salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2013-06-1
1Q84と原子核研究所と
ツムちゃんのウンチ



原子核研究所跡地いこいの森公園の水飲み場と址碑 2013年5月22日撮影

 余暇の健全なつぶし方のひとつに、「炒豆(いりまめ)を噛(か)んで古人を罵(ののし)る」という方法がある。荻生徂徠(おぎゅうそらい)がこれを発明し、夏目漱石や芥川龍之介が賛成したようだが、なるほど存命中の方々を批判するのは、なにかと差し障りがあり、場合によっては命がけとなる。
 だから私も梅干しの種をかみながら、ひたすら自転車を漕いで、心のモヤモヤを運動エネルギーに変換するのであるが、やはりちょっとは、同時代人にも悪口を言ってみたくなることがある。

「どうですか、今度のムラカミハルキの小説、色彩を持たないなんとかは、読みましたか」
「いや、まだだ」
「初版100万部」
「ふーん」
「そんなに売れる本は、どうせつまんないんでしょうね。アッ、でもHさんは、1Q84は面白かったって、言ってましたね」
「うん、それなりに面白かったよ」
 Hさんは雑誌編集者であり、作家である。今はほぼリタイヤし、印税で細々と暮らしている。Hさんが雑誌編集長の頃に発掘した作家がその後名を上げ、今やメジャーな文学賞の審査員を務めるようになった人が、何人もいる。
 つまりHさんは、たいていの作家に恐縮する立場になく、むしろどちらかといえば、たいていの現代作家に辛口だった。にもかかわらず、ムラカミハルキに好意的な理由はなぜか。本当に面白いと思っているのか、怪しんだ。
「そうですか、やっぱり面白いですか」
 私はあえて残念そうに言った。Hさんの舌鋒の冴えを期待しているのに、どうしたんですか、というメッセージを暗に込めた。
 Hさんは、面白いとする根拠は言わず、別な話を始めた。
「Dを知ってるよね。この間久しぶりに会ったんだ」
「はい、Dさん、Hさんの雑誌で連載をしていた」
「そう、今、ある女性に食べさせてもらっている。書く仕事はない」
「立派なことじゃないですか。それも甲斐性ですね」
「まあな、オレも老舗旅館の婿養子、バカ旦那というのが、理想だったからな」
「で、Dさん、ムラカミハルキを…」
「そう、ボロクソに言うんだ。それを聞いていたら、憐れになってな」
「そうでしたか」
「オレも、ああいう風に見られるのかと思ったら、悪口は言わないようにしようと思ったんだ」
 Hさん、七十を目前に控えた大悟にしては、いささか迫力に欠けると思われたが、なかなかチャーミングですがすがしくも感じられた。
「どうだい、読んでみるか」
 Hさんが、1Q84のBOOK1を貸してくれた。
「あとのやつは人に貸していて、今ここにないんだ。もし戻ったら、今度また渡すよ」
 私はきっとBOOK1も読み切ることなく、途中で投げ出すと思っていたから、続刊の行方については、あまり関心がなかった。

 原子核研究所の跡地にできた「いこいの森公園」の木陰のベンチで、1Q84を読み始めた。世界のムラカミ作品を原子核研究所で読む。これほどふさわしいロケーションはないのではないかと、大した根拠もなく、なんとなくそう思って悦に入った。
 分厚い本を開くと見返しの色は、初夏の公園の下草の若々しい緑に似て、さわやかだ。しばらくムラカミ作品は読んでいなかったし、自分も人間的にもブンガク的にも向上しているかもしれないし、Hさんも悪くないと言っていたし、なによりもムラカミハルキはノーベル文学書最右翼と目される存在になったのだからと、いつになく期待が膨らんだ。

