2013-09-6
風立ちぬ いざ生きめやも
コラージュ etsu
暑い。仕事場の寒暖計は、今日も午前十時から32度を突破した。築60年の公団住宅の私の仕事場にクーラーはない。電気をできるだけ使わないようにしているのは、決して原発への面当てではなく、火力発電によるCO2の増加を食い止めるため、という理由もないではないが、主な理由は、クーラーが嫌いだからだ。
とはいえ、さすがに32度を突破し、33度に達する所まで行くと、その中で仕事を続けることは困難で、仕事場を飛び出し、自転車で涼を求めに出かけることも少なくない今日この頃である。
今日は調べものもあったので、自転車で20分足らずの武蔵野図書館に出かけることにした。武蔵野市は吉祥寺のある文化地域で、吉祥寺駅周辺にはしばしば楳図かずお先生が出没するなど、非常に民度が高いせいか、温暖化への配慮も行き届き、武蔵野図書館は弱冷房に抑えられ、はっきりしない涼しさ?暑さ?に気分が悪くなり嫌気がさして、図書館からもすごすごとしっぽを巻いて逃げ出すことになった。近くのスーパーいなげやの鮮魚売り場に行けば、お年寄りがカーディガンを羽織るほど涼しいのはわかっているが、そこで仕事の想を練ることも、パソコンを打つこともままならず、仕方なく図書館からほど近い、武蔵野中央公園の木陰のベンチに向かうことにした。
公園のベンチは幸いすべて空席だった。暑いからだ。それでも雑木林の木陰のベンチに腰を下ろすと、かすかに涼しい風がそよいでいた。見上げる蒼空には純白のはぐれ雲がいくつか浮かんでいる。雲はいいなと思いながら空をぼーっと眺めていると、視野の中を、鳥かセミかトンボか、飛行物体が横切った。物体が降下した先、公園中央の広い芝生のグラウンドに視線を向けると、それを拾う老人がいた。
紙ヒコウキだった。この公園では、週末、ウィークデイを問わず紙ヒコウキの愛好家が集結し、手製の紙ヒコウキを空高く飛ばす。大会も開かれたりする。今この地にあるのは、トンボさえもおどかさない紙ヒコウキだが、68年前、ここ武蔵野中央公園には、戦闘機、零戦を作る工場があった。
第二次世界大戦中アメリカは、世界屈指の俊英機零戦の製造工場を壊滅させるため、日本本土空襲に飛来したB29が真っ先に向かった攻撃地は、この武蔵野中央公園とその周辺に広がる中島飛行機だったと伝えられている。合計11回の空襲が行われたそうだが、昭和20年、1945年7月24日の空襲だけでも、B29爆撃機が78機飛来し、250キロ爆弾などを約2140個を投下したらしい。
おかげで幼い頃もこの周辺に住んでいた私の少年時代は、町のあっちこっちで毎月のように、自衛隊の不発弾処理隊が出動し、土中にめり込んだ不発弾を掘り起こす光景が、日常的に繰り返されていた。
ジブリ美術館は吉祥寺にあり、私の仕事場から東南に自転車で30分余りだ。武蔵野中央公園からなら、自転車で10分で行ける。また、ジブリ美術館のすぐ近く、玉川上水に架かるむらさき橋を渡る道路の途中には、ジブリの商品開発部の事務所がある。この事務所は、桜並木の歩道にそって立ち並ぶ住宅街の中にあり、他の住宅とあまり変わらぬ大きさとたたずまいの二階建ての建物だ。ただし、他の住宅とまったく異なる部分があり、いかにもジブリジブリしているから、すぐにわかる。緩やかに傾斜する二階の屋根全体に草が生えている。天気の穏やかなときには、何人もの所員がここに登って、のんびりしているのが見える。丘の上の草原といった雰囲気でうらやましい。
また、ジブリの本部も私の仕事場から西南西に二十分余りの所にある。宮崎駿さんが仕事をしている場所だ。こちらはいかにもアニメスタジオといった景観で、ガラス窓の多い建物全体にツタがからまり、壁面が見えないほどだ。
私の仕事場のロケーションは、きっとジブリファンにはたまらない場所で、自転車によるジブリツアーを企画して、青少年から金品を巻き上げようと思ったりもするのだが、私はジブリファンではないから、ツアーを実施する予定はない。
