salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2012-11-5
居酒屋踏切番


西武新宿線上井草駅隣の踏切

娘が生意気にも、私に腹を立てた。
娘の自転車の修理を、私が途中で投げ出したからだ。チューブ交換をしているうちに、外したネジの順番が分からなくなった。半分解体されたままの愛車が放置されているのを見つけた娘は、「ビデオデッキを直すといっても、時計を直すといっても、いつもこんな調子ね、バラバラにして終り。解体業に商売替えをしたら」と私を責めた。

自転車屋さんに支払うべき相場の工賃、1500円を節約してやろうという、文字通りの親心からの親切なのに、失敬だ。ときには直せることもある。私は面白くないので、ぷいと自転車で外に出た。
自転車をこいでいるうちに血流が増加してきたせいか、娘への小さな憤りだけでなく、日々の雑多な鬱憤がいっぺんにこみ上げてきた。「昨日もまた担当編集者が、三分遅刻して来た。三分で、立場の優位を知らしめようという魂胆か。三分のパワハラに憤慨する自分のいじましさ。呪うべきは我にあり」などなど…。行く先を決めず、どこまでも走り続けたい気持ちになる。もう、誰にも私を止められない、という心境だ。

だが、私はすぐに行く手を阻まれる。たとえば、踏切に。目の前で降下を始めた遮断機に、「私を止めるな!」と心で叫ぶ。
踏切はもとより忌々しい装置である。鉄道会社の都合により、我々の生活導線を寸断する。鉄道敷設のお陰をこうむる者たちが、当然引き受けるべき不自由であるとでもいわんばかりに。けれど本来は、鉄道が道路をくぐったり、跨いだりすればすむ話ではないか。そうすれば事故だってゼロになるし、私だってそのまま進める。お金がかかって運賃が倍になりますよというなら、誰かの給料を減らせばよい。クルーザーを売るといい。

しかし、大きな力に従順な私をはじめとする小市民たちは、電車の通過を待ちながら、ポン、ポン、ポンという、どこか懐かしい響きのある警報音を聞いていると、しだいに社会正義の実現のための公憤、そして、日々の私憤や苛立ちが、迂闊にもいやされていく思いがするのである。

「確かに、自転車修理に何時間もかけて失敗するより、本業にもう少し精を出したほうが、いいかもしれないな」などといった反省心が芽生え、さらには、仕事に疲れて逃げ出すための言い訳に、娘とのケンカを利用しただけではないのかという、自分への疑いを濃くしていった。

踏切は、その本来の役割とは別に、不思議な魅力を備えているようだ。
急ぎがちな私の心を整え、落ち着かせてくれる力がある。

いや、私だけではない、踏切で待つ人の表情は、もちろん苛立ち顔の人も多いが、間が抜けた、気の抜けた、邪気のない、無心な、とても自然ないい表情をしている人も少なくない。かつて文芸評論家小林秀雄が、「人間のあらゆる表情は病である」、なんてことを言っていたが、なるほど踏切にたたずむ人の無表情こそ、飾り気がなくウソがなく、健やかだ。

高速で通過する巨大な金属の塊に対しては、論を待たず、道を譲らざるを得ないという絶対的な諦めの境地を味わうことになる踏切は、人のさまざまな興奮を鎮めるのに役立つ場所かもしれない。
私は踏切で頭を冷やすうちに、あてどなく闇雲に走る計画を取りやめることにした。そして、あの店に行ってみようと思った。

それは、西武新宿線の野方駅と沼袋駅のあたりにある居酒屋だ。自動車が一台通れるかどうかの小さな踏切のすぐそばにあったと思う。看板には、「踏切番」と書かれていた。
すでに二十年以上も前から、電車の窓外の景色の中にその店をみつけ、気になっていた。しかし、昼も夜もその店に客の気配はなく、私が見つけた頃にはすでに閉店していたのかもしれない。閉店していても構わない、とにかく看板が見たくなった。

胃がシクシクと痛むほど、人を憎んだ日、あるいは、社会の茶番にうんざりした夜、西武新新宿線で西に下っていくとき、たまさか窓外にその居酒屋を見つけ、なぜか自分が滑稽に思え、胃痛が少し和らぐ思いがした。

