2013-02-7
丘の上の思い出ベンチ
調布飛行場の隣の武蔵野の森公園 2012年11月4日撮影
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかね(て)
琴はしずかに鳴りいだすだろう
(「素朴な琴」八木重吉)
「イチョウは、広葉樹ではなく針葉樹だって、知ってました?」
年季の入った自転車をガラガラと鳴らして後ろから着いてくる北風さんに、私は振り返り、少し声を張って尋ねた。きれいに黄葉したイチョウの大木が、遠くに見えた。
「エーッ!? 何だって」
やや急な坂道だったが、大柄、偉丈夫の北風さんが、グイと力を入れてペダルを踏むと、予想を上回る早さで、すぐに私の横に並んだ。
その力強さに気圧されながらも、あえて平気な顔をして、私がもう一度尋ねると、北風さんはちょっと悔しそうに、「いや、知らない。ホントですか」と答え、笑顔のまま眉間に皺を寄せた。
北風さんは、私のあばら屋の北側に住んでいるご近所さんだ。本名は別だが、冬の風の強い日に知り合ったから、以来私は心でそう呼んでいる。
北風さんは、頼もしいほど大きな人だ。私は大きな人には最初から負けた気になり、敗北感の裏返しで、過剰な対抗心が生まれやすい。
もとより私は若い頃は、野球やバスケットボールなどに励み、スポーツのことしか頭になく、随分鍛え上げた方だけに、体から醸し出される力に人一倍敏感で、体力エリートには崇敬の念を抱き、同時に、必要以上に嫉妬の炎を燃やすのである。
私は物を書いて暮らしてきたが、芥川賞や直木賞を取った方々より、神宮や甲子園でホームランを打った人のほうが、はるかに、何十倍もうらやましいのである。そして、四十代後半までラグビーをしていたという北風さんにも、何も恨みがないどころか好意を強く感じているというのに、つい心穏やかではいられなくなってしまうのだった。
私は北風さんに、いやらしい言い方にならないように注意しながら、受け売りの知識を披露した。
「イチョウは、葉っぱが針のようになってないけれど、針葉樹だそうですね」
そんな分類学上のマニアックな問題を、わざわざ引っ張り出して来たのは、北風さんが、植物にやけに詳しい人だったからだ。
何回か自転車デートを重ねるうちに、体力エリートのラガーマンというだけではないことが判明した。
こんなことがあった。いつも気になっていた、ケヤキに似ているが、ちょっと違う気のする木の下を自転車で通りかかったとき、私がその木の種類を試しに聞くと、北風さんは急に自転車を止めて、木の下に落ちていた葉っぱを一枚拾い上げ、私に渡しながら言った。
「見てください。葉脈の主脈、カーブしているでしょ」
なるほど、葉の真ん中の筋が曲がっていた。
「葉っぱがシンメトリーじゃないでしょ」
「ええ、確かに」
「これが、エノキの特徴です。ケヤキと樹形や樹皮は似ているけれど、ケヤキの葉はシンメトリーです」
私は普段見慣れていても、それが何十年もの間、何者かわからなったものが、エノキだとわかり、大変嬉しかったのだが、エノキの主脈のように根性のひん曲がった私は、北風さんの知識に、やられた、いつかお返しをしなければと思い、イチョウの分類上の問題を、樹木に関する雑学本をひっくり返して、持ち出してきたのだった。
北風さん、それを知らなかったことが、思いのほか悔しかったと見えて、対抗してきた。
「イチョウの学名、ご存じですか」
「ギンゴーなんとかっていうんですよね」
私はたまたま何かで読んで知っていた。
「銀杏(ギンキョウ)という字をラテン語表記するときに、Ginkyoのyを、gにしてしまったそうですね。ゲーテの詩にGinkgo bilobaという、学名そのままを題名にした詩というか、ラブレターがありますね。しかもそのラブレターは今でも残っていて、彼の庭のイチョウが二葉、張り付けてある。もっともすでに焦げ茶に変色しているんですけどね」
