salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2012-12-2
たまらん坂に吹く風はブルース


国立市たまらん坂 2012-10-20撮影

好きな映画を三つ言わせて、性格を当てるのを芸にしている映画評論家? 芸人さん? をテレビで見たことがある。なかなかの正解率で、当てられた人は舌を巻くほどだった。どうせテレビのことだから話半分としても、確かに性格というか、趣味の傾向は現れるだろう。
ちなみに、私の好きな映画は、フォロー・ミー、フィールド・オブ・ドリームス、大脱走、バニシング・ポイント、スティング、ペーパー・ムーン…。三つに収まらないが、自己分析すれば、現実逃避と詐欺が大半を占め、ちょっと恋がまじる。もっとも恋愛映画フォロー・ミーも、追いかけっこみたいなものだから、逃避的要素が多く、つまりは逃げ惑う詐欺師が自分の本性であり、なるほどその通りで、下手な占い師の眼力を上回る気がする。
 
しかし、この当てっこを音楽でやってみると、かなり違う結果が出る。好きな曲は、恥ずかしくてすぐにはいいたくない。私はAKBが好きでないし、あの戦略を下品だと思うのだが、恥を凌いで言うと、キャンディーズが好きだった。微笑み返し、を聴けば、淡い思い出も蘇り、今でも胸が締めつけられる。武蔵大学に通っていた蘭ちゃんと同じクラスになった高校時代の友人が、彼女のホットな日常を報告してくれたときには、わくわくしながら聞き入った。ATGの「青春の殺人者」の主演の頃の水谷豊ならカッコよかったからまだしも、昔の透明感が薄れてしまった「相棒」の水谷豊と蘭ちゃんが結婚したと知ったときには、少しがっかりした。
 
ついでに、懺悔箱に入ったつもりでもっと言ってしまえば、アグネス・チャンの草原の輝き、天地真理の明治チェルシーのCMソング、中山千夏のあなたの心に、南さおりの17歳、ひとかけらの純情、伊藤咲子のひまわり娘、やまがたすみこの風に吹かれて行こうが好きだ。そして最近なら、森高千里の17歳、渡良瀬橋…。
 
嗚呼、私はどうしてしまったのだろう。もっと高邁な理想と深淵な哲理を求めて齢を重ねてきたはずだったのに、結局夢見る少女の領域を出ることができなかったようだ。サティーのジムノペディ第1番だって、モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲だって、バッハのトッカータとフーガ・ニ短調だってカッコいいなと思うのであるが、どちらかといえば、あちらである。
結局成熟を見ず、多くの課題を残したまま、朽ち果てようとしている私であるが、ようやくここへ来て、ちょっといい傾向も出てきた。ブルースが聴きたい、などと誰かにいってみたくなるときがあるのだ。

ブルースといえば、高田馬場である。
かつて高田馬場には、哀しいS社という編集プロダクションがあった。ここには毎夜愉快な仲間たちが寄り集い、貴重な時間を贅沢に空費した。メンバーには、それぞれの夢も希望も憧れも未来もあったが、心の背景色は一致していた気がする。ブルーだった。
 
ある日私はブルースが聴きたくなり、自転車で国立のたまらん坂に出かけた。高田馬場の愉快な仲間たちを思い出すためでもあった。ちょっと道のりは長くなるかもしれないけれど、今日もよろしくと自転車にあいさつして。

ただし、私の自転車に名前はない。命名は実像を隠すからだ。名前をつけることにより、人は相手を詳しく見ることをやめてしまう。たとえ無機的な物質である自転車でも、私にとっては有機的な存在で、日々私の心のありようによって、その存在感の感触は変化するのである。彼、もしくは彼女の日々刻々の微妙な変化を味わいながらつき合いを深めていくことに妙味がある。だから私は自分の愛車を命名しない。ということもあるのだが、あるとき私が自分の青色の自転車を「ブルー」と呼んで話しかけていたら、それを偶然見ていた家人に「気持ち悪!」と言われたので、命名を断念したというのが実情だ。

国立のたまらん坂へは五日市街道を西に進み、府中街道を南に下って恋ヶ窪を過ぎれば簡単に行けるが、近道を選ぶとこのコラムの看板に傷がつくし、恋ヶ窪には暇だけはモナコの大富豪以上に持て余している貧乏な友人がいて、つい寄ってしまいそうな気がして、寄ってしまえば昼間っからビールをだらしなく飲み始めて、結局たまらん坂への小旅行が計画倒れになりそうだから、そのコースは帰途に使うことにした。

