salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2013-01-4
コウタくんと森山大道と
ポッポちゃん


小平鈴木町二丁目 カメのしっぽ 2012-12-19撮影

気分がいいので説教がしたくなり、コウタくんを野川の河原に呼び出した。
子供みたいにその日に電話して、その日のうちに自転車で野川の水車小屋の近くに、私たちは集まった。
「やあ、久しぶり。突然で悪いね」
「いえ、突然がいいんです。前もって言われると、ずっと緊張しっぱなしで、仕事が手につかなくなって…」
「またまた、うまいことをいって」
私のその日のテーマは説教だったが、本人を前にすると、急に勢いがなくなった。もとより私は説教できる分際ではない。成功者でも道徳家でもサドヒストでもない。
「どうだい、調子は」
 あいまいな質問から始めた。
「どうもこうもありませんよ。まったく、最近の若い連中は…」
コウタくんはひとしきり、仕事関係の若い編集者の無礼をあげつらった。コウタくんももう若くはないのだと思った。

コウタくんは友人である。年は十五も離れているが、私の友人である。私と同じ仕事をしている彼は最近ヒマなようである。
私の気掛かりと説教の方向は、そこだった。ついこの間は、ハトを相手に遊んでいたという。

彼の住むマンションの十階のベランダにハトが飛来し、巣作りを始めたそうである。そこで彼は、フン害に悩むマンションの他の住民の騒ぎを尻目に、隠れてエサをやり、手名づけて卵を産ませた。そして、かえったヒヨコを手乗りバトにし、部屋に入れて仕事の合間に遊んでいた。やがて巣立ちの頃になると、そのハトをカメラで撮って、私以外にも誰彼なく写真を送りつけ、自慢していたようである。なるほど稀に見る、自慢し甲斐のある、実に凛々しくチャーミングなハトで、親バカも致し方なしと思えた。名前をつけただろう、言えよと彼に迫ると、恥ずかしがってなかなか言わなかったが、何回かしつこく聞いたら、嬉しそうに教えた。ポッポちゃん。私は彼の溺愛を、ほほえましく感じるとともに、少し心配にもなった。溺愛を可能にする大きなヒマを想像することができたからだ。

そのうちマンションの住人たちは、フン害に耐えきれず、全戸一斉に防鳥ネットを全ベランダに張り巡らせたので、ポッポちゃんとの蜜月はあえなく終ってしまったわけであるが、代わりはすぐに現れた。次はカメ。コウタくん、今は、カメのカメリに夢中である。首をもたげてなまめかしく振り返るカメリの写真を、ほめろとばかりにまた送ってきた。なるほどこれも、哀愁をおびた無邪気な目つきがかわいいのだが、コウタくんの未来を思うと、やはりちょっと複雑な気持ちになるのであった。

「カメリはどう。元気にしてるの」
私はコウタくんの今のツボである、カメリの話から始めて、気持ちをほぐし、説教に移るための環境を整えることにした。
「はい。大きくなりました。返事するんですよ」
「返事?」
「そりゃ、しゃべりませんよ。でも、僕が呼ぶと僕をチラッと見て、カミさんが呼ぶと、カミさんを見るんですよ」
「へぇー。すごいね。カメってそんなに聞き分けがよかったかな。ポッポちゃんみたいに、手乗りというか、手名づけて芸でもさせたらいいね」
「ええ、なんかできそうですよ」
晩秋とはいえ、まだポカポカと暖かな河原で、のん気な話がしばらく続いた。
 
コウタくんは、あるときまでサラリーマンだった。
会社にさして不満があったわけではないが、希望もなかったようである。私はサラリーマンと知り合うと、必ず愚痴を一つ二つ聞くことになるので、すぐにいいアイディアを授けることにしている。辞めれば、と明るく教える。すると、かなりの確率で会社を辞める。そんな人が何十人もいるわけではないが、これまで十人は超える。コウタくんもその一人である。
会社を辞めると人はすぐにハツラツとする。そんな姿を見るのは楽しい。やがて不幸にも生活苦が始まれば、私は口先では同情するが、本心は無関心である。いいことは二つ同時に起こらないと、昔から決まっている。