前置きが長くなった。このジブリが今度は「風立ちぬ」という長編アニメを作り、話題となっている。本当に話題になっているのか、話題となっていることにしているのかはわからないから、軽々しく首を突っ込むのは気が引けるが、少なくとも昨夜の我が仕事場では話題に上ることとなった。
昨夜の来訪者は、40代の男性ジャーナリストだった。「風立ちぬ」を見たという。積極的な賞賛の意向はないようであった。
宮崎駿さんの「風立ちぬ」は、零戦を設計した人をモデルにした物語だ。この長編アニメに対する毀誉褒貶(きよほうへん)は、すでに内外問わず始まっているが、私は見ていないから、何も言う資格はない。
しかし、戦後この国が零戦に対して、これまでどのような姿勢を貫いてきたかということは、市井の片隅で体験しているので、それについては少し言うことができる。私は少年の頃、1960年代、建築現場に落ちている角材の端キレなどを拾ってきては、小刀で零戦を彫っていた。太平洋戦争が終わり、20年ぐらい経過した頃のことである。プラモデルも普及していたが、少年の私には高価で、正月のお年玉でようやく買える程度だった。バルサという柔らかい工作木材で、巧みに機体を切り出し、紙やすりをかけ、ラッカーパテで表面加工し、水やすりで磨き上げ、最後に色彩を施して、本物そっくりの零戦を作る中学生がいて、彼は卑怯な不良だったが、その点に関してのみ私は、彼に尊敬を禁じ得なかった。零戦という世界を驚嘆させた優秀な戦闘機に対する崇敬の念が、巧みに零戦を作る中学生への敬意の大部分を占めていたことはいうまでもない。
それとともに戦闘機雷電、あるいは戦艦大和などなど、軍国少年さながらに、私もしくは私の同世代の子供たちの情熱が、かつての兵器に向けられていた。靖国神社に今でも展示されている人間魚雷回天も、当時私たちの少年雑誌に掲載され、もてはやされたため、私はまったく無批判に回天とその使命について、誇らしく思うばかりであった。その悲劇性の記述もあったはずだが、私の誇らしい気分を損なうほどの力はなかった。戦艦大和の悲劇にしてもしかり、零戦による神風特攻隊にしても、同様に勇ましいという印象が、私たち少年の心を確実に支配していたといえるだろう。
国を守ろうとした人々の決死の覚悟に、どんな疑義をさしはさむことができるのだろう。少年たちは、その勇ましさに胸を打たれ、その勇ましさを演出したテクノロジーに、賞賛を惜しまなかった。父や母の肉親が、縁戚が、朋友が戦火の犠牲になったことを知りながらも、戦争を美化する勢いは止まらなかった。戦争がまるで天気のような自然現象であったかのような、不可避なものであったというか、避け得る余地など想像さえもしなかったというのが、私たち少年に施されていた市井の教育環境であり、それを取り立てて咎め立てする大人は、少なくとも私のまわりには見当たらなかった。
その夜ジャーナリストと私は、テクノロジーの発達と人々の幸福について考えた。古くはノーベル、そしてアインシュタインの後悔について思い出しながら、政治家やデス・マーチャントの責任はもちろんのこと、科学者や技術者の良心に関しても、視野に入れて話した。科学技術や道具は、常に諸刃の刃だ。それにより、禍福、どちらを生ずるかは、使い方、運用の仕方の問題である。したがって科学者や発明家は、その責めを受けない。というのが、現代の賢者、常識家たちの一致した見解だが、そうなると、ノーベルもアインシュタインも馬鹿か、ということになる。彼らの反省は愚であり、零戦の完成も是ということになる。
美しい飛行機が作りたかった。けれど、軍部が主導した時局により、それが殺戮兵器となり、仕舞には、神風特攻隊の乗り物となった。仕方のないことである。
