salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2013-11-5
直哉少年のデイトンと切支丹坂


目白の日無坂(左)と富士見坂(右) 2010-6-24撮影

 明治の後半、今から120年ぐらい前のことになる。東京の往来を行くのは馬車ばかりで、まだ電車も自動車も走っていなかった。自転車は、主に英米からの輸入車が普及し始めていたようだ。
 イギリス製の自転車は作りが親切で頑丈だが野暮ったかった。アメリカ製は泥除けもなく不親切な造りだが、イギリス製よりもカッコよく安価なため、若者に人気があった。
 そこでかの文豪志賀直哉は学習院の中等部に上がった13歳のとき、お祖父さんにせがんでアメリカ製のデイトンを買ってもらった。そしてその後5、6年間、気が狂ったように自転車を乗り回したと本人はいう。
 麻布三河台、現在の六本木交差点近くの雑木林に囲まれた千七百坪になんなんとする広大な屋敷から、目白の学習院までの通学路7、8キロの往復はもとより、買い物や友達の家への訪問にも使い、休日には江の島、千葉への日帰りの自転車旅行も決行した。
 ちょうど同時期、夏目漱石も留学先のロンドンで自転車を習いはじめたが、直哉少年のような具合にはいかなかった。漱石の随筆「自転車日記」によれば、大きな落車5回、小さな落車は数知れず、「或る時は石垣にぶつかって向脛(むこう)を擦りむき、或る時は立ち木に当って生爪を剥が」し、「ついに物にならざるなり」とある。
 
 直哉少年をどこへでも連れて行ってくれた高性能車デイトンには、一つ大きな欠点があった。今の一般的な自転車とは異なり、ハンドル部分で操作するブレーキがない。デイトンはいわゆるピストバイクで、ペダルをこぐのを止めると後輪も一緒に止まるので、走行中に止まりたいときは、ペダルを逆に踏み込んでブレーキをかけた。
 慣れない者には危険極まりない制動システムにもかかわらず、彼が好んだのは坂道の走破だった。「登山家が何山何嶽を征服したというように、私は東京中の急な坂を自転車で登ったり降りたりする事に興味を持った」と彼は小文「自転車」に記す。
 私も東京中の坂を、あちこち自転車で昇り降りしている。その際私は、登坂においてはなるべく立ちこぎはせず、できるだけ涼しい顔で座ったまま登り切るよう心がけ、他の通行人または沿道のギャラリーがいる際には、なおさらその努力を惜しまないことにしている。そして、今はもうそんな危険なことはあまりしないが、下り坂ではブレーキをかけないこと、もしくはさらにペダルを踏み込みスピードアップすることで快感を得た。
 とはいえ、そんな遊び方のできる坂道は、大した傾きではない。東京の都心各所の本格的な坂になると、変則ギアのない私の普通車では、立ちこぎでも歯が立たない登り坂や、ブレーキをかけ続けて降りないと暴走し、とんでもない惨事を招くだろう下り坂がいくらでもある。
 目白にある日無坂とその隣りの富士見坂などは、見ただけで戦意喪失し、私はいまだに自転車による登り降りをしていない。
 学習院はこの坂の近くだから、直哉少年がこの二本の坂について触れてもいいはずなのに、前出の小文にその記載がないところを見ると、ここだけは二の足を踏んだのかもしれない。
 直哉少年は富士見坂よりさらに東に2キロほど行った所にある、今の丸ノ内線茗荷谷駅あたりの切支丹坂に、果敢にチャレンジしたようだ。まるで崖のような急峻な坂を、ハンドブレーキのないデイトンで下ったときの模様を次のように記している。
「私は或る日、坂(=切支丹坂)の上の牧野という家にテニスをしに行った帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬようにして置いて、上から下までズルズル滑り降りたのである。…中心を余程うまくとっていないと車を倒して了(しま)う。坂の登り口と降り口には立札があって、車の通行を禁じてあった。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは自分だけだろうという満足を感じた」
 明治の昔、おそらく我が祖先はテニスラケットではなくクワを握り過酷な農作業にいそしみ、デイトンの代わりにやせ馬を駆り、壊れそうな荷車をガタゴトと必死でひいていたに違いないから、私は彼のこの回想の冒頭を、心穏やかに読むことはできない。だが、急坂でブレーキをかけながら微妙にバランスをとって自転車で滑り降りるスリルと、それを成し遂げたときの喜びについては、ほほえみをもって共感することができる。
 