北風さん、まいったという顔をして、もうそれ以上はイチョウについては語らず、私を斜め後ろからまくしたてるように、それまでよりも勢いよく、ガラガラと自転車を漕ぐ力を強めたのだった。
大人げない私は、してやったりと思った。
私たちはその日、府中の飛行場に向かっていた。家からは、自転車で一時間ほどである。私は北風さんに妙な対抗心を向ける一方で、感謝も伝えたかった。気持ちのよい広い場所に連れて行き、私の発見したいくつかの面白い場所を紹介することが、感謝の印になればいいと考えた。
感謝とは、あるとき北風さんが私にしてくれた、ちょっとした気遣いに対するものだった。
私が近所の老父の世話をしている頃のことである。寡夫となりながらも、数年間、食事も含めて一人で身のまわりをこなしてきた老父が、急に何かと私を頼るようになった。その上、昼夜逆転が起き、午前三時過ぎに、私がその日の仕事を終えて寝ようとすると電話がかかり、お腹がすいたという。そんなことが頻繁に起こり、昼間は昼間で、あっちが痛い、こっちが痛いと、すぐに呼び出しの電話があり、当時たまたま忙しかった私は、文字通り寝る間もなくクタクタとなった。そこで、老父に施設での生活を勧めたが、頑として聞かず、どうしたものかと悩んでいた。
そんな私の様子をどこかで見ていたのか、あるいは聞いたかして、北風の強い日の夕方、まだ午後四時を過ぎたばかりだというのに、もう夕食が食べたいと騒ぐ老父に雑炊を作って家に帰る途中、自転車で通りかかった北風さんが、急に止まり、気の毒そうな顔で、声をかけてきた。
「いろいろ大変そうだね」
最初私はきょとんとして、何をいっているのかわからなかった。
「今、武蔵野図書館に行ってきたんだけど、知ってる、あそこ」
「ええ、何度か行ったことありますが」
「予約すると、机、使えるんですよ」
「はあ」
「静かですよ。落ち着けるし」
「はあ」
「いや、私も父親の世話をした時期がありましてね。それで、ちょっと、気の抜ける時間があるといいかと思って」
私はようやく北風さんが、老父の世話に追われる私を気遣ってくれていることがわかった。老父の世話はもちろん永遠ではなかった。しかし、世話の最中は、先が見えない。また、見ようとしてはいけない。永遠に続いてほしくない困難、永遠であってほしい命。この二つを同時に満たす解はないだけに、出口を見つけられずに独り苦悶する私は、北風さんの気遣いが、とてもあたたかく感じられたのである。
武蔵野図書館の読書コーナーを利用することは、結局なかったけれど、何かの形で感謝を伝えたいと考えていた。しかしそのまま、一、二年が過ぎてしまったある日、自転車で近所を流していると、大きな体を折って前かがみになり、力強く自転車をこいできた北風さんに出会った。週末ではなかった。北風さんが勤め人であることは知っていたので、どうしたことかと思った。休暇の可能性はもちろんあったのだが、その前にも、週末ではないとき、北風さんを見かけることが何回かあった。
私は北風さんに、いきなり軽口を叩いた。
「どうしました、こんな日に。会社、辞めたんですか?」
北風さんは、私の冗談に同調せず、生真面目に答えた。
「いや、ちょっと休んでいるんですよ」
「有給が余りましたか」
「いや、もうポンコツになって…」
北風さんはようやく、ニヤニヤし始めて、気楽な物言いを始めたが、私と違ってごく真面目な北風さんが、戯れたポーズで内心を取り繕うところを見て、覆い隠そうとするものが小さくないことを、私は直感せざるを得なかった。
私はもうそれ以上、詮索しなかった。