しかし、コウタくんは私より十五も年下だし、離職したとき彼はまだ二十歳代だったから、さしもの無責任な私も気が引け、仕事の口を紹介したくなった。どんな仕事がよいものかと、ファミレスで二人で話をしていたら、彼はたまたま私が持っていた雑誌の校正刷りに目を止めた。
「それ、なんですか」
「最近始めたカメラ雑誌」
「へえー、そんなこともやっているんですか」
「うん、なんでもやる。面白そうだから」
私は人の事務所の一角を借りて、小さな写真雑誌を、スタッフ四人で始めたばかりだった。全国の街のカメラ店に買い取って置いてもらう直売の雑誌である。
「ちょっと、見せてくれませんか」
「いいけど、カメラに興味あるの」
「いえ、まったく。でも、面白そうですね」
「そうだろ。最初、写真が一枚も載ってない写真雑誌の企画書を書いたんだけど、没になって…。でも僕のことをちょっとは気に入ってくれたのかな。写真の載っている写真雑誌をやれと、お金を出して販売業務までやってくださる奇特なプロデューサーが現れてね」
「へぇー、でも、これ…」と、コウタくんは雑誌の表紙を見ながら、ニヤニヤして口ごもった。
「えっ、何か言うのをやめた?」
「まあ」
「いいよ、何でもいってごらんよ」
「はい、じゃ。この表紙、地下鉄の中で持ってるの、恥ずかしいですね」
本気でカチンと来た。しかし、その後少しして心の動揺が収まると、一読者の率直な意見の貴重さに気がついた。私は気の利いた応酬を思いつき、笑顔でこらしめることにした。
「それじゃ、地下鉄で持ってて恥ずかしくない雑誌にしてみてくれよ」
コウタくんは少し困った顔をしたけれど、わかりましたと自信ありげに、適当に答えるのだった。

プロデューサーやスタッフに事情を話して、コウタくんを入れたいと頼むと、地下鉄で持っているのが恥ずかしい雑誌を作っている者たちは、当然一様に怪訝な表情をしたものの、もとより酔狂な面々なので、やがてニヤニヤし始めて、かかってこいとばかりに、コウタくんを受け入れることに賛成した。

コウタくんには、まず、雑誌の写真教室の講師役である写真家Hさんの担当になってもらった。Hさんは、私が二十代の頃からお世話になっている恩人の一人である。下町育ちの面倒見のよい人柄で、写真についてはほとんど何も知らなかったコウタくんを、きっとていねいに指導してくれると考えた。
私の目論みは的中し、Hさんとコウタくんはうまくかみ合った。そしてコウタくんは、Hさんの指導よろしく、少しずつ写真雑誌の編集者としての実力を備えていった。そこで私はコウタくんに、写真教室でHさんの談話をまとめて記事にする仕事を託した。

コウタくんが仕上げて来た記事を見て、感心した。穏やかでしなやかで、そこそこ品位があり、コウタくんらしさがよく出ていた。しかし、気になる所も何か所かあり、中でも見逃せなかったのは、「オイラ」だった。
「なんだい、このオイラっていのは」
「Hさん、いつも自分のこと、オイラっていうんですよ」
コウタくん、嬉しそうにそういう。
「そうかな。僕は二十年近くつき合っているけど、そんなふうにいってたかな」
「ホントですって。今度、ちゃんと聞いてくださいよ」
私には、心当たりがない。コウタくんはちゃっかりウソの言える人だが、そんなことではウソをいうはずはないし、コウタくんは年上を気持ちよくする雰囲気作りと話術に長けているから、もしかするとHさん、コウタくんにうまく乗せられ、ついうっかり、普段使いのオイラを出してしまったかもしれないのだった。
いずれにしても、Hさんやその周辺の人たちと二十年余つき合ってきて、Hさんのオイラに注目したのは、コウタくんが初めてだった。

