2013-04-9
街の匂い人の匂い――
ヘンなおじさんたちの行方
練馬区大泉 白子川沿いの牛舎 2013年4月4日撮影
大泉のセンパイの所へ、自転車で遊びに出かけた。白子川添いの細い沿道を走ると、いつものように、カラオケ屋を過ぎたあたりで強い臭気が鼻孔を突いた。ここを通るとき風のない温かな日などは、息苦しいほどだ。東京の端とはいえ区内のこの地域に、まだ牛小屋が一軒ある。周囲は住宅街。半径約百メール以内の住人は、この香水を毎日嗅ぐこととなり悲惨だ。さぞかし迷惑だろうと思うが、先に居たのは牛さん。文句はいえぬ。
センパイは独り身なので、だいたいいつ行っても迷惑な顔をされない。私が二十歳前から、四十年来のおつきあいである。センパイは二十代の頃から老成し、私は青春の迷路の中で、示唆に富んだいくつものセンパイの言葉を胸に刻んだ。しかし、私はある時期から気がつき始めた。私が傾倒し尊崇するセンパイの日常に、センパイの迂闊に起因する気の毒としかいいようのない事態が、かなり多く混在していることを。
センパイは、四十で結婚した。相手はセンパイを敬愛してやまない純情な若い女性だった。式と披露宴は、文人ゆかりの有名ホテルで行われ、一癖も二癖もありそうな、センパイの知友が集まった。世に名を知られた人物も多く、華々しい雰囲気に、末席を得て参列した私は気圧された。しかし、センパイは、ここで結婚生活最初の不注意を犯した。ホテルに払うべき金を、全部二次会、三次会で飲んでしまった。相当な額である。センパイに悪気はなく、後で埋め合わせるための稼ぎはあったのだが、普通の家庭に育った新婦は、何が起こったのかさえも、そのときはにわかには把握できなかったようである。
この事件を皮切りに、次々に起こるセンパイの月並みではない非常識は、若い娘を苦しめた。そして、その日、Xデイは、結婚して何年もたたないうちに、突如訪れた。「おい、ちょっと来ないか」と、私はセンパイからゴルフ練習場に呼ばれた。行くと、センパイのドライバーが、いつもより強く右に曲がっていた。「今日、家に帰ったら、何にもなかったよ」と、苦笑いしながら告げた。私はしばらく実家に帰ったという意味だと思った。「いつもの家出ですか。でも何もないというのは?」。「いや、今度はホントに出てった。家具も全部なくなってた。なんにもない。でもなんにもないっていうのは正確じゃないな。床に紙が一枚置いてあった」「離婚届?!」「うん、空欄を埋めろって」。若い新妻にとっては不人情に思えたセンパイの日々の所業を埋め合わせる唯一の手段が、書類の空欄を埋めることだったとは、悲しいような面白いような、私は不謹慎にもこの皮肉な状況に、ユーモラスな一面を感じるのであった。
日頃たいていのことには悠然として動じないセンパイも、このときばかりは少し寂しげだった。私の予想は的中した。型破りのセンパイと型通りに暮らすことは、土台無理な話だった。
私はこのセンパイの半生における数々の名誉も不名誉もつぶさに見てきただけに、それらの奇想天外な事件をいくつか披露し、読者の一興に供することもできる。しかし、私が今回考えたいことは、センパイの栄誉でも滑稽でもなく、街の臭いであり、人臭い人のことである。
私はセンパイの家に向かう途中の牛小屋の近くで、酸味の利いた牛糞の香しい臭いに鼻孔の奥をえぐられ、めまいを起こしそうになったのをきっかけに、あるおじさんに送るための、少し長い手紙の文案を練り始めた。
拝啓 今年もあなたが引く残飯を満載したリヤカーとそのリヤカーの木枠の隙間から流れ出て、道路に長い帯を引く残飯汁の、あのえもいわれぬ悪臭が、強烈さを増すあたたかな季節の到来となりましたが、その後おじさんは、いかがおすごしですか。といっても半世紀も前にお会いし、その後行方知れずのあなたに、この手紙がどう届くのか届かないのか、知ったことではありません。
それより僕は、ある種の心地よさを感じながらこの手紙を書かずにはいられない自分が不思議で、驚いています。だってあなたは僕のかけがえのない時間の中で、ほんの一瞬傍らにいただけの、風変りな路傍の小石にすぎないと、僕はこれまで信じていたからです。なのにどうして折に触れてこんなにあなたを思い出すのか。今までは不思議にさえ思わなかったのに、今ここに来て、この年嵩を得て、もしかしたら、いやきっと、あなたは僕を成立させるための主要な成分のひとつになっていたのではないかとさえ思うのです。