イチョウの学名を私にほぼ言い当てられて、ちょっとムッツリ黙り込み、気を悪くしたのではないかと思われた北風さんが、気を取り直して明るく口を開いた。
「それで、今日は、どこへ連れて行ってくれるんですか」
もとより感謝の印のための自転車デートだったのだから、なんでこんなときまで、私は北風さんと競ってやりこめようとするのか、自分のあさましさを反省しながら答えた。
「今日は、三鷹の天文台と、調布の飛行場です」
「そうでしたか」
「ご存じですか」
「はい、一応」
「でも、秘密のスポットですよ。きっと知らないと思います」
「それは楽しみだ」
私は北風さんを毎週一回の割合で連れ出すようになっていた。北風さんは植物が好きで、詳しいということがわかったので、強いて自分の自転車散歩コースにある、木霊が感じられるような巨木を見せて歩いた。あるときは、近隣農家の敷地内にある、二抱えもある樫の巨木を。そしてあるときは、深大寺の近くにある青渭(あおい)神社の樹齢数百年の大ケヤキに案内した。北風さんに、巨木の木霊のご利益があればよいと願った。しかし同時に、ウィークデーの昼日中、私と自転車デートを楽しんでくれる人など、なかなかいないので、感謝にかこつけて、北風さんを好都合な遊び相手にしてしまったような気もして、少し後ろめたくもある散歩であった。
私たちは、植物公園のように大きな樹木が生い茂る、三鷹の国立天文台の広い敷地の西側に辿り着いた。そして、三鷹七中の校舎と天文台の万年塀の間の狭い路地を西に進むと、突然道路が途切れ、崖となり、高さ20メートル以上はあるだろうか、眼下に民家の屋根や中層ビルの屋上を見下ろすことができた。左右の視界は180度の大パノラマで、府中の飛行場とその周囲のサッカー場、野球場、さらには緑地公園など、広大な地域が視野に収まり気持ちがいい。野川も大きな宇宙船のような味の素スタジアムも秩父連山も富士もよく見える。崖の淵には百メートル余りも小道が続き、小道の上には雑木林が趣深く生い茂り、路上にやわらかな木漏れ日が落ちる。
妙な観光スポットより、よほど気の利いた場所であるのに、人気は少ない。誰もが、この場所を荒らさせないように、あまり人に知らせずにいるのかもしれない。
北風さんの表情が緩んでいる。言葉はない。絶句、というやつだ。ここへ人を案内すると、例外なくそうなる。私は北風さんの反応に満足しながらも、ここでも、どうだい、と軽薄に勝ち誇る気持ちを戒める必要を感じた。
「次は、あのグラウンドのあたりに行きます」
私は、飛行場の隣に続く、サッカーグラウンドのあたりを指差した。
「今度は、何があるんですか」
「まあ、行ってのお楽しみということで」
頭一つ高さの違う北風さんを仰ぎ見ながら、つい今しがたの反省を忘れ、私は得意げに答えた。
崖を降りて北風さんに見せたかったものは、サッカーグラウンドの周りに何本か立ち並ぶ、背丈の高い樹だった。
それを私は初めポプラだと思った。樹皮の様子はポプラと変わりなく、深い筋が縦に入り、高さもポプラと同じかそれ以上に高かった。葉っぱも似ているような気がした。しかし、明らかに樹形が異なっていた。
ポプラの樹形は糸巻のような紡錘形というやつだが、その樹は、竹ボウキを逆さに立てたような樹形として知られるケヤキを、グッと引き伸ばしたような形をしていた。いずれにしても、とても美しい樹だった。
「見せたかった樹は、これです。ポプラではありませんよね」
北風さんはしげしげとその樹を仰ぎ見ながら、なかなか楽しそうだった。
「うーん、ポプラに似ているけど、違うね。どこかで見たことある気もするけど、何だったかな」
私は北風さんが困る様子が愉快だった。ギンゴーでは失点を取り返したが、エノキでは失点し、以前青渭(あおい)神社のケヤキを見に行ったときも、北風さんに負かされた。青渭神社の御神木のケヤキの大木で、北風さんをうならせたまではよかったのだが、その帰り道でこう質問され、完敗したのだった。