数えきれないほどたくさんの居酒屋がある高田馬場も近いのに、中井だって、新井薬師だって、そこそこの趣を備えた飲み屋はあるというのに、どうしてこんな寂れた場所の、しかも騒々しい踏切脇の居酒屋に立ち寄らなければならないのか。さぞかしここには、いじけた面々が寄り集い、気勢が上がらぬままに、ちびちびと酒をなめながら、誰もがため息ばかりついているのだろうと想像すると、自分の同類がたくさん来ているような気がして、思わず苦笑し、殺伐として冷え切った心が、温まる思いがするのだった。

そもそも、この店を見つけたのは、こんな夜のことだった。
昔、ある出版社の雑誌の別冊ムックの編集を手伝ったことがあった。編集室は青山の大きなビルの一室。一室の大半は雑誌の営業セクションが占め、その片隅のほんの小さなスペースに、別冊ムックの編集長専用の机があって、お手伝いの私たちは、営業部員がほんとんど使っていない机を借りる形だった。そして、初めて会った編集長は、やけに腰が低く、気弱そうで、昔風の言い方をすると、市役所の戸籍係の職員のような人物だった。

まだ若かった私は、雑誌というものは、編集長が一番の権力者で偉いのだと信じていた。それに、有名な雑誌の別冊を作ろうというのに、どうしてこんなに編集室が小さいのだろうと、奇異に感じた。

しかし、私の謎は、手伝いを始めた初日の夜にすぐに解けた。夜遅くなったので、編集長がそろそろ帰りましょうと、私と数人のスタッフに声を掛けた。そのとき、部屋のドアが勢いよく開いて、てかてかしたシルクのスーツ、シルクの真っ白なワイシャツを着た、とても恰幅のいい紳士が、黒目の落ち着かない若い部下二人を引き連れて現れたかと思ったら、一言のあいさつもなく編集長に向かっていきなり、「帰るときは、机の上に何も置くな。いいな。キレイにして帰れ」と、叱りつけるように居丈高に言い放った。

私は、「誰だい、こいつは。こんな乱暴な言い方をする失礼なヤツは許せん」と思い、編集長がどんな顔で応対しているのかと思い振り返ると、驚いたことにいつの間にか起立して、直立不動の姿勢だった。

後でスタッフに聞けばその男は、雑誌や別冊ムックの最大権力者である、営業本部長だということだった。広告で成り立つ雑誌やムックは、編集長など屁のようなもので、営業本部長が王様なのだということを、私はそのとき初めて知った。なるほどその後も王様の一声で、編集企画がどんどん変わっていった。広告が取りやすいような、とった広告の広告主に媚びを売るような記事内容へと変更された。独立した編集権など皆無で、編集長は完全なイエスマンだった。

この雑誌にかかわる人たちは、自らに与えられた役柄を演じるのに、躊躇がなかった。ある朝、不興な顔で、手持無沙汰に鼻毛を抜いていた、例の黒目の落ち着かない営業マンが、営業本部長の突然の入室に、バネ仕掛けの人形のように素早く立ち上がって駆け寄り、つい一秒前の陰鬱で不興な面持ちがウソのように、もうそれ以上はないだろうというほどの晴れやかな表情を作り、底抜けに明るい声で、「本部長、おはようございます。今日はまたお似合いのネクタイですね」などと、褒めちぎったのだった。映画で見た、植木等演ずるところの無責任男、C調サラリーマンを目前にした思いで、ある種の感動さえ覚えた。十人中十人、それがいわゆるゴマすりだということがわかる、軽薄きわまりないパフォーマンスなのだが、眉間の皺の深い強面の本部長が、まんざらでもなさそうな笑顔を浮かべたのを見て、童話の裸の王様とは、こういうものかと感心した。

私は彼らに対して戸惑いを抱くとともに、尊敬も禁じ得なかった。
この若い営業マンのように、人様を愚弄することができたら、どんなに楽しいだろう。人前ではへどもどして、陰で舌を長く出すのである。また、植木等におだてられて、おだての風に乗る竹とんぼのように、クルクルクルクル楽しく回りながら空高く舞い上がり、気がつくと、風は消えて回転力も失い、あとは墜落するだけの、とことん頓馬な王様にもなってみたい。