オイラ話を聞いて、私は少しずつコウタくんの力を怪しむようになった。私は才気走った人を恐れない。才気により人を萎縮させて平気でいる迂闊さが幼稚だから。怖いのはむしろコウタくんの類。用心しないと裸にされる、というより、自ら進んで裸になってしまいそうな気もするのだった。

野川での会見を、実りあるものにすべく、私は少しずつ本題ににじり寄って行った。
「カメリは、何食べるの。僕が小学生の頃飼っていたカメは、煮干とか、スルメ、好きだったな」
「ペットショップに専用のエサがあるんですよ。よく食べますよ」
「そうか。口を開ければおいしい食べ物をくれるなんて、いいなー」
 そういって、私はコウタくんの顔をチラリと見た。なぜなら、共通の大先輩に以前、「口を開けて仕事が来るのを待っているようじゃ、いけない」と、始終口酸っぱく言われていたからだ。その言葉を思い起こすのがいいと思った。
しかしコウタくん、それには無反応で、足元の小石を拾って川面に投げつけて遊び始めた。

あるとき私はコウタくんとともに、取材のため、新宿の歌舞伎町の喫茶店に向かった。相手は森山大道さんだった。ブレ・ボケ写真で一世を風靡した伝説の前衛写真家である。
まさか、名もない小さな写真雑誌の取材を受けてくださるとは思わなかった。しかも、「名写真家のことば」というタイトルの連載の取材だったので、「名写真家」にうさん臭さを感じるだろうと思った。しかし、どういうわけか応じてくださった。そんなふうに、取材前から及び腰だった私は、一人で行くのが気が引けて、勉強のためという大義名分を使ってコウタくんを誘い、歌舞伎町の喫茶店で、おっかなびっくり森山さんを待ち受けることになった。

現れた森山さんは、予想通りの強面の迫力ある人で、初対面のあいさつをしても、ニコリともしなかった。私は変な予感を抱きながら、早速質問した。「この企画の主旨は、プロのお立場から、アマチュアに伝えたい心、ということなのですが、いかがでしょうか」。すると森山さんは、少し間を置いてから、たえかねたようにおっしゃった。「ぼくは今のアマチュアにはまったく興味がない。写真は本質的にアマチュアリズムであるはずなのに、そのことについての意識がまったく欠如している。もうそのへんでダメですね」。その清冽な話しぶりには、少しも高圧的、権力的な感じはなかったけれど、怖かった。
それでもなんとか取材を続け、私は森山さんの作品集の中から選んだ写真を、雑誌に掲載させていただきたいと頼んだ。私の選んだ作品は、水道の蛇口を写したものだった。公園の水飲み場にあるようなありふれた蛇口を、モノクロームで大写しにし、かなり焼きこんで、コントラストを強くしたものだ。なんとも力強く、生き生きとした存在感をたたえていた。その写真のオリジナルをお借りしたいと申し出ると、森山さんは初めて少し表情を緩ませ、「それか。それは確か今、ニューヨークのメトロポリタンミュージアムに出していて」と答えた。

私は感動し、笑い出したくなるのをおさえた。だって、ただの蛇口なのだ。私の蛇口の写真への崇敬のレベルが、ニューヨークのメトロポリタンミュージアム級であることが証明された気がして、嬉しくなった。
結局、蛇口の代わりに、もう一つの候補だった透明なビニール傘の写真を借りることになったのだが、これも壁に立てかけられたビニール傘をモノクロで撮り、強く焼きこんだものだった。ただのビニール傘のくせに、堂々と自身の存在を主張していて、ビニール傘に人格を感じてしまうほどだった。

