salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2013-05-1
面白い話


深大寺付近 2013年4月27日撮影

面白い話をするので、笑う準備をしていただきたい。
「道の向こうから真っ白な犬が歩いて来ました。…以上」
私の唯一の小噺(?)のネタで、たまに笑ってくれる人もいるが、だいたいキョトンとされて、「尾も白い」とネタをばらしても、ますます途方に暮れ、やがて私を気の毒そうに見るのがオチである。
では、驚くほど速く飛ぶ昆虫は何? ハエ(速えー)。砂漠で水を欲しがっている生き物は何? ミミズ(み、み、水)。この二つは、子供になら通用することがあるクイズネタ。
そして、替え歌の持ちネタは、サッちゃんだ。
元歌は、自分のことをサッちゃんと呼ぶサッちゃんの愛くるしさを歌ったものだが、替え歌は、このようになる。
「サッちゃんはね、ヨシコっていうんだほんとはね。だけどちっちゃいから自分のことアケミって呼ぶんだよ、おかしいなミッちゃん」
誰なんだ! という歌だ。

私はなぜ自転車に乗って街をブラブラするかというと、ひとつには、面白いことをたくさん探せるからだ。小噺や替え歌を覚えるより、もっと楽しい。
新学期。ちょっと大きめの制服を着た新小学一年生の女の子が二人、話しながらの帰り路。その後ろから、また別な女の子が、大きなランドセルを揺らして、ものすごい勢いで走って来る。気配を感じた二人は振り返り、「あっ、○○ちゃん」。○○ちゃん、呼び止められて急ブレーキ。「どうしたの? 何急いでるの?」と二人。○○ちゃん、足踏みを止めずに、「なんか、走りたくなったの。じゃあねー」というと、すぐにまたすごいスピードで走り去ってしまった。茫然と後ろ姿を見送る二人。そんな日が自分にもあった。

あるいは、高校の近くの曲がり角。自転車で下校中の女子高生、外見はちょっとやんちゃな二人組が、話しながら角を曲がろうとすると、逆側から勢いよく走ってきたハンサムな若い男の子と女の子の一人がぶつかりそうになった。女の子も男の子も二人とも運動神経がよく、瞬時に大きくハンドルを切り、道を譲ろうとする。が、不運にも大きくよけた方向が一致し、ガシャン。倒れるほどの衝撃はなく、男の子が気まずそうに女の子を見て、無言でまた自転車を漕ぎ始めて遠ざかると、もう一人の女子高校生が、からかうように男口調でたしなめた。「何やってんだよー」。するとぶつかった子が負けじと、「うっせーなー」などと、粗野な言葉で応酬するかと思いきや、明るくお茶目に言い放った。「やさしさとやさしさが、ぶつかっただけじゃん」。

たまたま駅の近くで、携帯の着信を確認するために、自転車を止めたときのことだった。昼下がりのガラーンとした駅のホームで下り電車を待つ、私立の制服の小学校高学年のお姉さんと、低学年の弟がいた。弟は新一年生か、まだ通い始めたばかりの様子。「ねぇ、まだ、こないのー」。待ちくたびれて、甘えた声でぐずる。するとお姉さん、毅然した口調で、お母さんのように。「わかった、じゃ、お話をしてあげるから、我慢しなさい」。弟、嬉しそうに「うん」。お姉さん、「おばけがお皿をかぞえ始めました」。昼下がりの明るいプラットホームで、まさかのおばけ話。弟、怖そうに、楽しそうに、「おばけ?」。お姉さん、ホーム中に響き渡る大きな声で、さっさと話を進めた。「もう一度言うよ、おばけがお皿を数え始めました。お一枚、お二枚、お三枚、おしまい。はい、おしまい」。弟は、キョトンとした顔をして、やや間があってから、やはりホーム中に響き渡る声を発した。「エ゛ッ!」