陰で舌を出すが、出し方が小さく、十分頓馬だが、舞い上がり方が中途半端な私は、彼らの日々の茶番を100パーセント尊敬することができず、やがてアホらしくなり、ほどなくその仕事を辞めてしまった。辞めるとき私が「一身上の都合で辞めさてください」というと、編集長は苦笑いしながら、なかなか気の利いたはなむけの言葉を私にくれた。「それがいい」。

私は辞めたその日の夜、以前先輩に教えられた新宿ゴールデン街の店を訪ね、安酒をあおりながら気の抜けた顔のマスターに愚痴をこぼした。彼は他の客に忙しく目を泳がせながら、口だけは流暢に、私の傷心をソツなくなぐさめてくれるのだった。ここもまた、表面的な営業の世界にすぎなかったことに気づき、一層寂しさと空しさがこみ上げてきた私は、飲みかけのウイスキーもそのままに、そそくさと店を後にして帰路についた。

ちなみに、その店の名は南の島の方言で、ユートピアを意味する言葉だった。私の信じるユートピアではないと思った。

西武新宿駅までは、ゴールデン街から少しの距離である。歌舞伎町の入り口のしつこい呼び込みたちから速足で逃れ、駅にたどり着き、急行本川越行に飛び乗った。

私は仕事を始めても、すぐに辞めてしまう性質だった。いろいろひとりよがりな理由をつけて、辞めることを正当化してしまうのだ。若い私は窓外の暗い景色に、自分の未来を重ねた。何度も同種の逃避を繰り返し、自分の先行きが不安になり、泣きたくなった。そんなとき、沿線のうす暗闇に浮かぶ一軒の店が目に入った。急行電車は、あっという間にその店を通り過ぎたが、私は網膜に残ったその店の名前をゆっくりと読み返すことができた。「踏切番」という名の居酒屋だった。

私はいつかその店を訪ねてみたいと思った。

取るに足らない公憤、私憤、いじけた気持ちはどこかに去り、いつしか私はなんとなくわくわくしながら、その店に向かうために、自転車で新青梅街道をひたすら走り続けていた。言い忘れたが、真夏のことである。三十五度を超える猛暑の中の捜索が一時間半も続いた頃、もとよりゆるい私の頭脳は、さらにゆるゆるとなり、朦朧としてきた。

やがて陽も傾き、自転車と私の影が、道路に面白く長く伸びてきた。
確か野方と沼袋の間だと思い、二駅の間のすべての踏切を探したが、見つからなかった。諦めて帰ろうと思ったが、どうしても見つけたくて、念のため野方より先の新井薬師前との間の踏切を探してみた。
すると、ある小さな踏切のすぐ脇に、それらしき店が見えたのだった。
 
その店に入ると、窓は電車から見たときよりもかなり大きく、踏切の警報機の灯りや、そこを行き来する電車と通行人が、店内からよく見える。ただし、あからさまに通行人が見えるのも無粋だと考えたのだろう、窓には昔ながらの手延べガラスをはめ込んで、ちょっと歪んだ幻想的な風景が楽しめるようになっていた。室内の湿度でガラス窓が曇ると、警報灯の赤いまたたきの輪郭がボケて、さらに趣を増すのだった。

カラオケはない。有線も流れていない。店の窓を閉め切った真夏も真冬も、踏切の警報音が、ほどよい音量で聞こえてくる。
客たちが、昨日のこと、今日のこと、明日のことをぽつぽつと口にすれば、すぐに電車の通過音が会話の途中をかき消して意味不明となり、意味不明ゆえにありふれた会話が、俄然、象徴詩の気高さをおび始めたりした。

口ひげを蓄えて黒いチョッキの似合う店主を、客はナツメさんと呼んでいた。ロンドン帰りだそうだ。
客の多くは踏切が開くのを待っている間に、店の看板が気にかかり、ちょっと立ち寄り、一杯だけ飲んでいく人たちだけれど、そうした連中の中から、遮断機が上がっても、なかなか線路の向こうに渡らず、いつまでも店にぐずぐずする人が出て来た。彼らはやがて仕事を失い、社会から見放され、常連客となっていくのだそうである。