 それから遠乗りや坂道の遊びだけでなく、直哉少年が自転車で楽しんだもう一つのこともまた、私の趣味とだいたい重なる。それは、競走だ。
 ふだんはおとなしい穏やかな人が、自動車を運転すると人格が変わることがある。若い頃私には、車に乗ると豹変するスピード狂の友達が何人もいて、その助手席で驚愕の体験をしたことが何度かある。また、そうした友達の車に同乗し、覆面パトカーに追われて捕獲された経験もあるから、日常生活者の中の多少手荒いドライバーの車に乗ってもそれほど驚かないが、あのカメラマンの運転だけは恐ろしかった。人格が変わるとはまさにあのことで、高速で抜かれるとその度にスイッチが入り、格別な闘争本能をむき出しにして命を張った。抜かれずともちょっと後ろに接近されただけでも、相手が誰であろうと見境なく、いちいち挑発行動を開始した。日頃は人一倍低姿勢で温厚な人柄だけに、凶暴性が一層際立ち、私は二度と彼の車に乗ることはなかった。
 私はこうした性質の人たちを交通安全の面からは嫌悪し、心情的には憐むのであるが、振り返ってみれば私自身も似たり寄ったりという気がする。私の中の眠れる獅子もまた、自転車という文明の利器の利用により、目覚めることがしばしばある。
 いつものんびりと自転車をこいでいるから、おじいさんもおばちゃんも子供も皆、たいていの自転車は、私を邪魔そうに追い越していく。すると私は、なにをそんなに生き急ぐのかと軽蔑し、優越感を抱きながら、ますますゆっくりとこぎ進む。
 ところが、これが遠出となるとのんびりとした心持を失い、精神がすっかり変質する。私はにわかに他車との競走を開始する。
 他車とは信号待ちで隣り合わせた自転車の場合もあるが、もう少し若い頃は、自動車と張り合うこともあった。もちろん買い物カゴ付きの我が普通車は、自動車のスピードにはかなわないが、信号の多い道路や渋滞気味の道路では、いい勝負になることもあった。
 自動車との競走は基本的には負けるし、年を取ると危険も大きくなるのでもうやらないが、今でも自転車での長距離散歩のときに、自転車通勤の青、壮年者、あるいは長距離散策の高齢者たちが私を追い越していくと、なんとなく面白くないので、歩道に乗って車専用の赤信号を回避したり、逆に歩道の混雑を避けて車道に出て、歩道の人混みでまごまごしている相手を出し抜いてやったりすることがある。
 私のみならず長距離走行車たちは一般に、生活圏内を自転車でブラブラする人たちとは、一見してその様子を異にする。百里を行く者は九十を半ばとす、と自らを戒めるかのように懸命にペダルを踏むから、当然スピードも通常よりかなりアップする。このアップしたスピードにより他車に先んじ、そして引き離すことを、走行中の最大の幸福と感じるようになるのである。
 私は常々自分を幼稚だと思っているが、まさにそれをとことん思い知るのが、自転車による長距離走行中の競走においてである。
 直哉少年もこういっていた。
「私達は往来で自転車に乗った人に行きあうと、わざわざ車を返し並んで走り、無言で競走を挑むような事をした。時にはむこうから、そういう風にして、挑まれる場合もある」
 さらに直哉少年は自分の自転車の競走性能が相手に劣ると見るや、卑怯な手段を使って対抗した。それは上野の広小路を走っていて、背後から来た二人連れの自転車に挟まれ、競走を挑まれたときのことだった。
「その車ではもう競走は出来ないので、不意に一人の車の前を斜めに突っ切って、對手の前輪のリムに自分の後輪のステップを引っ掛け、力一杯ペダルを踏むと、前輪が浮いて、その男は見事に車と共に横倒しに落ちた。二人とも私よりは年上らしく、一人と二人では敵わないから、一生懸命逃げた」
 なかなかやるじゃないかと親しみが湧いてくる。
 私は彼ほど度胸がないから、気に障るライダーに遭遇すると、もっと陰険なやり方で相手を困らせようとする。たとえば、中高年の紳士たちのこれみよがしの高級自転車が私の後ろから、どけよとばかりに咳払いなどして追い立ててくれば、すぐに私はカッとなり、意地悪をしたい欲望を抑えたり、抑えきれなくなってしまうことがある。そこが狭い歩道なら、わざと歩道の真ん中を走って後から抜かせないように邪魔をして、もっとイライラさせてやるのだ。
 私と直哉少年の自転車ドライブ中の意識はよく似ている。しかもその似ている部分が、坂道に挑むとか、競走を好むとか、あるいは鼻持ちならない相手への好戦性とか、私のバカげた特徴との一致だったりするから、幼稚で下衆な自分を鏡で見るような思いがする。嫌な気がするとともに面白い気もして、心境は複雑だ。
 スリルとスピードと意地悪は危険なり。されど楽しからずや。桑原桑原、といったところか。