「武蔵野2号というケヤキがあるの、ご存じですか」
私は、質問の意味がわからなかった。
「あの御神木は、枝別れの位置が、低かったでしょ。でも、主幹が一本電柱のように長く伸びて、上の方で枝分かれしているケヤキもあるでしょ。あれが武蔵野1号とか2号とかいう改良種で、在来種は、御神木のようなやつなんです」
なるほど、思い出してみると同じケヤキでも、まったく樹形が違うものがあることに気がつき、これはやられたと、深い敗北感を味わったのだった。
ポプラに似た樹の正体を思い出せず苦しんでいる北風さんを見て、彼の攻撃を封じ込めた気になった。私の得点とは言い難いが、少なくとも失地をわずかに回復した思いがするのだった。
しばらく考えこんで何かを思い出そうとしていた北風さんは、その樹の葉を一枚拾い、「調べてみましょう」といって諦めた。
私たちがその場を離れようとしたとき、一陣の風が吹いて、背後の空でザワザワと音がした。振り返って仰ぎ見ると、気持ちのよい青空を背景に、無数の葉が風にそよぎ、こすれ合って音を立て、チラチラと揺れて輝いていた。
私は次の案内地に向かうべく、自転車を走らせ、飛行場の近くに行くと、突然北風さんが、「ちょっとお茶でも飲みませんか」と提案した。私は断る理由もなかったが、こんな所に喫茶店はない。自販機のお茶かと尋ねると、いい喫茶店があるという。私は北風さんの後を追った。
向かった先は、飛行場の敷地内の平屋のきれいな建物だった。その脇を通ったことは何度もあるが、飛行機を利用するわけでもないのに、こんな所まで入っていいものか心配になった。北風さんはためらいもなく、自転車を建物の入り口近くに止めた。よく見ると入り口に小さな看板が出ていた。「プロペラ・カフェ」という名の喫茶店だった。
喫茶店の南面は、大きなガラス張りで、滑走路のほとんどを横から見渡せた。小型、中型のプロペラ飛行機の滑走路だから、ジェット用に比べれば短いが、窓外近くには待機中の飛行機も見え、間近に見る滑走路の広大さは、気分を爽快にしてくれた。少し遠くでは、エンジン音を少しずつ高めて、そろそろ飛び立とうとしている十数人乗りの飛行機が見える。
「いいですね。こんな所があったとは」
私はまた北風さんに一本取られたわけだが、悔しさを忘れて、胸のすく景色に見惚れた。さらにこの喫茶店は面白いことに、どの椅子の位置からも、喫茶店と壁を接する隣の格納庫の中が見えた。立ち歩いて格納庫内に入り、規制ロープの範囲内なら、間近で小型機やヘリコプターを見学することもできた。
北風さんが、目を輝かせている私を満足そうに見ながら聞いた。
「飛行機は、好きですか」
私はためらわずに答えた。
「ええ、大好きです。特に離陸したばかりの飛行機の後ろ姿を見るのが好きです。なんとなく哀愁を感じて」
「そうですか。それはよかった」
負けっぱなしは、やはり面白くない。意地の悪い私は、北風さんをがっかりさせることも忘れなかった。
「飛行機を見るのは大好きだけど、乗るのは、大嫌いです」
北風さんは苦笑いして、期待通り、ややがっかりした顔になった。
「いやね、私も苦手なほうで、特に、小さいやつは嫌いですね。ここから、小さいのに乗って、航空写真の撮影につき合ったことがあるんですけど、怖かったな」
この屈強そうな剛の者は、植物を愛し、高所に震える、ということを知り、見かけに反して、繊細な人物かもしれないと思った。
それにしても、航空撮影に同行する職業とは何だろう。知りたいが、知らないほうが、二人にとっていいのかもしれないと、なんとなく感じた。北風さんも私の職業の仔細については、尋ねようとしない。