夕暮れ、街外れの裏道で、こんな親子に遭遇したこともある。膨らんだ買い物袋をぶら下げ、メガネをかけたスラックス姿の地味なお母さんが歩いていた。そのお母さんから離れて、道の端を、うつむき加減でスネた表情の男の子が歩いている。小学一年生か二年生ぐらい。二人の距離は不自然に離れ、買い物帰りの親子の親密さが感じられず、会話は聞こえない。たぶん、少年は、なんらかの思いを、母親に受け止めてもらえなかったのだろうと想像できた。二人の重い沈黙の間を、自転車で通り抜けようしたとき、お母さんが子供に向かって、笑いもせず、冷静にたしなめた。「さてはお前、ウルトラマンじゃないな」。ウルトラマンを自認する(?)少年の誇りを突いた、功名な叱責か。少年は、ますますうつむく角度を深くしたようだった。

こんな事々が面白い、というほどではないかもしれないが、ほほえましいと思った。そして、私はほほえましいぐらいの面白さが好きだ。
破顔、爆笑するような面白いことは、確かに魅力的だ。笑う門には福来たる、ということわざを、疑う人は誰もいないだろう。
しかし、笑うことは、本当にいいことなのか。疑う必要はないのだろうか。
最近のテレビを見ると、みんなよく笑う。難しいことを考えたり、言ったりする、政治家や学者もよく笑う。司会者もコメンテーターも、みんなゲラゲラ笑い、ニコニコしている。
なんだか、笑いを大きなウソの隠れ蓑にしているのではないかと思えてならない。

人間は笑うことによって、他の動物と区別されるとは、よく言われる言い方だ。そして、文芸評論家小林秀雄は、笑顔を含む人間のあらゆる表情は病だといった。すると人間は、すべて病んでいるということになる。
なるほどそんな気もするが、笑顔は病んでいる表情には見えにくい。むしろ健康の象徴に感じられる。しかし、そう感じるのは、笑顔が無防備で、知性という攻撃性を備えていないからか。嘲笑という批判的な笑いには、トゲが生えているが、それ以外の笑顔に攻撃性はないだろう。つまり、嘲笑以外の笑顔なら、とりあえず安心できるという印象において、健全であると感じるのかもしれない。
と推測するのは、やはり笑いというものを発する人間の心身の状況は、穏やかな状態、健やかな状態ではないという説があり、自分もその説に興味があるからである。

その説を唱えるのは、進化論で知られるダーウィンだ。『人及び動物の表情について』という本の中で、こう書いている。
「もし心が愉快な感情で強く興奮を催し、その上ちょっとした不意の出来事または考えが発生する場合には、ハーバート・スペンサー氏の説くように、『多量の神経力が、発生しかかっていた等量の新しい考えや情緒を生ずることにそのまま消費されずして、その流動を急に阻止される』から『その過剰は他の方向に解放されねばならぬ。そこで運動神経から諸種の筋肉への流溢(りゅういつ)となり、我々が音笑(おんしょう)と呼ぶところの半痙攣(けいれん)的動作を生じせしめる』」
つまり音笑、声を立てて笑うことは、ある方向性を持った愉快な興奮が、突然裏切られ、行き場を失い、有り余るエネルギーを消費しなければならない状態となり、そのエネルギーは、声帯や顔面の筋肉や腹の筋肉を激しく動かすこと、半分痙攣したような動作を行うことによって費やされる、という説だ。
もっと簡単にいえば、予期せぬ意外性に驚き、声帯や体が痙攣を起こすのが笑いの正体ということだろうか。
要するに笑いは、痙攣だ。どうりで笑っている人間がバカっぽく見えるわけだ。知性のコントロールとは真逆の現象で、人間が他の動物と区別される理由の一つが笑いだとすれば、人間はどんな動物よりバカなのかもしれない。

だから私はバカに見られまいと、できるだけ笑わないようにしている。本や雑誌や新聞などで原稿を書いたとき、プロフィールに使う顔写真を撮らせてほしいと求められることがある。何度か求められて無理に笑顔を作らされ、撮られたことがあるが、最近は断り、笑ってなんかいない、せいぜい微笑んでいるだけの、自分で撮った写真を送ることにしている。
選挙ポスターにしても、笑顔が基本だ。カメラに向かって作り笑顔のできる人間を、信用してはならない。手をたたいて哄笑している人を見ると、シンバルを叩きながら歯をむき出して笑う、ゼンマイ仕掛けのサルを思い出す。サルを軽蔑するわけではないが、あれは痙攣が高じたときの一種の醜態ともいえる。