「ここは見世物の世界 何から何までつくりもの でも私を信じてくれたなら すべてが本物になる」

 巻頭にこの言葉。これは何を意味するのか。いきなり自信がないのか。私を信じてもらえないと、リアリティが生まれませんという意味にもとれる。それとも、いかにも見世物と感じられる世界が、実は現実の正体であるということを、私が解き明かして進ぜようという自信なのか。どっちでもいいから、面白いことだけを願いながら、前に進むことにした。
 すると本文の冒頭から、「青豆(あおまめ)」である。主人公らしき若い女性の奇異な苗字だ。私はこのショックから立ち直れないまま、読み進むと、「ふかえり」という、俗臭の強い愛称の少女、「空気さなぎ」というどうしてもなじめない小説の名。私の未成熟で狭量で保守的な趣向や感受性は、すでにうちのめされ、ダウンしてテンカウント中にもかかわらず、累計300万超部の販売=読者、応援者を背にした彼は、執拗に私にパンチをあびせかけ続けるのであった。ムラカミワールドは健在だった。

 数十ページを読んだところで、私はひと息つくことにした。五月、木陰にいなければやや暑いほどの初夏の日差しだった。今年はハナミズキもすでに終り、公園の花のカレンダーは例年より、ひと月近く早くめくられていた。緑の深さを増した木々の葉は、五月の昼下がりの日差しをはねかえし、輝いている。
 さて、このままムラカミワールドの探検を続けるか、もうやめにして、東村山の北山公園にでも行って、菖蒲の花の開き具合を調べに行こうか迷っていたら、遠くから小学生の声が聞こえてきた。
 まだ昼過ぎ。週末でもないのに、どうしてこんなに早く下校するのだろうといぶかりながらながめていたら、ちっちゃな小学生たちが、大きなランドセルを背負い、二、三人ずつのグループになり、こちらにどんどん近づいてくるのが見えた。小学生たちは、明らかに一年生だった。つい、先々月までは、幼稚園や保育園に通っていた連中だ。
 私は、しまったと思った。私の居たベンチは、公園の入り口近くにある小学校と、公園脇の巨大な高層マンションへと向かう公園内の通路添いにあったから、しばらくの間、彼らの自由奔放な下校騒動に、巻き込まれるハメになったのである。もはや1Q84を読み進めるべきか否かを迷う必要はない。しばらく読書は不可能となった。

 予想通り小学一年生たちは自由だった。ワーとかキャーとか、歓声、奇声を上げながら、女の子が男の子を追い回したり、その日の出来事を楽しげに話し合ったり、小枝を振り回してチャンバラしたり、あるいは、沿道にある水飲み場の噴水式の噴出口を指で押さえ、男の子にかけ始めた勇ましい女の子もあらわれた。斜めに飛び出した水は、弧を描きながら中空で飛散し、青空を背景に七色の虹の橋がかかる。その橋の下を男の子たちが嬉しそうに濡れながら、次々に走り抜ける。
 自分も一緒にまざって遊びたくなった。子供はやっぱり面白いなと思ううちに、もう一つ、子供たちに期待をかけた。
 水飲み場関連ではしゃいでいる一団とは別に、二、三人ずつの塊が、私のベンチの脇を、次々に通り過ぎていった。ある者たちは、縁石を一本橋のように辿りながら、ベンチに座る私にはおかまいなしに接近し、私をかすめて通り過ぎていく。その際、彼らの話の内容がよく聞こえた。聞いているうちに、これだけ一年生がいれば、ぜったいあの話題を口にする子たちがいるに違いないと期待した。
 するとほどなく期待がかなった。私のベンチのすぐ後ろを、男の子二人が通り過ぎていったとき、ハッキリと耳に届いた。
「きょう、茶色いウンチ作ってさ」
「エーッ、ウンチかよ」
 この年頃は、ぜったいウンチ話が好きなのである。