国立へは武蔵境からJR中央線の南側に出て、鉄路に沿って西に向かうことにした。目指す国立のたまらん坂は、国立駅の南側に位置している。
国立、国立という文字を見ていると、知らない人は、不必要に恐縮する人もあると思うので念のために断っておく。ここに記す国立はコクリツ=nationalに非ず、クニタチである。国分寺(コクブンジ)と立川(タチカワ)の間にできた新駅の命名が、安易になされた結果である。

この安っぽい名前の駅から数分歩いた所に、あのライブハウスがあった。たまらん坂から遠くなさそうだ。帰りに寄れれば寄ってみようかと、自転車をこぎながら、のん気に思いを巡らせていたら、東小金井駅を過ぎたあたりから、この小旅行は突如はなはだ困難なものとなってきた。
 
なぜなら、このあたりは国分寺崖線という大きな崖が立川の方まで続いていて、電動アシスト自転車でなければ、見ただけで勇気を失いそうな急峻な登坂、降坂が繰り返されるからだった。東京散歩の師と仰ぐ我らが荷風先生言うところの「平地に生じた波瀾」であるこれらの坂道には、挑みがたいものがあった。
しかし、これと決めたら貫き通すというより、どんなくだらない気持ちの勢いをも止める自制心が不足しがちな私は、自転車を左右に揺らして立ち漕ぎをして、気が遠くなるほど息を切らしながら、刑罰のような、えらいことになってしまった自転車散歩を続けるしかなかった。
 
しばらくすると私の疲労が極限に達した。いくつめかの坂を登りきって、もう平らになるかとおもいきや、またもや眼下に急な坂道が長く続いていたので、これは文字通りたまらんと、たまらん坂への小旅行を諦めようとした。もちろん下り坂は楽チンだが、下れば必ず登らなければならないからだ。
うらめしく坂を見つめていたら、国立市という道標の先に、嬉しいコンビニの看板が小さく目に入った。「コープとうきょう たまらん坂店」と書いてあるのが見えた。

25years ago.その夜私は国立のライブハウスに居た。狭い人混みは大っ嫌いだ。学生の頃、ディスコという所ではいいことが起こると聞いて、悪友に連れられ一度だけ新宿歌舞伎町のディスコBig togetherに行き、夜通し踊る連中を眺めていたが、一つもいいことは起こらなかった。
まあ、ライブハウスという所も、ディスコの類だろうと想像し、演奏を聴く前から私は、こちらが気恥ずかしくなるような、わざとらしいウソ臭い世界に違いないとあきれる準備をしていた。
気が進まないまま会場に入ると、立ち見だけのホールは満員で、ステージが低いから演奏者の姿はまったく見えず、ホールの奥の方から、ボーカルの恐ろしくしゃがれた声がスローテンポで響きわたり、時折何人かの慣れた客のヒューとかいう掛け声が混ざっていた。やっぱり、と思った。

グループの名は、憂歌団。歌を憂うる団体とは大仰なと思い共感できなかった。憂国の士という言葉も連想させ、思想もないだろうに、幼稚でナンセンスな連中だと決めつけた。
それに当時私は、もとより信じていなかった。日本人がブルースを歌ったところで様になるはずがない。ブルースの血なんか、一滴たりと流れているはずがあろうものかと、単なるコピーバンドの域を出ないだろうという想像も加えていた。
憂歌団から害を受けたことがあるわけではなく、しかも憂歌団は、私の親愛なる友人の同級生だったし、その夜は演奏後に、団員の一人に仕事の依頼をする用事があって行ったというのに、どうして彼らにそんなに敵愾心(てきがいしん)を燃やすのか、自分でもよくわからなかった。

憂歌団に頼みたい仕事は、音楽とは無関係だった。その頃私は各種スポーツ関連書籍の編集者だった。プロレスの様々な大技のかけ方を解説する本を作るために、憂歌団の団員の一人に、力を借りようとしていた。団員の一人が、当時大人気のプロレス団体のファンで、その中心的レスラーと懇意にしているという話を聞いたからだ。憂歌団と人気プロレス団体、二つのビックネームを冠した本を作れば、ベストセラー間違いなしと、安易な商売を企んだのだった。
この時私は、良心を売ってお金に換えることを厭わない精神状態にあった。危険極まりないプロレス技を、青少年たちに教えることによって起こるだろう出来事に対する配慮を怠った。
お金に困っていたからである。

