2013-03-12
教訓Ⅰ 野の花は野に…メダカの学校顛末記
東久留米 落合川 2013年3月6日撮影
自転車に乗って、オザキフラワーパークのペットコーナーに、メダカを探しに出かけた。
原稿が進まず、やはりこの仕事は向いていないのかと、ふと寂しさに襲われたとき、パソコンの脇を見ると、メダカが数匹、胸ビレをチラチラ動かし、泳いでいるのである。小さいのに頑張っているメダカに勇気をもらうという寸法だ。
どうせなら、いつか本郷あたりを自転車でブラブラ走っているとき、偶然見つけた金魚坂の上にある、創業三百五十年の由緒ある金魚屋で、ちょっと値の張る和金を買い、昔ながらの朝顔型の金魚鉢に入れて、大名気取りで雅趣にひたろうかとも思ったが、柄でもないし、もしすぐに死なせてしまったら、もったいないという気もして、オザキのペットコーナーの十匹300円の外来種のメダカを求めることにした。
「死なせたらもったいない」「十匹300円」――命の軽重を、金額で比べる私がいた。費用対効果、リスクマネジメントといった、氷点下の物差しで命をはかり、自分に都合のよい友達づくりを空想していたのである。
十匹のメダカは小さな水槽に入れ、早速パソコンの脇に置いた。人気のなかった仕事場に、あたたかみが生まれ、気がつくと私の顔はほころんでいた。
しかしほどなくメダカは、八匹となり五匹となった。
値段なりに弱いのだろう。ささやかな生き物との別れが与える落胆などささやかだと思っていた。とはいえ、たとえ300円でも、すぐにみすみす全部なくしてしまうのはシャクである。それに、なんとはない後ろめたさに起因する苦痛から、逃れたい気もあった。正しい育て方をネット情報で学ぶことにした。
メダカは臆病な生き物だと知った。睡蓮を浮かべた甕で飼うのが、昔からのやり方だ。メダカは基本的に甕の奥底の暗い所に身を潜める。私の透明な水槽には身を隠す場所はなく、ストレスにさらされて、弱いメダカはまいってしまったのかもしれない。
また、元来汽水域にも生息するメダカは、薄い塩水でも生きることができ、弱ったメダカは殺菌作用のある薄い塩水に入れると、元気を取り戻すことができた。
雌雄の判別も学び、五匹のうち三匹がメスだとわかり、産卵を期待した。メダカは排卵するとエサと間違え、卵を食べてしまうことも知った。メダカは小さく、脳みそも小さいから、バカなんだと思った。
五匹のメダカはその後順調に育ち、買ってきたときより、幾分大きくなった気がした。私はメダカの学校の校長になる計画を進めることにした。
そのためには、卵を産み付けやすい藻のようなものが必要と知り、準備し、その藻に卵が産みつけられていないか、始終藻を点検する日々が始まった。藻に卵がついたままにしておくと、成魚が食べてしまう。そんな修羅場は見たくもない。卵を放置する一刻の猶予もないと、ちょっとした緊張が続いた。
振り返ればこのあたりから、メダカへのかいがいしい奉仕が始まった。
エサを余分にやって残ってしまうと、すぐに水が濁り臭くなり、水槽の水換えが頻繁に必要となった。しかし、エサやりを我慢するのは難しかった。メダカ用のエサをチロチロと水面にまくと、メダカが水面に上がってきて、パクッと食べる。松屋で見知らぬ感じの悪い他人が、牛丼をあさましくほおばっている景色はいまいましいが、日本一小さな魚、メダカの食事は、見ていて楽しい。「ちひさきものはみなうつくし」(枕草子)である。
楽しいからついエサをやりすぎてしまい、水はすぐに汚れ、毎日のように取り換えが必要となった。
浄水器を付ければ、この手間は要らなくなるのだが、ポンプの音が始終しているのはかなわない。
できるだけ小まめに水換えをして、水槽の内側につく水垢も時々きれいにしておく。これはもう仕方のないことだと観念しようと思ったとき、いい手を思い出した。タニシだ。以前、金魚を水槽で飼っていたとき、一緒にタニシを入れておいたら、水を何か月も買えずにいても、水はいつも透き通っていて、まったく臭くもならなかった。調べるとタニシには、水の浄化作用があるようだった。
ペットショップにはタニシも売っているが、何百円かはしたので、それなら近くの落合川から拾ってくればタダだからと、早速獲りに出かけた。