蛇口にせよ傘にせよ、こんなありきたりなものを撮って、人の心を湧き立たせ、フレッシュにするこの写真家のことばは、もうこれしかないと、取材前からすでに決めていた。森山さんの『写真との対話』という著書の中のことばだった。
「さりげない日常の風景のなかにこそ、たとえば『愛』が、『革命』が、ひそんでいるとするならば、シャッターを押しつづける他はないのだ」
カッコいい。私は、この言葉を表題にすることの許しを得て、取材の終了と感謝を森山さんに伝えた。そして、写真界の大スターと言葉を交わすことができた感動の余韻に酔いしれながら、会計を済ますべくレジに向かうと、森山さんが私につかつかと歩み寄り、想像もしなかった行動に出たのだった。
森山さんは、その大柄で精悍な外見とはおよそかけ離れた几帳面な手つきで、小さな財布からお金をつまみ出しながら、「おいくらですか」と、自分のコーヒー代を払おうとしたのだ。
私は三十年余り編集者の経験をしているが、森山さんのような人はいなかった。もちろん丁重にお断りしたが、私は森山さんのカッコいい言葉を支えている太い柱の一本を見たような気がして、そこはかとなく嬉しかった。
 
それにしても、なぜ森山さんが、そんな行動に出たのか、深い謎だった。日本写真史上の屈指の大スターである。大手マスコミから受けた取材は数知れない。そのたびにレジまで歩み寄り、自分の飲食の分を払おうとされてきたのだろうか。この不思議な出来事とは無関係と思われるいくつかの要素を消去していくうちに、最後に残ったのは、コウタくんだった。
とくに森山さんの心をつかむ、決定的な質問や感想を述べたわけではなかったと思うが、取材中、固くなってぎこちなく、おどおどしながら、引きつるような笑顔しか作れなかった私とは対照的に、いつものように、感じのいい笑顔と、相手を包み込むような穏やかな語り口で、ほどよく合いの手の言葉を継ぐコウタくんがいた。成熟した聞き上手である。
もしかしたら森山さんも、Hさん同様、コウタくんの魔力にほだされて、いつもは隠している自分を、つい出してしまったのかもしれないと思う私だった。

コウタくんはその後、持ち前の人懐っこさと誠実さと、魅力というか魔力というか、不思議な力により、高名な写真家の心を次々につかんで、さまざまな写真の知識や情報を蓄え、やがて私にこんな人を取材してみてはと、すすめてくれるまでになった。
コウタくんの提案により、何人ものすばらしい写真家に、その後会うことができたが、中でも記憶に残るのは、ハービー山口さんである。若くしてイギリスに渡り、パンク発祥の現場に立ち会って、ミュージシャンを撮ったり、ロンドンの市井の人々の表情を、モノクローム写真に収め、名を得た人だった。

コウタくんとともに、ハービーさんのご自宅に伺ったときのことである。取材は、どのようにして写真家を志したか、という点に集中した。
ハービーさんは、生まれて間もなくカリエスにかかり、小学生時代はいつもコルセットをしてクラスの端っこにいて、悶々とする日々が続いた。友達はできず、先生からも厄介者扱いされ、いじめられるよりもっと辛く、六年間無視され続けた。それでも中学に進学して、自分のイメージをリセットするチャンスが来た。音楽家になりたくてブラスバンド部に入部。その頃ジャズミュージシャンのハービー・マンに憧れていた。しかし、病弱な身は厳しい練習に耐えきれず、半年足らずで退部を余儀なくされた。
ようやく孤独から解放されると思っていた矢先の挫折により、長い間引きこもることになってしまった。

そんな頃、友人が写真部に誘ってくれた。やってみようと思った。写真のテーマはすぐに決まった。「人のあったかい面を撮って、人の心をもっとあったかくしてみたい」と思った。写真の腕をめきめき上げ、高校では写真部の部長になり、大学生になったある日、公園に行くと、バレーボールで遊ぶ高校生ぐらいの女の子が二人いたので、カメラを向け、撮り始めた。
すると女の子の一人が、アッという声を上げ、ハービーさんの方を見た。ボールがハービーさんに向かって飛んで来た。そのとき、「僕はあわやというところでよけたんですが、その女の子が僕の顔を見ながら、二秒ぐらいの間に、あっ、当たっちゃう、痛そう、ごめんなさい、私のせいで、あっ、当たらなくてよかった…。そんな、人への優しさ、思いやり、いつくしみ、そして安堵感、反省心、謙虚な気持ちなど、十八歳の僕は、そこに人間が持ち得る美しい表情のすべてを見た思いがしました」という体験をされたのだった。