すでに書いたように、私はほほえみを生む種類の面白さが好きだ。発作的な痙攣を起こすのではなく、余裕のある安定した精神状態を保ちながら、楽しい気持ちになれるからだろうか。
今年の正月にも、私をほほえませる、こんな光景に遭遇した。
ある古い団地の敷地内の道路を、自転車で走っていたときのこと。私の前方に、奇妙な形が移動しているのが遠目に見えた。団地内はもとより、一般公道でもどこでも、かつて見たことのない物体の移動だった。近寄ると、その正体の一部が明らかになった。自転車に乗った小学四、五年生ぐらいの少女だった。ジーンズに黒のパーカー姿。それだけなら特に何の変哲もないが、その自転車の左右に、大きな奇怪な黒い物体を引きずっていたのである。しかし、引きずっていた物体の正体がわからなかったので、さらに接近すると、ようやくわかった。スケートボードの上にしゃがみ込んで背を丸くした同じ年頃の女の子二人が、自転車の左側の子は右手を伸ばし、右側の子は左手を伸ばして、自転車の後ろの荷台を掴んでいたのである。しかもスケボーの女の子二人も、自転車を漕いでいる少女とまったく同じ服装で、ジーンズに黒のパーカーだった。さらに驚いたことには、女の子たちは三人とも、パーカーのフードをかぶり、フードのチャックを一杯に上げ、目だけ出している状態だった。そして、この三角形の怪盗団(?)は、仲間割れの最中だった。
「だから、そっちに引っ張んないでよ」「引っ張ってないよ、行っちゃうんだもん」「どっちでもいいから、もうヤメようよ」「ダメよ、頑張ろうよ」
定まらないスケボーの進行方向が自転車のバランスを崩し、崩れた自転車のバランスが、さらにスケボーの不安定を生み出し、まさしくコックリさん状態で、三者の意のままにならず、まるで命があるかのように勝手に、その三角形の物体は、あっちこっちに行ってしまうようだった。
このユニークな物体の創造に加わり、共同して操縦を実践し始めたことにより、友情の絆をさらに強めただろう三人が、やがて真剣な仲間割れを始めつつも、まだしばらくこの前代未聞の未確認移動物体のコントロールに挑戦する姿を、私は自転車を止めて見守らないわけにはいかなかった。

以上の笑いについての随想が、きわめて一面的で不十分な知識、知見を基にした浅いものであることは承知しているが、深追いはやめておく。フランスの哲学者ベルクソンは、『笑い』という著書の冒頭で、こう言った。
「笑いとは何を意味するか。笑いを誘うものの根底には何があるか。アリストテレス以来、おえらい思想家たちがこのちっぽけな問題と取り組んで来たが、この問題はいつもその努力をくぐり抜け、すりぬけ、身をかわし、たち立ち直るのである。哲学的思索に対して投げられた小癪(こしゃく)な挑戦というべきだ」
無知な私が無闇にものを考えるのは危険だ。笑いの迷宮で悶死するのがオチだ。
それより、白いしっぽを巻いて、この問題からすごすごと退散するのが賢明である。
さて、雨も上がったことだし、愉快な怪盗団があの団地内にまた出没していないか、自転車パトロールに出かけることにしようか。それとも、あの絶世の美人が招く魅惑の看板に誘われて、ひとっ風呂浴びにでも行こうか。
「ふろはふろやで ヘルストン人工温泉 千代乃湯」

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1件のコメント

「ふろはふろやで」
最初は関西弁で「風呂は風呂ですよ」だと思い
何の事やら・・・、でした。早とちり、すみません。

私は、男の子の行動にほほえみを生む笑いをよく感じます。
棒を持つ振り回す、木やモニュメントを相手に戦う、
または他人には見えない透明人間相手に戦う、
ヒーロー物になりきる、
それこそ中川さんがおやりになった自転車になにかへんてこ(失礼!)
な物をつけて走りまわる。
等々、ホントに男子は愉快で可愛行く、ほほえみを生む笑いがでます。
我が長男の可愛かった幼少時代よ、また再び!

まぁ、男性は大人になっても男の子と思え、
という事もよく聞きますね。
男はおばかちゃん???

by うらちゃん - 2013/05/18 5:19 PM

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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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