私はしばしば軽薄で、お金にはいつも苦労しているが、とくにその頃迂闊で金銭欲が旺盛だったのは、私が書いた原稿料の未払いが発生したからだった。御茶ノ水駅の近くにある大きな出版社で、70万円分ほどの原稿を書いた。そろそろもらえる頃なのにまだ入金がなかったので編集部に聞いてみると、今年は出版のチャンスを逸したので来年に回したい、ついては原稿料の支払いも、来年の出版後になると、さも当然のように宣告された。電気代、水道代、新聞代、ガス代など、月々の支払の遅れがちな身の上である。70万もの売掛金を、1年も放っておけるほどの余裕はない。ガスの集金人も、最初は恭しくやってきたが、来月こそは、来月こそはと延引しているうちに、だんだん強そうなヤツがやってくるようになり、そいつは帽子をアミダに浅く被って、体も斜めに構えながら、まだ払ってくれないのと、いっぱしの取り立て屋気取りで凄むのだった。

しかしそんな状況にあっても、私に解決策がないわけではなかった。御茶ノ水駅近くの大出版社の、私の書いた原稿を担当する編集部の編集長は、労働組合の委員長だと聞いていたからだ。小さな出版社やプロダクションの原稿料の未払いは、日常茶飯の出来事だったが、まさか大出版社の労働者の味方たる編集長が、この理不尽な事態を見逃すはずはないだろうと思った。We Shall Overcome.万国の労働者は共闘しなければならないはずだ。私は編集長に電話をした。すると編集長は、こともなげに言った。来年の出版後の支払いとなります、と。申し訳ないの一言もなかった。ある会社の労働組合は、無縁な未組織労働者の味方ではないという公理を、身を以て知ることになったというお粗末な話である。

ライブハウスの会場に重い足取りで入った私は、憂歌団の幼なじみで、仕事の橋渡しをしてくれる友人に促されるまま、観客を掻き分けてステージのそばまでようやく進むと、会場の熱気とスポットライトの光熱により、水をかぶったように汗だくになって、ひり出すような声で、悲しそうに笑いながら歌い上げる人がいた。
私はその姿を間近にし、歌を聞き始めてすぐに、心の中で準備していた拒絶反応のことをすっかり忘れ、遠い過去からバナナボートが蘇ってきた。私が準備していた敵愾心は、大した根拠のない、うまくやって金回りのよさそうな人たちへの単純な嫉妬だったようだ。

バナナボートは、父が小学生の私に初めて聴かせたハリー・ベラフォンテのシングルカットレコードだった。大正生まれでインパール作戦に二等兵として連れていかれてひどい目にあった父は、軍人らしい所は一つもなく、若い頃は脱色して赤毛のおかっぱ頭で、丸メガネをかけ、東京銀座の広告会社でデザイナーをしていた洒落者である。賭け事が好きで、人をよく担ぎ、ジャズと美空ひばりも好きだった。

バナナボートの歌詞は、「もうすぐ日が昇る。オイラは辛い仕事を終えて家に帰りたいんだ。伝票をつけるおっさん、さあバナナを数えてくれ」といった内容で、バナナを積み出す港で荷役に従事していた人たちの労働歌をアレンジしたものだった。「デーオ・イデデェーオ」というユーモラスな掛け声が特徴的な、陽気でエネルギッシュな雰囲気が感じられる歌で、レゲーにも通じるのん気さもあふれているけれど、中心にあるのはペーソスだった。

バナナボートがメントなのかカリプソなのか知らないし、憂歌団のブルースとどう脈絡があるのかないのかわからないが、いずれもうまくやっている人たちのただのん気な歌では決してなく、なかなかうまくいかない人たちの哀歌であることは、共通しているように思えた。
そしてなによりも憂歌団の歌は、私の血の中のすでに記憶をなくした一部に働きかけ、身に覚えのないノスタルジーを強く呼び起し、体の芯から自分を温めてくれる気がするのだった。