「でも、なんでも仕方がないですませるこの国の無責任体制によって、ぼくの父親はインパール作戦に駆り出された。傷病兵や餓死者を見捨てて、その末期のうめきや叫びを聞きながら退却を余儀なくされ、英軍の捕虜となりました。そして、去勢されるという噂の恐怖にたえ、命からがら帰還した父は、その後もずっと毎晩のようにうなされ続け、恐怖に震える声、発狂したのではと思われるような叫び声を、ぼくは幼い頃からずうっと聞いて過ごしました。当時は神経質な父親の性質の一つとしか考えなかったけれど、あれはきっと戦時に受けた精神的な打撃の後遺症に違いありません。また、父はすでに鬼籍に入っていますが、生前献体を申し出ました。子供としては、医学の発展のためとはいえ、反対しました。しかし、父から献体の理由を聞いて、不承不承認めました。その理由とは、こうでした。『若い傷病兵は、あの見知らぬジャングルの中で、みんなお母さんといって死んで行ったんだ。天皇陛下万歳なんていう人は、誰一人いなかった。自分だけが生き残り、安穏と暮らして、人並みに葬られることなんて、できないんだ』。利己的で身勝手だと思っていた父から、まさかそんな理由が聞かれるとは、思いもしませんでした」
私はジャーナリストにそう訴えたものの、やはり研究者や技術開発者や発明者を責めるわけにはいかないだろうと思った。彼らは自らの好奇心や探究心に誠実だったに過ぎないのだから。とはいえ、彼らが自責の念に駆られることがないとしたら、それはやはりおかしいと思うのだった。
私はある時期、殺戮が大好きだった。振り返れば鬱屈してやりきれない思いを抱えていた頃、蟻に対して、その他の昆虫に対して、無益な殺生をどれだけやったか知れない。水攻め、火責め、薬品攻め。殲滅すると気分がすっきりした。それが私の隠せない特徴のひとつであり、もしかすると、誰にでも発現し、ある究極の条件下で昆虫ではなく人に向かう残虐性は、人間の共通した心性の一部だと考えることもできる。
人は平和を望まない。命を限りなく軽く見る。その結果本当は、人が何百万人、何千万人亡くなろうと、悲しくはない。場合によっては気持ちいい。
それがもし人間というものの正体の一部だとしたら、研究者も技術開発者も、その事情を踏まえて、自らの仕事の方向を決めることが必要になるだろう。
ノーベルとアインシュタインの反省の所以が、ここにある。
宮崎駿さんが、技術開発者の苦悩に、どれだけ正しく迫ったか。あるいはモデルとなった人物の苦悩の質はどうだったのか、そのあたりに、昨夜のジャーナリストは、不満を覚えたのかもしれない。
ジャーナリストは別れ際、これまで書籍を二冊書いたと、控えめに教えてくれた。その一冊は、『ヒトラーの特攻隊――歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち』である。ヒットラーは政権の終末期において、日本の特攻隊を真似て、特別攻撃隊を組織した。ジャーナリストがヨーロッパで特派員をしているときに、ヒトラーのその攻撃隊の生き残りの兵士を取材してまとめた本だという。
一説では600万人、他説では1000万人余。無辜の人々の命を奪った人類史上最悪の男。そしてこの男の暴挙を皮切りに世界へと戦火が広がり、6000万人もの世界の人々が無意味に亡くなった。その中の一人には私の叔母もいる。この男とその特別攻撃隊と神風特攻隊と零戦と中島飛行機とジブリと「風立ちぬ」が、武蔵野中央公園の上の青空を飛ぶ紙ヒコウキの向こうに見えた。
私は研究者や技術者や大日本帝国の主導者たちやヒットラーを謗(そし)る前に、自分にも巣食う残虐性を見定め、さらにていねいにそれと向き合う必要があると思った。
手元に古い文庫本がある。日焼けが強く歳月を物語る。奥付を見ると昭和48年、40年前の出版だ。堀辰雄の『風立ちぬ』。タイトルページの裏には、
「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.* PAUL VALERY」とある。
*は注で、この訳を次のように示している。