この二秒間が、その先数十年の写真家生活の原点となり、方法論となった。旅をして、いろいろな人たちのあたたかな表情を撮ってみようと決めた。そして、生まれた多くの作品は、多くの人々の心を和ませた。
ハービーさんは、二人の素敵な表現者が、自分に贈ってくれた言葉を、大切にしていた。一人は、寺山修司さん。「ハービー山口は、人間の顔の筋肉の一本の変化を撮ることのできる写真家だ」と言われたそうだ。もう一人は、アラーキーこと写真家荒木経惟(のぶよし)さん。ハービーさんの写真展に訪れたアラーキーが言った。「ハービー山口は、日本人で唯一人間の幸せの一瞬を撮れる写真家だ、ワッハッハッハ」。二人とも、わかったようでよくわからない評価の仕方だと思うかもしれないが、ハービーさんの写真を見れば、誰でも必ずなるほどと思うはずだ。

私たちの雑誌に掲載した、お台場の恋人二人の写真も、ちょっと遊んでいる風の男の子と女の子で、撮り方によっては、不良っぽい凄みを出すこともできるかもしれない二人だが、ハービーさんのレンズに向けたその表情は、透き通った優しさと気品あふれる、誰もが祝福したくなるような幸福感を、すがすがしくたたえていた。

私はすばらしい話を聞くことができたと、ハービーさんはもとより、コウタくんにも感謝したい気持ちでいっぱいだった。取材の帰途も感動にひたりながら、コウタくんに同意を求めると、やはり感動した様子で、満ち足りた笑顔を返してくれた。そして、ニコニコしながらコウタくんは別な感想をつけ加えた。
「ハービーさんの息子さん、かわいかったですね」
 取材中に、小学生の息子さんが帰ってきて、お父さんに、おやつのありかを聞いたのだった。屈託のないかわいい少年だった。
「そうだね、かわいかったね」と、それほど心をこめずに私が答えると、彼はさらに意外な感想を投げかけた。
「息子も、ハービーって、呼んでましたね」
私は心のスキを突かれた気がした。コウタくんは、外見も純然たる日本人にしか見えないハービーさんが、息子さんにもハービーと呼ばせているのが楽しく、その点からもハービーさんの面白さを、高く評価したようだった。
 
コウタくんは、結構よそ見をする。ともすると、いつの間にか心ここにあらずとなり、失礼な気がすることもある。しかし、彼の見ている先は、なるほど面白いことが多いのである。

秋の日は短い。私はいよいよ本題への突入を開始した。
「Тさんとは、最近も会うの?」
写真家Тさんは、私たちの雑誌で連載を続けてくれた散歩写真の名手である。軽妙洒脱なとても楽しい文章も書かれ、写真界でもその感性と技術の高さを認められた、隠れたる大御所の一人だが、マスコミ嫌いである。コウタくんが担当となり、いつの間にか、個人的なつき合いが始まり、お互いの趣味の落語も一緒に聴きに行ったりする仲となっていた。もうかれこれ十数年の交際となった。
「ええ、この間もお会いして、携帯写真の写真集作ったからって、もらったんです。これあげますよ」
 ポケットから出したのは、携帯電話の画面の大きさの、1冊8ページのちっちゃな写真集だった。立ち入り禁止の立札、待ち合わせの人の後ろ姿、そして白い雲などを写した散歩写真である。