ライブハウスに行った次の日、高田馬場の仕事場に出かけると、すでにメンバーは揃い、まだ十分には日が沈んでいないというのに、いつものようにイイチコとイカソーメンの廉価な宴が始まっていた。その中心は、仕事場の主、M社長である。
出版社兼編集プロダクションの社長M氏は1億の借金を抱えていたらしい。明細を見たわけではないので信じるに値する根拠はまったくなかったが、私は信じ、集まってきた連中も皆、それほど疑わなかった。M社長は、私と二人だけのときイイチコを飲みながら、「誰か肝臓半分買うやつ知らねえか」とやくざっぽい口調で尋ねた。そして、連日訪れる債権者の切実な形相を見れば、額はともあれ債務がかなりあることは、まぎれもない事実と思えた。

人を助けるなんていうことは、なかなか気分のよいものである。しかも、助ける相手が、助けなど本来必要としない豪傑、野盗の親分を彷彿とさせる風体の、貧しても屈せぬ強気の乱暴者となれば、まだ若く幼かった私は、まるで孤独な渡世人に憧れる純真無垢な少年のようにときめき、安い正義感に火がついてしまったのかもしれない。
それに、かつては十余人のスタッフとともに、年間40~50冊近くの本を作っていた社長だった。盛り返せば、またたくさんの仕事が入ってくるに違いないと私は踏んだ。ピンチの後にチャンスあり。株は底値で買うに限る。もしかしたら金銭的にもかなりうまくいくかもしれないと、内心ほくそ笑みもした。そんなあからさまな欲望を、人助けという美名で包み、M社長に接近しているのではなかろうかと、後ろめたさも感じる私だったが、多額の借金を背負った人間の再出発は、当然簡単なわけはなく、M社長も私の思惑をすんなりと実現してくれるほど単純な人情家ではなかった。私と同じぐらいには強欲で、甘ったれで、十分怠惰だったから、なかなか私の計算通りには進まなかった。

人は金の匂いに蟻集するものだが、貧乏の匂いに安心して集まる人種もいるようだ。高田馬場のメンバーたちは、みんなお金はもちろん、仕事もさしてないくせに、ゴキブリとネズミが我が物顔に走り回る、狭く汚い事務所の片隅で、折り畳み式の長机を二つ合わせテーブルを囲み、連夜催される宴会の時間を、何よりも優先した。
齢五十を過ぎてなお、毎日腕立てと腹筋200回を欠かさない力自慢のM社長が、船橋でヤクザに殴られ、殴り返して半殺して、止めに入った警官に、おじさんやりすぎだよと諭されたという、どこまでがホントかわらない武勇伝とか、N社の編集長は眉間の鼻筋がつぶれているから、ケンカが強いぞという、H君のムダな洞察とか、神楽坂のディスコ、ツインスターに行ってボディコン姉さんのパンツを見てきたと誇らしげなK氏の話とか、早稲田の喫茶店カフェ・ド・稲では、高齢のイネ婆さんがウエイトレスをしているがわかったというS君の浮かれ気分の報告とか、およそ愚にもつかない話で盛り上がる連夜だったから、私がその場で仕事の話などしようものなら、まずM社長が、「何カッコつけてんだよー。いいから、飲め、飲め」ということになるのは目に見えていた。

しかし、私は密かに、1億の借金を抱えたM社長のもとに集まった酔狂な若者たちと力をあわせ、仕事を盛り返し、理想郷を創ることができたら楽しかろうと、青い野望を抱いていた。憂歌団+プロレス技の本も、理想郷建設の足掛かりのための仕事にするつもりだった。
私は不粋なのは承知の上で、あえて昨夜のライブ終了後の打ち合わせの結果を、宴席にいた楽天家たちに、ちょっと憤然としながら伝え始めた。
 
M社長は私の勢いに負けて、いつもより大人しく私の話を聞いていたが、チャンスがあれば朝から酒を飲み続ける酒浸りのH君が、「まあまあ、それはまた今度ということで、今日は飲みましょ」と、のん気なことを言った。私は、高田馬場でいちばん気の合う仲間だったH君が、憂歌団もプロレスも好きだといったから、一緒に事務所の仕事として、頑張ってベストセラーを創ろうと約束したのである。その約束は、つい数日前のことだった。私は腹が立ってH君を罵倒した。するとH君はあっさりと、「俺、その仕事、やりませんから」と開き直った。私は怒り狂って理由を聞くと、「憂歌団もプロレスも好きですよ。でも、間に立ってる人、大阪人でしょ。俺、嫌いなんだ大阪のニンゲン。なんか調子がよくて。あの人抜きにしては、できないんでしょ」。憂歌団だって大阪人だろ。その同級生が大阪人なのは、最初からわかっていることだ。その前に、誰それが嫌だからといって、仕事を選べる身分なのか。私は気がつくと、スチールの事務椅子を思い切り蹴飛ばし、H君に掴みかかっていた。

