心させてから尋ねた。
「越野さん、大丈夫よ、噛みつきはしないから。ねぇ、越野さん、MOSS、どうしてあげたらいいの」
 越野は目を泳がせながらも、ちょっと考えてから、真面目に答えた。
「しつけだよ、しつけ。祐美ちゃんがMOSSをしつけるんじゃなくて、MOSSに自分のしつけ方を教えるんだ。そうしないとかわいそうだよ」
「へぇー、越野さん、なんかよさそうなこというじゃないですか。なんか、よさそう。それで…、もう少し詳しく教えて」
「まあ、俺も苦労したんだよ、こう見えても。ギャンブルはキリがないんだ。もうちょっと、もうちょっとと追いかけているうちに、必ずドーンと落とされる。あのとき、あそこでやめておけばよかったのにというのが、必ずある。でも、追いかけているときには、それがわからない。もっと当たる、もっと勝てる、もっと儲かるって、根拠のない自信に満ち溢れるんだ。すると必ずドーンと外れる、負ける、失うんだよ。MOSS、わかるかい、わかったほうがいいぞ。実はオレ、一人者っていったけど、一昨年まで女房がいたんだ。愛想尽かされて逃げられた。オレの、もうちょっと、もうちょっという気持ちのクセに、うんざりしてしまったそうだよ。オレだってうんざりしているんだけど、もうちょっとっていう気持ちが起きてくると、反省心なんて、すっかりどこかに消えてしまうんだ。恐ろしいぐらいに悲しく前向きになってしまうんだよ。負けが込んだって、信じられないぐらいに楽天的、明るい気持ちで胸が高鳴る。きっと取り返せる、必ず取り返せる。そんなときがあったよなと、まれに経験した成功体験にすがりついて、ワクワクしてくるんだ。ギャンブラーの幸福って、勝ち進んでいるときじゃないんだ。むしろ勝ち続けているときは、つまらない。不安になることさえあるよ。いつか終わりが来るって。まあ、そのとおりなんだけどね。ところが、負けているときは、いつか必ず勝てる、当たるって、吞気で当てにならない夢が、胸一杯に広がって、これがまた楽しいんだな。切ないけど、いや切ないから楽しいのかな。サラ金といつからか仲良しになった大手銀行が、誰よりも頼りになる親友にさえ思えてくるんだよ」
 祐美は目を丸くして聞き惚れ、初めて越野を尊敬したように言った。
「すごい、越野さん、初めて惚れたわ。カッコいい。カッコ悪いから、カッコいい。ごめんなさい、こんな言い方したら、いけないわ、逃げられてしまったんですものね。お気の毒だわ」
 越野は祐美にほめられて、ことのほか嬉しそうに。
「そうだよ、お気の毒だよ、まったく。でも、MOSS、わかったかな。自分をしつけること、大事なんだよ。ニンゲンはすぐに誘惑に負けるんだから。ところで、MOSSは、何? ニンゲン? それともペット? 動物?」
「MOSSは、ニンゲンでも動物でもなさうだけど、ニンゲン的で動物的なような気がするんですよ。そしてペット的」
 マスターが聞いた。
「ねえ、祐美ちゃん、今越野さんの話聞いて、MOSS、どんな顔しているの」
「はい、いい顔してますよ。越野さんを尊敬している顔。でも、奇妙に楽しそう。どうしてだろう。いたずらっぽくほほえんでいます」
 薮本が言った。
「それじゃ、祐美ちゃんと同じ表情だ」
「違いますよ、私は越野さんを、これまでとはまったく違う人として、尊敬し始めているんですから。記念すべき瞬間に遭遇した感動に、うち震えているところです」
 祐美はそういってから、急に眉間にしわを寄せて、聞き耳を立てるそぶりをした。
 マスターが尋ねた。
「祐美ちゃん、どうした?」
「MOSSが何か言っているんです。ちょっと聞いてみますね」
 一同はおし黙った。常連客以外の数名の客の声だけが、しばらくの間店内に聞こえていた。
(つづく)

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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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