タニシは多ければ多いほど、水はきれいになるのだろうと単純に考え、できるだけたくさん捕獲するつもりで出かけた。しかし、苔生した川石と同色のタニシは、なかなか見つからず、結局五匹しか探せず、無念を抱きながら帰宅した。
この五名がまさか始祖として、その後私の水槽で、どれほど目覚ましい活躍ぶりを披露するかということは、そのときの私には知る由もなかった。
タニシもまたメダカとともに、私のかわり映えのしない平凡な日々に、穏やかなドラマを提供してくれた。水槽の内側を這うタニシは貝の一種だから、歩みはのろいと思っていたし、「考えごとをしている田螺(たにし)が歩いている」という尾崎放哉の句も思い出していたから、タニシに崇高な思索者のイメージをダブらせていたところがあったが、そうした高尚な方々ではなかった。
タニシのテーマは一つだった。ちょっと目を離しているスキに、意外な速さで移動し、恋をした。そして、逃げるタニシ、追うタニシ。仲良しタニシ、無視されるタニシがいて、その関係はなかなか複雑だ。
メダカの産卵の確認作業とともに、ボルサリーノを被ったイタリア男に見えてきた、興味深いタニシの観察も加わり、私はますます水槽に気をとられるようになっていった。
こうしてタニシは水槽内で、メダカを上回る存在感を示したが、肝心の浄化作用はあまり期待できなかった。というより、むしろ逆効果を来たし始めた。メダカのエサの食べ残し、メダカのフンに、タニシのフンも加わり、水槽は汚れ、水換えや掃除がさらに頻繁に必要となった。
しかし、タニシを今更川に戻す気にはなれなかった。もう少し我慢すれば、浄化作用を発揮してくれるかもしれないというほのかな期待のほかに、メダカとともに私の嬉しい気がかりのひとつとなっていたからだ。
ある日メダカが藻に小さな卵を産み付けた。私はあわててその藻を取り出し、親と分けるために別な水槽に入れた。そして数日もすると、直径1ミリ余りの小さな卵にちっちゃな目が二つ現れ、卵の中でチョロチョロ動き、約10日でピョッと卵から飛び出て、歓喜の誕生を迎えたのだった。
メダカが産卵して、それを親が食べないうちに、別な水槽に小まめに取り分けると、面白いように次々に仔魚を得ることができるようになった。そして、予期せぬ問題が起きた。体長2ミリほどの仔魚たちを、なんとか成魚に育てなければならないという、強い親心、義務感が湧いてきたのだ。
この義務感は厄介だった。これを放棄しようとすると罪悪感が押し寄せ、苦痛になった。
そうこうしているうちに、メダカはジャンジャン増えた。そして、五名の始祖に始まるタニシはメダカを上回る繁殖力を示した。テーブルに乗る小さな水槽では、とても間に合わない。その数は、メダカもタニシもすぐに百を超えた。
大水槽を買うわけにもいかず、ホームセンターで求めた安いプラスチック製の大きなボックスを、水槽がわりに利用することにした。幅六十センチ、長さ百二十センチぐらいの行李だ。
夢想したメダカの学校が、生徒数においては一応完成した。ついでに、タニシの学校も。メダカもタニシも、それぞれ学年があった。メダカは、目玉ばっかりが目立つ、ゴミみたいな仔魚が、少しずつ大きさを増し形を変え、成魚の姿になっていく。一方タニシは、生まれたときはケシの実ほどの小ささだけれど、すでにその形は貝殻を背負い、一人前に親と同じ形をしている。
どちらも百を超えた、この小さきものたちを放置することは、もはや私には不可能になった。
餌やり、フン取り、水替えなどの日課は、少なくない時間を要した。
私の手厚い世話により、メダカの増殖速度は加速し、やがて大きなボックスが五つに増えた。さらに水替えのために、水道水を取り置きしておくボックスも必要となった。狭い仕事場は足の踏み場がなくなった。
しかもこの間に、私はもう一種の生き物の繁殖にも加担してしまった。メダカは臆病な生き物だから、身を隠す場所が必要であり、そして、卵を産み付ける藻のようなものが必要である。この二つの必要を廉価で満たしてくれるのは、ホテイアオイだった。水に浮かぶこの草は、どんどん株を増やし、ほどなく五つの水槽の水面をおおい尽くした。それとともに、不測の事態が勃発した。
ホテイアオイの根は、メダカの産卵に役立つだけでなく、タニシの産卵の適所にもなってしまった。ボルサリーノを被ったタニシは朝から晩まで恋をして、ホテイアオイの根に、卵を産み付けた。