 なお、直哉少年と私の自転車にまつわる一致は、やはり自転車にまつわる大きな不一致を前提としているということも、付記しておく必要があるだろう。
 不一致とは、自転車の価格だ。彼のデイトンは、イギリス製よりも安く160円だった。160円なら私だって何台も買えるが、もちろん当時の160円には十分すぎる価値があった。彼の話によれば、10円あれば一人分の1か月の生活費になった。つまり10円は最低10万円、大卒の初任給ぐらいだとすれば20万円に相当し、160円の自転車は、160万円から320万円したということになる。今なら金満家の息子が初めて免許を取り、新車のBMBミニを買ってもらうようなものだろうか。方や私の自転車は、ホームセンターで買った1万円ぐらいの前カゴ付き普通車である。
 この格差は大いに憤りを覚える見逃せない矛盾だが、今回はそれに関して悶着を起こすことは避けて、以上をもって、百年余を隔てて巡り合った自転車仲間、志賀直哉少年のご紹介とさせていただく。
 
 さて、こうなればもう切支丹坂に出かけるほかはない。ブレーキをかけてズリ落ちながら、小癪な直哉少年を偲んでみたくなり、台風一過の晴れ渡る青空の下、切支丹坂を目指した。
 しかし現地に着くと疑問が湧いてきた。現在の切支丹坂は、直哉少年の降りた切支丹坂ではなさそうだった。「坂の登り口と降り口には立札があって、車の通行を禁じてあった」というほど急ではなかったからだ。
 では、目指すそれはどこにあるのか。切支丹坂の坂下から、逆方向の小石川台地へと登る坂、庚申坂(こうしんざか)が怪しい。なぜなら、庚申坂は極めて急峻で狭く、直哉少年が苦労して降りた坂のイメージにピッタリ重なるからだ。そして、庚申坂を登り切ったところに、坂の由来を示す立札があり、次のように書かれていたことも、その証左となるだろう。「この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名は“庚申坂”昔坂下に庚申の碑あり」。この一文は、明治の中ごろ、ちょうど彼が坂を下ったときより、少し前に出版された東京の名所ガイド『東京名所図絵』からの引用である。すなわち、庚申坂は当時切支丹坂と通称されていたことがわかった。
 まあ、どうでもいいことだけれど、なるほどこの坂を300万円のピスト自転車で降りてきたのかと思うと、さらにその馬鹿さ加減にリアリティーが増し、なるほど世紀を代表する文豪の根性は見上げたものだと、今ではコンクリートで固められ、階段と手すりがつけられたその坂を、感慨深く見上げる私だった。


私が自転車での走破をためらう目白の富士見坂。坂下から見たところ。 2013-10-27撮影


志賀直哉少年がデイトンで降りたと思われる庚申坂 2013-10-26撮影


現在の切支丹坂。それほど急ではない。 2013-10-26撮影

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1件のコメント

志賀直哉、学生時代読みました。
最近の方は読まないのかな?

東京都心は、結構坂道が多いですよね。
写真を見ると、何だか東京に帰りたくなります。

by うらちゃん - 2013/11/30 9:02 AM

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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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