僕の住む東京西郊の住宅地には、かつて多くの豚小屋や牛小屋が散在し、母校の中学のすぐ裏にも、強烈な臭気を発する豚小屋がありました。それらの中でも大規模だったのがあなたの豚舎で、手入れをしないまま鬱蒼と伸びる生け垣の合間から、かすかに覗き見ることのできた豚舎兼住居は、コの字型の二階建ての廃墟で、今思えば、何かの工場跡だったのかもしれない。そこから幌付きの軽トラックほどもある大きなリヤカーを引いて現れるあなたは、荒い目の麻布で作ったボロボロの上着をベルト替わりの荒縄でしばり、下半身は汚れて黒ずんだ越中フンドシ一つで裸足でした。フンドシの脇からは、しばしばチンチンがはみ出していました。被っていたツバ広の麦わら帽子もボロボロで、帽子の破れ目からは伸ばし放題の髪が流れ出て散乱し、口髭は数十センチの長さに達していましたね。
おじさんは誰とも交際がなかったと思うけれど、残飯を満載した重そうなリヤカーを引きながら、いつも誰ともわからぬ誰かにブツブツ話しかけ、時には語調を強め、行き交う人をいたずらに驚かせていました。
あなたの風体も形相も臭いも、僕をあなたから遠ざけるだけの要素しかなかったのだけれど、あなたは僕に向かって一度だけ、言葉を発してくれたことがありました。
僕は小さい頃から自転車が好きで、自由に乗りこなせる年頃になると、手放し運転に熟達しカーブも手放しで曲がれるようになったり(まあ時々曲がり切れずに電柱にぶつかり、思い切り股間を打ったこともありますが)、坂道で前ブレーキをかけて、後輪が浮くのを愉しんだり(前ブレーキを強くかけすぎて、そのまま自転車でデングリガエシをしてケガしたこともありますが)、わざと水たまりに猛スピードで入り、モーターボートのように水面を切り裂き水しぶきを上げたり(深みにはまって倒れてずぶ濡れになったこともありますが)、いろいろな遊びを楽しんでいて、あるとき熱中したのが、バタバタでした。
自転車の前輪の支え棒、フォークという部分に、洗濯バサミでボール紙の紙片を据えつけ、車輪が回るときにスポークがボール紙をはじき、音が出るようにするのです。すると、自転車を漕ぐスピードによってパタパタという音が早く強くなり、猛スピードで走ると、バタバタバタバタと大きな音を発し、当時普及していた自転車バイク、通称バタバタと同じような音が出ました。
これを初めてつけて街中を走っていたとき、僕は誰よりも愉快でした。大人になった気がしたし、この乾いた大きなエンジン音?を、聞えよがしに街中の人に聞かせたいと、誇らしげな気持ちになりました。
そこで僕はその日偶然出くわしたあなたにも、僕のマシーンの威力を誇示し、日頃あなたから受ける各種の圧力に対する返礼をすべく、あなたのリヤカーを後ろからバタバタ大きな音を立てて脅かしながら越こそうとしました。僕はあなたが驚いて少しは逃げるかとワクワクしました。するとあなたに追いつき追い越そうとしたそのとき、あなたは急に振り向いてコンドルのような鋭い目で、「ウルサイ!」と僕を一喝、僕は震え上がりました。
僕はあなたの迫力に圧倒され、もうそれ以来バタバタを封印し、公道では人に迷惑かけていけないのだと、公徳心について学びました。頭の悪い僕は、あなたの公徳心の欠如については思いが至らず、責める気持ちは起こらず、痛く反省するばかりでした。
そんな身勝手で汚く臭く怪しいあなたをこんなにまで思い出すのは、あなたを取り巻く風が、僕にはどういうわけか、気高いものに感じられたからだったと思わざるをえません。身勝手でも汚くも臭くも怪しくもなく、あなたの中心は、つつましく清々しく公明正大だったという気がするのです。
なぜそんな風に感じるのか、その論拠として挙げられる材料は、何ひとつ僕にはありません。あなたの口走る政治論、哲学論、らしき言説の難解さや、あなたは東大出で頭がよすぎて、世迷言ばかりいうようになってしまったという街の噂も、あなたが僕の主要な成分の一つとなったと感じる理由の説明とはならないでしょう。
あなたがチンチンをはみ出しながら、残飯汁を垂らす巨大なリヤカーを引いて、世の中について、人間について、謹厳に考察を深めていこうとした姿そのものが、あるいは、そんな姿にならざるを得なかった背景事情へのなんとはない共感が、道路に残飯汁がしみ込み、いつまでも臭いが消えなかったように、僕にしみ込み、僕の成分の一つとなっていったのだと考えられます。
その後僕たちの街にも各所で道路工事が始まり、あなたの豚舎も新しい道に取られ、あなたは小金を得たのでしょうか。蓬髪のままではありましたが、長く伸び放題だった髭をそり、くたびれた生地ではあったけれど黒いスーツと白シャツを着て、自転車で街中をうろついているのを見たことがありました。そのときはもう誰ともわからぬ誰かに話しかけるような独り言も発せず、あなたを取り巻いていた風は止み、心なしか寂しげに、自転車を漕いでいたように思われます。
おじさん。おじさんは今どこで何をしておられるのですか。そして、おじさんと同じように、孤独で慕わしい人物だった印刷屋のセイちゃん、その他街の人たち。僕は単なるノスタルジアとして懐かしむだけでなく、これからもなんだかとても必要な風景として、皆さんの行方を探し求めたく思うのです。