喫茶店で私たちは、飛行機にまつわる話をした。プラモデルの飛行機作りから、小刀で木を削ってゼロ戦を制作したこと、そして私は最近手なぐさみに、モチノキを彫刻し、人や動物の木像を作っていると話した。さらに、モチノキはとても固く、削るのに大変苦労すると教えると、北風さんがまたクイズを出した。
「世界で一番重くて固い木、ご存じですか」
「カシですか、ツゲですか…」。私は知る限りを答えたが、不正解だった。
北風さんは表情を明るくして答えた。
「リグナムバイタという木があって、比重は1.28だそうです」
「エッ、じゃあ、沈む」
「ええ、水に沈むんです。木工用の加工機械では歯が立たないので、金工用の機械で成型するそうですよ」
自分のことを棚に上げれば、北風さんは、ちょっと対抗心が強すぎる気がするけれど、その穏やかな物腰、高い教養、そして標準以上の品格と善良性を思うと、きっと社会ではそれなりのポストにいるはずだと想像できた。そんな中老の紳士が、私なんぞとウィークデーの昼日中、自転車散歩を楽しんでいることの意味合いについては、やはり慎重に解釈しなければならないだろうと、改めて感じるのであった。
とはいえ、ブラインドから見えない右フックを食らったような、リグナムバイタ攻撃により、思わぬダウンを喫した私は、スリップダウンだとアピールしながら、大きな失点を慌てて取り戻そうとするボクサーのように少々気がせき、飲みかけのコーヒーもそのままに、「そろそろ行きましょうか」と北風さんを促して、リベンジの思いもこめつつ、その日のとっておきの場所に案内することにした。
「プロペラ・カフェ」を出て、滑走路沿いの道を西に向かうと、飛行場の西隣にある、広い緑地公園に入った。元来この地域は、すべて飛行場だったから、地形的にも平らな地域だが、公園には人口池が掘られていたり、なだらかな丘陵が諸所に造られていたりなどして、計算されたほどよいアンジュレーションが、景観に変化をもたらし、ただ広いだけではない、趣きのある感じのいい公園となっていた。木立は少なめで、基本的には芝生の緑が気持ちよく広がっている。
「これは何ですか」
北風さんが、公園の入り口近くにあった、コンクリートの物々しい古い建造物の前で止まった。周囲の穏やかな公園のたたずまいとは、一見して違和感がある。巨大なお皿を伏せたようなドーム型だ。
「掩体壕(えんたいごう)というものらしいですよ。戦時中、飛行機をこの中に格納して、敵の爆撃から守ったようです」
北風さんは興味深そうにしげしげと見つめていたが、私の自慢はこれではなかった。小刀で木っ端を削ってゼロ戦を作っていた少年時代なら、さぞかし興味を持って胸躍らせた、貴重な歴史的遺産である。しかし、日本で三百万人、世界で五千万人を超える、多くの無辜、善良な人々の命が奪われたと伝えられる第二次世界大戦の記憶の断片だと知ってしまったからには、決して私の自慢の場所にはならなかった。
私は北風さんの掩体壕への好奇心に関しては、あまりていねいには応えず、さらに公園の奥へと進んだ。すると公園の一角に、芝生におおわれた小高い丘が見えてきた。頂上は公園内の通路から、十数メートルの高さがある。
「ここですよ、私がご案内したかったのは」
私はちょっと自慢げに告げた。北風さんは、自転車を止め、すぐに独りでぐんぐん大きな歩幅で、丘陵を登り始めた。私は遅れてその後についた。
頂上に一基だけあるベンチの脇に立った北風さんは、前方の広々とした景色の遠くに目をやりながら、「これは、いい」と独り言のようにつぶやいた。
私たちの目前には、滑走路が正面に見え、エンジン音を徐々に高め、いきり立つ猛牛のように興奮して、離陸の準備を整えている双発機が、こちらに機首を向けていた。
「ここは真正面ですね」