 私は誤解されてもかまわないから言うと、「ざわざわ森のがんこちゃん」が好きだ。20年近く前から続いている、NHK教育テレビの小学校1、2年生向け番組である。ざわざわ森に引っ越してきた恐竜一家と森の仲間たちの物語で、主人公は恐竜のガンコちゃん。一本気でやさしく、破壊力のある女の子だ。昔は欠かさず視聴し、今もたまに見る。
 見るたびに面白いが、深く記憶に刻まれた名作は、カタツムリの女の子、ツムちゃんが主人公になったときの回だ。繊細で心優しく、とても恥ずかしがり屋で、よく殻の中に隠れてしまう。そんなツムちゃんが校庭の端の草むらで、自分の殻より大きなウンコをしてしまった。みんなに見つかったら恥ずかしいと思いツムちゃんは、草むらから一歩も外に出られなくなってしまったのだった。ツムちゃんが見当たらなくなったので、ガンコちゃんは心配し始めた。いろいろ探し回ってようやくツムちゃんを発見。ガンコちゃんは、どうしてそんなところに隠れているのと、ツムちゃんに聞いた。ツムちゃんは、仕方なく事情を話した。するとガンコちゃんは、なーんだそんなこと気にすることないよと、ツムちゃんを励まし、ツムちゃんが気を取り直し元気になるというお話。たわいもないが、自分の殻より大きなウンチをしてしまい、悩んで動けなくなったツムちゃんが、とてもかわいらしかった。

 しかし、と思った。ざわざわ森を包む、あの得も言われぬ清涼感、透明感は、なんだったのか。あらゆるパラダイスに潜む寂寥感に類するものにも思われたのだが。ちょっと気になり調べると、ざわざわ森の成り立ちが紹介されていた。
 それによるとこうである。
 環境汚染の影響によって、一部の場所を除いて地球の自然は壊滅状態となり、すべて砂漠化し、人類はすでに絶滅。そんな地球では、かつて人間による遺伝子操作によってつくられた高度な知能を持つ動物たち、恐竜、サソリ、カタツムリ、キノコ、木、河童などが、人類に代わって地球で文明を築いていた。「ざわざわ森のがんこちゃん」は、自然が失われた都会から、まだ自然が残る「ざわざわ森」へ引っ越してきた恐竜一家と、その仲間たちの物語だ。

 ざわざわ森とその仲間たちの物語が、哀しいほどにきれいに思えたのは、そんな設定のせいかと、半ばふざけ気分で独りジーンとしていたら、ふとあの日のことが脳裏をよぎった。
 あの3月11日、私はこの原子核研究所跡地にほど近い、コープ二階のダイソーに居た。経験したことのない強烈な揺れは、コープ周辺に林立する二十数階建ての巨大なマンション群をも軽々とゆさぶり、しばらくの間、私は歩行どころか、直立する能力さえも奪われ、しゃがみ込む以外に方法がなかった。しかし、揺れの最中は、怖くはなかった。恐怖を感じる余裕さえもなかった。
 そしてその夜、津波のことを知った。さらに、福島のことも。
 私の心に、東北の太平洋沿岸の小学生たちの下校風景が映し出された。私はそれ以上の想像力を働かせることをやめた。

「天災は忘れたころにやってくる」で知られる明治生まれの物理学者、地震学者、随筆家の寺田寅彦は、「津浪と人間」という文章の中で、次のように言っている。
「昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる『三陸大津浪』とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。 
 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。」
 警鐘は乱打されていたのに、「人間界の人間的自然現象」が、3月11日、また繰り返されたのである。

 しかし、昔はもう少しマシだったと、寅彦は言う。
「昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。それは実際いくらか考えばえがする世の中であったからかもしれない。それでこそ例えば津浪を戒める碑を建てておいても相当な利き目があったのであるが、これから先の日本ではそれがどうであるか甚だ心細いような気がする。…(略)…しかし困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟(ひっきょう)『自然の記憶の覚え書き』である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
 それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。
 こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう。」

 加えて寅彦は、今後も三陸だけでなく、太平洋沿岸すべてで、十分用心すべきだと強く訴える。
「津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される『非常時』が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。
 それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。
 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然法則であるように見える。」
 良い国の条件は簡単だ。子供たちの下校時間を安全にすればよい。楽しいあのひと時を、どのような脅威からも守らなくてはならない。
 それなのにまた、「人間界の自然法則」が力強く働きだし、「安全宣言」が各所で乱発され始めている。