常連客の中に、雲水姿のヒゲぼうぼうで汚れた身なりのタネダというおっさんがいた。酒癖が悪い。ひどく悪い。酔っぱらって走行中の路線バスの前に立ちはだかり、止めたこともある。その弟分のオザキは、身なりはふつうだが、やはり酒癖よからず、東大出を鼻にかけて威張りちらすという悪評を垂れ流しているらしい。オザキの兄弟分はイシカワくんで、噂では無類の遊び好きで、あふれる才能を惜しみなく、借金の依頼文作りのために注ぎ、人のいい言語学者の親友を、だまし続けているそうである。

この三人のみならず、他にも常連客がいて、その人柄は種々雑多だが、共通するのは、貧乏という点だった。
店主のマスター・ナツメは、いつも嫌な顔一つしないで常連たちを招き入れ、酒をふるまい、ときにはお金まで貸してやるそうだ。

返済は、ある時払いの催促なし。その代りツケが貯まった者には、証文代わりに、俳句や詩や言葉を色紙に書かせ、それを店の壁の品書きの札の隣にはりつけた。
そうこうしているうちに、やがて色紙の俳句や詩を目当てに、この店に立ち寄る客も少しずつ増えていったらしい。

タネダの人気の色紙は、三句だった。モツ煮込み350円ともろきゅう250円の間にある。

どうしようもない私が歩いている 
まつすぐな道でさみしい 
笠にとんぼをとまらせてあるく 

タネダの半生を知る客たちは、この限りなく軽い句にひそむ底知れぬ闇の深さを憐れみ、そして、その闇の静寂に憧れてしまいそうになる自分に戸惑った。
オザキの人気はこの三句。手羽塩焼きとニンニク焼きの札の間だ。

咳(せき)をしても一人 
考えごとをしている田螺(たにし)が歩いている 
なんにもない机の引き出しをあけてみる 

オザキの孤独は因果応報とさげすみつつも客たちは、この句の愉快な充実を、ちょっとだけうらやんだ。
そして、イシカワくんの好まれた作は、この三つだった。サケおにぎりとタラコおにぎりの品書きの間にある。

はたらけど はたらけど猶(なお)
わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る

ふるさとの 訛(なまり)なつかし
停車場の
人ごみの中に そを聴きにゆく

やはらかに積れる雪に
熱(ほ)てる頬を埋(うづ)むるごとき
恋してみたし

短歌など知らぬ酔客の多くも、この童顔の若者の空恐ろしい心の奥行に、ゾッとしたり、ゾクッとしたりした。
そして店主のナツメのおやじさんは、こんな句を詠んで、鳥皮1本80円の品書きの札の隣にはった。

菫(すみれ)程な小さき人に生まれたし

一見の客の大方は、それらの色紙を見て、大して働きもしない怠け者たちが深刻ぶって、感じ出して、何いってやがると軽蔑し笑ったりもするのだけれど、店の窓外に灯る踏切の信号灯をぼんやり眺め、ノスタルジックな警報音を耳にしながら色紙を見ているうちに、うっかりこみあげてくる暖かなものを抑え切れなくなるのだ。つまりは、なんだか腹立たしいような、ひどく懐かしいような、奇妙なせつなさを肴に、ホッピーをグイとあおり、また一杯マスター・ナツメに、注文を追加するのだった。

私はそろそろ店を出ようと、会計を頼んで立ち上がると、店の奥の暗がりに、見た顔を発見した。向こうも私に気がついて、ニヤリとして、あいさつ代わりにグラスをちょっと上げた。「それがいい」といった、編集長だった。

 
店はなかった。それだと思った店は、違っていた。以上は帰途、私が夢想した内容である。
私のユートピアは、何処へ。
踏切番という看板自体、私の疲れた脳が生み出した妄想だったのかもしれない。

(*念のため……文中の俳句、短歌について。タネダの作は種田山頭火のもので、オザキのは尾崎放哉のもので、イシカワのは石川啄木のもので、ナツメの作は夏目漱石のものです。)

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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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