「いいね。僕もこれを作ろう。自分の写真で。それにしても、Тさんとは長いんだから、たまにはТさんと仕事したら。そうだ、名写真家のことばを、本にしよう。Тさんに監修者になってもらって」
この類の話は何度もしていて、そのたびコウタくんは乗り気でなかったので、今回もダメかと半ば諦めていたところ、やはり色よい返事はない。
「Тさんは、そんなこと、やりませんよ、きっと。まあ、僕が言ってもダメでしょうね。ナカガワさんが頼めば、わからないけれど…」
コウタくんは仕事で知り合った好きな人を、利用しようとはせずに、大事にしようとするばかりなのだ。
「そうだね、そんな俗っぽい事、嫌いかもしれないね。でも、ハービーさんにもコウタくん、あの後何回か、取材に行っているんでしょ」
「ええ、まあ」
いろいろなジャンルの音楽に精通しているコウタくんは、パンクの発祥に立ち会い、ハービー・マンが好きなハービーさんとも、気心が通じたようである。
その後ますます名を上げたハービーさんも、すばらしい仕事上のパートナーとなり得る人だった。
「いろんな人、知っているのに、どんどん、いろんなこと、お願いすればいいんだよ。ハービーさんだって、森山さんだって、動いてくれるかもしれないよ」
「ええ、そうかもしれないけど…」
やはりコウタくんは、そういうことで好きな人をわずらわせるのが嫌いなのだ。

後でわかったことだが、コウタくん情報によれば、森山大道さんは、散歩写真家Тさんと友達であり、新宿のカラオケに、二人で歌いに行く仲だった。
その話をコウタくんから聞いて、私は大いに驚いたわけだが、ともかく、こうした絢爛豪華な人たちの隣に、コウタくんは自らの力でちゃんと席を得たというのに、そんな贅沢な財産さえ、彼は決して積極的には使おうとはしないのである。
と同時にコウタくんは、あるとき私がふと書いた一行を大事にしていることが、野川の河原の会話の中で判明した。「忙しい人は嫌いだね。いつ行っても遊んでくれる人がいい」と、私がメールの中で記したという。しまった。つまらぬことを書いたものだ。

あさましい世の中である。私もあさましく生きてきた。自分の興味や関心や、出会った人たちを、何でもお金に結びつけようとしてきたあさましい自分が恥ずかしくなることがある。だから、大切な人を大切にするコウタくんは、私の敬すべき、範とすべき友人である。そして、勤労意欲を鼓舞する人たちの卑怯な魂胆に、薄々気づいている彼の鋭敏さも好きだ。

でもねコウタくん、私はやっぱり俗人なのだろうか。もし君がそのスタイルをこれからも貫き通そうとするのであれば、やはり私は頑固に反対するのである。
もう少しだけ、あさましく生きるのがいい。忙しくなるのが自分のためだ。さもないと、そのうち、ハトやカメや私と遊ぶ時間さえ、ままならなくなってしまうかもしれないのだから。

野川における説教工作は、今回も失敗裏に終わったようだ。日が傾き、河原を渡る風が冷たさを増したので、私たちは野川を離れ、小金井の方面に向かった。途中、数百坪の豪邸が次々に現れた。私の隣を走るコウタくんに、腹立ちまぎれに言う。
「なんだよ、この家、人を脅かしやがる。どうやったら、こんな家に住めるんだ」
「わかったら、ナカガワさんとなんか、遊んでませんよ」
「それは失敬だろ。ピンポンダッシュでもするか」
「いやー」
「手ぬるいな。小石でも投げ入れるか」
「やりましょう」
 コウタくんの嬉々とした顔を見て、心配になった私は、もうそれ以上はその話はやめて、帰路を急ぐことにした。
 
中央線を越して途中で別れ、コウタくんは、小平の鈴木街道ぞいのカメの専門店「カメのしっぽ」に向かった。カメラよりカメリ。
天気のいい日、ちっちゃなクサガメ、カメリも、やっぱり甲羅干しを好むらしい。日向でじっとして気持ちよさそうだと、コウタくんが教えてくれた。

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1件のコメント

我が夫には
その昔「辞めちゃえば」
って言いたかったですか?
その夫は、今、辞めたくて仕方がないらしい。

コウタさんにお会いしたいです。

by うらちゃん - 2013/01/09 8:49 PM

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コメント


中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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