北風さんが、楽しそうだ。
「ええ、もうすぐあの飛行機、飛び立ちますね」
私は絶好のタイミングで丘に登ったことを喜んだ。この飛行場は、羽田や成田ほど、絶え間なく離発着が繰り返されるわけではない。二、三十分静かなときもよくある。
「そろそろですね」
「そろそろです」
エンジン音はさらに高鳴り、かなり遠くにいる私たちにも、まるで近くにいるかのように、力強い音が聞こえてきた。そして、ちょっと油断した瞬間に突然飛行機がスタートし、猛然とこちらへの突進を開始した。
見る見るうちに大きくなる飛行機。離陸をしくじれば、確実にこの丘に突っ込んでくる。それを遮る柵は、非常に低く弱く、役に立たない。
滑走路を爆走する飛行機は、いつも通りに、そのときもまた見事に舞い上がり、私のわずかな不安はすぐに去ったが、今度は、正面の頭上にふわりと浮かんだ飛行機が失速して、私たちに覆いかぶさってくるのではないかという一抹の不安が脳裏によぎるのであった。
飛行機は私の不安をよそに、銀色の腹を見せながら上手にどんどん高度を上げ、しばらくすると機体をやや傾け、進路を変え始めた。窓から乗客の楽しげな表情がチラリと見える。間もなく機影は蒼空の白い一点と化した。
私たちはベンチに腰掛け、離陸ショーの余韻を楽しんだ。
私は、「どうです、すごいでしょう」などと、無理に私の興奮への同意を求めることをしたくなかった。北風さんの様子を見て、何か楽しげなものが静かに広がりさえすればいいと思った。
北風さんが、口を開いた。
「特等席ですね」
私は北風さんの晴れやかな表情に満足した。
その後も私たちは、よく晴れた青空の下、緑の丘のそのベンチに座って、しばらく話をした。
北風さんは、自分の大学時代のラグビーの練習場は、こんな飛行場の隣にあって、滑走路に進入して遊んだことを思い出すと、懐かしそうに言っていた。そして、先ほど拾ったポプラに似た、不明な樹の葉っぱをポケットから取り出し、親指と人差し指で柄を摘み、風に葉をなびかせながら言った。
「思い出しましたよ、この樹」
「何ですか」
「ほら、この葉の柄、葉柄(ようへい)というんですが、ここが普通の葉よりずっと長いでしょ。こうして風にかざすと、よく揺れるのはそのためです。この柄の断面を見てください。三角形でしょ。長い葉柄の強度を増して、バネの働きをして、よく葉が揺れて、ほかの葉とこすれ合い音を出すようになっているんですよ」
「そうか、だからあのとき、樹がザワザワと鳴ったんですね」
「そうなんです。ポプラは別名、風に響く樹、風響樹(ふうきょうじゅ)といいます。ポプラの葉もこれによく似ているんですよ」
「それで、この樹の名前は?」
「確か、山鳴らし、だったと思います。山の中でこの樹が鳴ると、山全体がまるで鳴っているように聞こえるんです」
「へぇー、そうでしたか」
私は北風さんの知識によって、樹の秘密が解き明かされることを、とても愉快に思ったと同時に、これだけの明確な記憶を、どうしてあの瞬間に思い出さなかったのか、少し不思議だった。この丘から見る飛行場のアングルが、学生時代の記憶を呼び覚まし、それが呼び水となり、山鳴らしの記憶に辿り着いたのか。あるいは、飛行機の迫力ある離陸風景が、北風さんの記憶の一部の封印を解くきっかけになったのか。もしくは、それらとはまったく関係なく、ふと思い出したにすぎないのか、いくつかの可能性を考えてみたが、それはどうでもいいことのように感じられた。
私は脳裏に浮かんだ、別な好奇心に重心をかけて遊ぶことにした。
「それにしても、なぜ、鳴るんでしょう。なんのために」
「なぜ? そうですね、なぜでしょう」
北風さんは微笑しながらも、やや困ったように首を傾げた。私はさらに無造作に質問を重ねた。