かくして、メダカとタニシとホテイアオイの爆発的な増殖が始まった。その結果、私のメダカたちに関わる仕事の内容が、180度変更された。私はタニシの卵をホテイアイから取り除き、廃棄しなければならなくなった。タニシのケシ粒ほどの幼生も、見つけ次第どんどん捨てた。さらには、増えすぎたホテイアオイの株も、葉の端が黒ずみ弱ったものを見つけては捨てた。たとえその根にタニシやメダカの卵が産みつけられていたとしても。いやむしろ卵が多く付着したホテイアオイを選び、少しでもメダカとタニシを減らすことが主要なテーマになった。
原稿が進まず、この仕事が不向きだったと呆然とし、ふと寂しさに襲われたとき、胸ビレをチラチラ動かし泳いでいるメダカを見て、勇気をもらうという当初の心あたたまる計画が、文字通り殺伐としたものになってしまった。
そして、完全に本業の仕事に手がつかなくなった。初めのうち面白がっていた家人は、やがて青ざめ、いよいよ私への絶望感を強めた。
私はメダカの引き取り手を探し始めた。外来種を河川に放流する訳にはいかない。また、安価な外来種のメダカは珍しくもなく、ほとんど誰も興味を示さない。唯一高校で教師をしている兄が、校庭の片隅の池に、百匹ほど欲しいといってくれた。ただし、タニシと、タニシの卵が付着しているかもしれないホテイアオイは遠慮したいということだった。
結果、まだ数百のメダカとタニシとホテイアオイが残った。私は庭の水漏れする壊れた池を大きなビニールシートでようやく補修し、たくさん水をため、すべてのメダカとタニシとホテイアオイを押し込んだ。エサやりはするものの水替えも掃除もせず、ほとんど手をかけることなく、自然の成り行きに任せようと決意した。最悪彼らが絶滅しても仕方がないと諦めることにした。そのまま本業に手がつけられない状況が続くと、私の方こそ滅亡しかねなかった。
世話をしないことにより池は汚れ、ドブ水となり、卵を産んでも食べちゃうから、メダカの数は減る傾向となった。一方タニシとホテイアオイは、戸外の環境がパラダイスとなり、その繁殖力は手がつけられないものとなっていった。ホテイアオイは、次々に捨てていけば、数を減らすことは容易だったが、タニシを池から完全に取り除くことは、池の水を抜く以外、もはや不可能となった。タニシの子は、防水のために池に敷いたビニールシートのシワにも潜り込んでしまうのである。
しかし、劣悪な環境で数を減らし始めた数百のメダカはいつしか絶滅し、池の水抜きを敢行できる日がやってきた。
私は大きく丈夫そうなタニシを五つだけ採り出し、彼らの故郷、落合川に、自転車で向かった。
私は何を考えていたのだろうか。何も考えていなかった。いささかの崇敬の念も憐憫も愛情もない、氷点下のモノサシで命を計った。その残酷なモノサシに端を発する無知と無計画により、メダカ、タニシ、ホテイアオイの学校、いや、その数において国家規模となりつつあった彼らの連合国の国家建設に失敗し、多くの同胞の命と未来をないがしろにしてしまったのである。私の大罪をどう贖えばよいのだろうか。
いや、私は一部の犠牲を看過することはあったものの、ある期間、ある一定数の動植物の生命の繁栄を、献身的に支えたのである。これは、称讃に値することである。私の置かれた環境下で、あれ以上の何ができたというのだろうか。
落合川に辿り着いた私は、五名の始祖の末裔であるタニシ五名を、言葉なく元の場所に戻した。そして、振り返らずに立ち去り、何事もなかったことにした。
1件のコメント
メダカの増殖、たしか、さくらももこさんのエッセイにもそんな話がありました。
その時は癒しを求め飼いたいと思うのですよね。
我が家で金魚を飼っていた時、
友人から貰い受けた金魚が鯉だった事がありました。
日に日に大きくなり、よく見ると口ひげが・・・・。
さすがに家の水槽では飼いきれず、
大きな水槽と池をお持ちで、立派な鯉を沢山飼っていた大家さんに、
我が家の”駄〝鯉を仲間に入れて戴いた思い出があります。
元気で仲間に入れてもらえているでしょうか。
“駄〝鯉ちゃんは・・・!?
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