しかし、そんな私たち二人のやりとりを見ながら、宴席の面々はM社長をはじめ、みんなニヤニヤしているだけである。私は自分の怒りの根拠を疑わなければならないような、奇妙な気がしてくるのだった。
なぜなら、宴席の大方のニヤニヤは、H君の感受性への賛意の表明で、私に分がないことをすぐに悟ったからだ。

カミュの異邦人のムルソーの不条理への憧憬、あるいは、太陽がいっぱいのアラン・ドロン扮するところの下層階級の青年、トム・リプレーの殺人が、太陽のさしがねだとする理不尽な理解に対する称讃、などを彷彿とさせるものが、H君の気まぐれには含まれていると、私にも思えた。
不合理な感情を優先し、無益なものをこそ珍重するかのようなH君の言動は、ありきたりな常識人には到底理解し難い、深淵な真理やニヒリスティックなこだわりを原因としていたといえば、ちょっと言い過ぎだろうか。
高田馬場の宴に集まった若者たちはH君に限らず、M社長も含めて、取るに足らない理由により、すぐに利害得失をはかる天秤がぶっ壊れ、いきなり起動する凶暴性を備えた、生き生きとした危険物だった。

皆のなだめに応じて、不承不承その夜の酒宴に参加したものの、どうにも納得できない気持ちを残しながら、終始ムッリツしていた私に、帰り際S君がつかつかと寄ってきた。
S君は、大学を出たばかりだったというのに、どういうわけか高田馬場に紛れ込み、私は憐れに思えた。温厚にして人当りがよく素直で誠実そうで、仕事への意欲も示したので、私は知り合ってほどなく、ある仕事を彼と一緒に行うことに決めた。著名な人物との打ち合わせのために、国立駅前の喫茶店で彼と待ち合わせた。彼の対外的な初仕事だった。私は30分前に現場に着き、著名人は10分前に到着し、S君は約束の30分後に喫茶店のカウベルを鳴らした。

私は取材後にS君を1時間半絞り上げた。いかにも申し訳ないと目を伏せたまま、誠実な反省の姿勢を保ち続ける彼に対して、すっかり頭に血が上った私は、相手にあまりに失礼じゃないか、ビジネスとは…、オレやこの仕事に関わる人間たちを愚弄する気かなどと、ありきたりの訓戒を繰り返したわけだが、私の心を占めていたのは、決して怒りだけでなかった。
やや風変りではあるが、謙虚で大人しく明晰なこの青年のどこに、派手な遅刻を可能にする大胆さや虚無が潜んでいるのか、不思議で興味深くもあった。
のっけから、品位と愛情を欠いた私の執拗な怒声と説教にさらされたにもかかわらず、彼は高田馬場を離れることなく、いつしか主要なメンバーの一人となっていったのである。

そのS君が私に近寄って渡したものは、清志郎の曲が入ったカセットだった。私は音楽好きなS君に、清志郎と森高千里が好きなんだと告白したことがあった。気まぐれなのんだくれ連中に翻弄されて、意気消沈の気配濃厚な私を、ちょっと元気づけてやろうというS君の親切心が嬉しかった。家に帰って早速聴いてみた。
いろいろあった中で、坂本九の「上を向いて歩こう」のカバー曲が一番カッコよかった。原曲とは似ても似つかないロックアレンジだけれど、原曲のすがすがしさがさらに際立ち、胸のすくスピード感は、誰かが言った、あの言葉を思い起こさせた。「悲しみは疾走する。涙は追いつかない」。なお、後年S君が書いて、私の胸を打ったコラムのタイトルは、「下を向いて歩こう」だった。