『本文には「風立ちぬ、いざ生きめやも」とあるが、作者が他の場所で書いた「風が立った。……生きなければならぬ」のほうが、原詩に近い』
なるほどとなんとなく納得したものの、そもそも「生きめやも」とはなんだろう。日本語に詳しくなく、特に古い日本語に弱い私は、人の力を借りる。すると、「生きめやも」は「生き」+「む(推量の助動詞)」+「やも(助詞『や』と詠嘆の『も』で反語を表す)」と分解でき、直訳すると、「生きるのかなあ。いや、生きないよな、死んでもいいよな」であり、生きることに消極的な表現らしい。
フランス語の専門家は、堀辰雄の誤訳と冷笑するが、私にはこの小説の内容にはふさわしい言葉だと思える。
風が吹いてきた、さあこれから元気に生きよう、というのではなく、生きようか、どうしようか、やっぱりやめようかな、と思う。そんな後ろ向きのいじましさの中に、人の弱さをにじませて、弱いから寄り添うことの必要を訴えたのだと、私は解釈する。
弱さは恰好悪いから、勇ましさで覆いたくなる。悪の旗印はいつも正義だ。勇気と正義の果てに殺戮があり、殺戮の末に孤立、孤独が待ち受けていた。
この研究を推し進めることが、いいことなのか悪いことなのか。この技術は果たして人間を幸福にするのだろうか、しないよな、やめておこうか……。どっちつかずにいじましく懊悩する研究者、技術者が、この国の未来には必要なのではないだろうかと、自転車を止めてベンチに座り、白雲浮かぶ蒼空を舞う紙ヒコウキを眺めながら、思った。
『ヒトラーの特攻隊 歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち』
三浦耕喜 著 作品社 刊 2009年 本体1800円
2件のコメント
元技術者の私だから言うのですが、技術開発者って、ある意味とても偏った人間だと思うんです。偏っているからこそ、こだわり、没頭し、それがギューッと極まった時に結晶が生まれる。今じゃ、そんな偏った人は雇ってもらえませんけど、昔は違いました。
もちろんそれを創ることが、どのような結果をもたらすかということに責任がある、ということに異論はありませんが、それを想像することができないという「特性」ゆえに、類いまれな技術開発者が成立するのです。そして、技術開発中の没頭状態というものは、それを経験してない人には理解できません。
宮崎駿の「風立ちぬ」は、その技術者たちの特性を見事に描いていました。元理系の学友達と観に行って、あまりのリアルさに大受けしました。
モデルの堀辰雄とどのくらい近いのかは関知しませんが、映画の中の主人公のあの「他人への想像力の無さ」「ある種の子供っぽさ=純粋さ」それ故の悪気のない「無責任さ」「残酷さ」「ちぐはぐなコミュニケーション」、、、、それは、恋人「菜穂子」に対する言動にも全くそのまま表現されていて、人物像として「ブレ」がありません。そういう人間に、当時の日本や戦争が、どのように見えていたか?、それがあの映画そのものなんだと思います。あの主人公には、「あのように体験された」なのです。そんな技術開発者は要らない? いえいえ、それは蜂蜜は欲しいけど蜂は認めません、と言っているようなものです。だから養蜂する人間が必要なんです。宮崎駿は、それをよくわかってるんだと思いました。
だから、戦争責任や人間の残虐性の話はいいとして、そこにあの「映画」を持ち出して、「技術者の苦悩」という話の展開は、違うんじゃないか?と思いました。
”ジブリばか”の私は、いい映画だと思いました。
私があの時代に生きていたら、
震災と戦争をどう感じどう生き抜いていたか、
なんて事も考えたりもしましたが、
あの作品は好きでした。
禁煙協会の訳のわからないクレームには、
何だかなぁ・・・・、とため息が出ましたが。
武蔵野図書館、武蔵野公園など懐かしい地域が出てきて
嬉しかった。
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