「花がきれいだったり、実が美味しかったりするのは、鳥や虫や獣や人に、その存在を知らせて、受粉を助けてもらったり、実を食べさせて、種を遠くに運んでもらためですよね」
「そうです」
「それじゃ、鳴るのは、なぜなんだろう」
北風さんが軽く息を飲んでから、心なしか物憂げな口調で答えた。
「意味なく鳴るわけはないと思いますね。かつては意味があり、今はないという場合もあるかもしれませんが」
北風さんが進化に関わる話をほのめかしただけでなく、話の後半に内心を託そうとしたことに気がついたので、私はあえて非科学的な、ロマンチックな方面からの解釈を試みた。
「ある詩人は、こう言いました。ポプラが高いのは、旅人に、空の高さを知らせるためだって」
北風さんは気楽な顔を取り戻して、愉快に尋ねた。
「風に鳴るのは、なぜだと言ってますか、その詩人は」
「それは言ってません」
この情緒的なベンチは、なにかと効き目が強そうだから、そろそろ離れたほうがよいだろうと思い、私はおちゃらかしを言った。
「私の解釈では、ポプラや山ならしが鳴るのは、旅人を脅かして、早く家に帰れと促すためです」
「なるほど」
北風さんは軽く呆れながら同調し、ベンチから立ち上がったのだった。
その後北風さんとは、あまり会っていない。いつからか、週末以外に出会うことがなくなった。早朝、ゴミ出しに出る家人が、スーツ姿で溌剌とした足取りで駅に向かう北風さんの後ろ姿を見かけたという話を、何度か聞いた。
東京都が管理する公園には、「思い出ベンチ」なるものがある。公園の維持管理の寄付金を募るために、いわゆるネーミング・ライツ、命名権の金銭譲渡制度を、公園のベンチに適用した頭のいい方法だ。東京都の公園に新しく設置するベンチに、高さ55ミリ、幅150ミリの銅色の真ちゅう板を張り付け、その板に、40字以内のコメントと、20字以内の署名を、黒い活字で刻印することのできる権利で、背もたれのないベンチなら15万円、背もたれのあるやつは20万円也ということである。コメントの見本には、「家族で訪れたこの公園 思い出をいつまでも ○○ファミリー」などとある。
私は、この正々堂々たる高価ないたずら書きには、実際どのようなものがあるのか、ちょっと気になり、公園に行くたびにそれとなくコメントを拾い読んだ。実にしみじみとした温かな記憶や感謝に満ち溢れているものばかりだった。しかし、残念なことに私は、コメント見本への共感度を上回るものを、一つとして見つけることができずにいる。
かといって、私に気の利いたコメントのアイディアがあるかといえば、何も思いつかない。「バカ」とか「ゴメン」とか相合傘とか、そんなありきたりなコソコソした落書きが、ベンチには一番似合っている気もするのだが、まさかそれらに署名するのもおかしいし、考えてみれば無記名を原則とし、風雪にかすれ、やがて消えてこそ、いじらしい落書きの本望といえるのではないだろうか。
それに、人々はさまざまな事情をかかえ、思いを抱いてベンチに座り、語り合い、独りごつ。恋する二人、別れた一人、うまくいった老人、つまずいた若者、そして私、北風さん…。ベンチはそれらをみんな覚えているに違いない。
白い雲が浮かぶ青空の下、緑の丘の上に置かれたベンチは、その美しさにたえかねて、自らの記憶を語り出すのである。私たちはただ耳を澄ましさえすれば、いつでもその声が聞こえる。
真ちゅうのプレートは要らない。
1件のコメント
東京に戻ったら、我々夫婦を自転車に乗って、武蔵野近辺を案内して下さい。
北風さんのように博学ではないので、中川さんの気持ちを奮い立たせる事はできませんが、笑えるネタは充分提供できるかと思います。
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