 結局私は1Q84を読破することはできなかった。BOOK1の237ページまで。しかし、この物語が現代の深層に潜む暗部=悲劇をとらえようとする、壮大な試みであることを知った。そして、私たちの社会に生成される下卑た物語の捏造が、私たちの感受性を破壊し続ける元凶の一つなのだろうと感じた。破壊された感受性は、ウンコ話にいそしむ小学生のパラダイスを、危険にさらすことの正当性を言い張るずる賢い連中のヘリクツを、うっかり信じるようになる。というより、他人のことなんてかまやしないという、私たちの誰もが持つ残酷な本性の一部が、堅固な拠り所を得ることになる。

 1Q84は1984のパラレルワールドだという。
 私は若い頃、パラレルワールドを想像したことがあった。
 道を歩いている。交差点を右に曲がる。左に曲がる。まっすぐ行く。引き返す。どの選択肢もあるとき、すべての選択肢ごとに、別な私の運命が進んで行くのである。そうした日常的なことはもちろん、就職、結婚などなど、重大な選択肢においても、選択肢ごとに別な運命、人生が展開されることになり、それらは同時に進行して行く。運命は分枝し分枝し、無数の私の運命、人生が、同時に進行しているのだ。ただし、それぞれに分枝した運命、人生に居る自分は、他の自分と交信することはできない。唯一の交信手段は夢であり、胡蝶の夢は、まさにパラレルワールドの存在を指し示している。
 そんなにたくさんの無数の世界が、いったいどこに存在できるかというと、四次元の世界に収納されている。私たち三次元の世界に居る者は、二次元のものを無限に収納できる。同様に、四次元の世界が三次元の世界を無限に包括し得る。そんなことがあるなんて、証明できないが、ない、とも証明できないだろう。
 なにやらムラカミハルキめいてきた。
「私を信じてくれたなら すべてが本物になる」という流れになってきた。
 ともあれ私は私を信じることにしよう。2Q11.3.11では、子供たちは、例の話もまじえて歓声を上げながら、無事に下校を終え、その晩も安らかな一家団欒を迎えたのである。
 そもそもあの日あの時、時空に大きな歪(ゆがみ)が生じて、異界への旅を始めたのは彼らではなく、実は私たちだったのかもしれない。

 1Q84は、来週Hさんに返しに行くつもりだ。そのとき感想をどうしよう。あの日のことやパラレルワールドのこと、東北の子供たちは別の世界でひとつも傷ついてはいないこと、そうした話は胸にしまっておこう。1Q84の感想はうやむやにして、すぐに別の本の話をしよう。
 別な本とは、「あかべこのおはなし」という絵本だ。児童文学者だったHさんの父さんが、三十数年前に出した本で、このほど復刊された。磐梯山近くの民芸店に並んでいた赤ベコが、磐梯山に魅了されて登りたくなり、歩き始め、登り切るという物語だ。磐梯山と会津の自然が美しい。
 寅彦言うところの昔の経験を馬鹿にする人間的自然現象が奪った会津の自然について、あかべこは語らずして、そのすばらしさを教えている。
「来週には、あかべこのおはなしが、もう一冊出版社から送られてくるから、進呈するよ」とHさんは言っていた。
 1Q84もムラカミさんも、ありがとう。
 でも、今はあかべこのおはなしのほうが楽しみだ。
 

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1件のコメント

村上春樹さん、
ノルウェーーの森が出版された頃(20年ほど前か?)
ブームでもあったので読んだが、
私にセンスがなかったのか、よく解らなかった。

本屋さんに行く度にその本を横目で見ながらも
他の本を手にしている私です。

今だったら、きちんと読めるかな?

by うらちゃん - 2013/06/20 4:11 PM

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コメント


中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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