いずれにしても、1億の借金を抱えたM社長のもとに集まった若者たちは、もちろん私も含め、あきれるほど不十分だった。
件のプロレスの大技の解説書の仕事は、H君の大阪人拒否に端を発する私のやる気の喪失に加え、H君の気まぐれをM社長が擁護したこと、その擁護に対する私の嫉妬などにより、仕事の推進力は著しく失われ、いつしか頓挫することになってしまった。

結局、無計画、不合理、未統制、不摂生、不真面目、自堕落、不調和、強い嫉妬心などなど、多くの致命的な欠点を備えた私たちは、自らの性質により確実に疲れ果て、高田馬場のイイチコの宴が長く続くことはなかったのだけれど、なぜかあの頃がひどく懐かしく、輝いて見えるからおかしなものだ。

家から一時間半ほど自転車を漕いで、ようやく国立のたまらん坂にたどり着いた。S君を叱った喫茶店、憂歌団を初めて聴いたライブハウスからはほど近い。この坂の途中のアパートに、かつて忌野清志郎は住んでいたという。どのあたりなのか、記念碑はない。遅い午後に出かけたから、すでに秋の日は西の山並みに近づき、赤みを帯びていた。
私は憂歌団のこと、高田馬場のこと、そしてもちろん忌野清志郎のことを思いながら、たそがれ色に染まり始めた坂道を眺めた。
時は少し過ぎたようだ。憂歌団の団員の一人、高田馬場のM社長、清志郎も、夕空の向こうに行ってしまった。そして、中野六区から出馬して国会に乗り込んだニセ議員清志郎、あるいは彼のサマータイム・ブルース、JUMPの力は小さすぎて、ボディコン姉さんが好物のK氏は故郷双葉町に戻れなくなった。

私は坂道を行き来する車の途切れ間にブルースが聞こえないか、耳をすました。
聞こえない。代わりに聞こえてきた声があった。「愛し合ってるかーい」。悲しいのか、ふざけているのがよくわからない例の清志郎の声だ。
とうとうこの年齢まで、多くの仕事仲間はもとより、隣人とさえヨロシクやる術を持ち得なかった私は、清志郎の問いに対する答えに窮したまま、坂の途中にしばらくたたずんでいた。また、声がした。「愛し合ってるかーい」。
もういいよ、清志郎。私は心で苦笑した。すると、憂歌団、清志郎、どちらだろう、ブルースが……。いや、ダンプの発進音を含んだ秋風が、耳をかすめただけだった。

帰途、恋ヶ窪の友達の所に寄った。事情を話すと、自分は憂歌団の同級生だという。おいおいどうなっているんだい。この狭い地域に、そして、私の狭い交友の中に、憂歌団関連が詰まりすぎてはいないか。まさかと思い、清志郎への関わりも聞いてみた。好きだという。しかし、その好きだという言い方に、ちょっと素直でないものを感じた。理由は後でわかった。実は自分もシンガーソングライターであるという。30年もつき合っているのに初めて知った。なぜ言わないのかと聞いたら、聞かないからだという。歌えというと、ギターを奥から持ち出してきて、なにを、と聞く。何をといっても、いくつもないだろうと笑うと、口をとがらせて百はあるという。どうやら、清志郎にも憂歌団にも、負けない気があるらしいのだ。これは恐れ入りましたと、おすすめ曲をリクエストした。
気がついたら死んでいたという間抜けな男が、苦労をかけた女に詫びる、愉快で寂しげなブルースが始まった。

ブルースの語源を辿るとブルー=青い・憂鬱な・きわどい・下品に行きつき、しかもブルースはブルーズ=bluesの日本語訛らしく、We have the blues.で、 私たちはふさぎこんでいる、という意味になる。
ブルースなんて自分から遠い距離にあると思っていたのに、これほど自分や高田馬場の記憶にピッタリする言葉はほかにない。
 
私がこれまでブルースを聴かなかった理由がわかった。わざわざ聴かなくても、すぐそのそばに居た。振り返れば、私が通ってきた回り道こそが、ブルースめいていたようだ。今もどこかで愚図愚図しているだろう高田馬場の仲間たちと心を共にし、相変わらず愉快にふさぎこむ今日この頃である。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

1件のコメント

私も憂歌団好きです。
木村さんが歌う「ケ・サラ」好きです。

by うらちゃん - 2012/12/02 5:44 PM

現在、コメントフォームは閉鎖中です。


中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

そのほかのコンテンツ