おじさん、この手紙を読んだら、この夏、あの臭気が際立つ無風の暑い時期に、ぜひあの姿で不意に街に現れてください。きっと世の中は騒然とし、潔い孤高の気高さと美しさについて、千人に一人ぐらいは気がつくことでしょう。
長くなりました。今日はこのあたりでやめます。僕はこれから、行くところかあるのです。リヤカーも引かず、チンチンも出しませんが、この牛舎の香しい匂いを潜り抜けて、あなたと同じような臭いのするおじさんに会いに行くのです。
では、またいつか思い出す日まで。 草々敬具
センパイの家に着くとセンパイは、狭い公営住宅の一室で週末の競馬の予想をしていた。最近は手元不如意につき、100円ずつ馬券を買うという。青雲の志を語り合う若い時期、センパイに将来何になるつもりですかと聞くと、夢は競馬の予想屋だといっていた。その後センパイは、たぶん日本一日本の競馬全体の表事情と裏事情に通じた権威になったけれど、馬券はことごとく外した。昔当たったという話はよく聞くのだが、先週は大当たりしたという話を、絶えて聞いたことがないのである。それに、今週はこれが確かだというセンパイからの情報を聞いて馬券を買ったことが何度もあるが、当たったためしがない。センパイの予想馬以外を狙うのが確かなようだ。センパイは予想が外れるとニヤニヤしながら恐縮するが、こんな言い訳をしたこともある。「競馬は馬券を買ったときに、もうレースは終わっているんだよ」。だから、当った、外れたと騒ぐのは、素人だね、レースの予想は知識と記憶と想像力と愛情の賜物、レースという物語は頭の中にあるんだよ、とでもいいたげな負け惜しみだけれど、僕はそういうセンパイの悠長で呑気で余裕綽々のやせ我慢、いわばロマンチックなダンディズムを好んだ。
その日もセンパイは、週末のレースは今度こそ確かだから、お前も少し買っておくと、ちょっとした小遣いぐらいにはなるかもしれないよというので、ハイハイと答えて、予想馬番を書いてもらったメモをポケットにねじ込み、すぐにそのことを忘れてしまった。
競馬の予想の話の後センパイは、例によって天下国家を論じ、日本の戦国時代史の講義の時間となった。そんなセンパイを私は面白く思うのだが、少し困らせてやろうと思ういたずら心が起きて、私はちょっと意地悪な質問をした。
「センパイはいつも天下国家を論じて、よりよい世の中になることを願っているようですけど、でも、僕は疑問に思うことがあるんですよ」
「なんだい」
「僕もいい世の中になればいいと思うけれど、社会に出て、そんなにたくさん好きな人には出会わなかった気がしているんです。つまり、イヤな人たちのために、いい世の中になることを一生懸命考えるのは、疲れる気がして」
「うん、まあな。オレも百人中九十九人は大嫌いだからな…」
センパイは少し困ったような顔をして口ごもり、その日はそれ以上天下国家の話をすることなく、その後はメジャーに行ったダルビッシュの活躍の可能性について話し合った。
センパイと別れて私の仕事場のある公団住宅の敷地内に戻ると、夕刻のうす暗闇の中から、清潔な白い歯を出してニヤニヤ笑って、こちらを見ている青年に出会った。幼稚園の頃から知っているシューちゃんだ。シューちゃんは私を確認するなり笑いながら私の渾名を呼んだ。「おっ、○○○じゃん」。団地内に棲みついている猫のジミーに似た名である。
週末といわず連日昼日中から、近隣を独り自転車で駆け巡る孤高の私に対する世間の目は白い。なにかと白眼視を免れない。シューちゃんに限らず、私を長く知る子供たちは、私を見つけると意味もなく笑いながら、猫のジミー並みの通称で呼び、迫害する。
あのおじさんもセンパイも孤高を貫くために、どれほど不当な迫害を受けたか知れないと想像し、ネコ並みの呼び名を不本意と思いながらも、私は自分の奥底に在る、ある種の矜持が満たされる気がするのだった。
私も独特の臭気を振りまくヘンなおじさんの列に入れたとしたら本望である。
1件のコメント
“ヘンなおじさん”私も小さい頃を思い出しました。
あの頃(昭和30年代)、高度成長期と言われる直前でしょうか、
そういうおじさんいました。
日本人のほとんどがそんなにお金持ちでなくて、
一生懸命大人たちが汗水垂らして働いていた時代。
その中でも、人目をはばからず一心に働くおじさん。
両親が忙しく働いていた私は、子どもながらに、
怖い半面、近づきたくてしかたがなかったのを思い出します。
中川さんは、〝ヘンなおじさんの列”に充分入れると私は思っていますが・・・!?
なんていう私も〝ヘンなおばさん”の部類に入る思っています。
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