salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2012-10-5
ホーロー看板の由美かおるさん


東京都西東京市田無駅付近にて

「クレタ人はいつもウソをつく、とクレタ人がいった」という有名なパラドックスがある。

 クレタ人が、本当にいつもウソをつくなら、「クレタ人はいつもウソをつく」という指摘はウソになり、次の二つの可能性が生まれる。
 ①クレタ人は時々ウソをつく
 ②クレタ人はまったくウソをつかない
 しかし、もし、①クレタ人は時々ウソをつく、のであれば、「クレタ人はいつもウソをつく」という指摘は、正しい場合と正しくない場合とが生まれる。そして、もし②クレタ人はまったくウソをつかない、のであれば、「クレタ人はいつもウソをつく」という指摘は正しいことになる。

 こうしてクレタ人は、まったくウソをつかなかったり、いつもウソをついたり、ウソつきと正直者の間を、どっちつかずに激しく振動し続けることになる。
 私はウソつきである。
 といった場合も、同様に両方の可能性が生まれる。私はウソつきなのだから、「私はウソつきである」はウソということになる。
 すると、「私はウソつきである」という言葉がウソで、私が正直者だということだ。だとしたら、「私はウソつきである」というのは本当のことになる。結果、私はウソつきで正直者ということになる。

 そして、実際の私はウソつきである。

 先日も、自転車で近所を走っていたとき、車の窓から横柄な道の聞き方をした中年紳士に、ウソを教えて気がすんだ。というだけでなく、しばしばありもしないことを、あたかもあったことかのように書くのが、私の仕事だ。
 仕事の場合は、ウソを武器に高慢な人を困らせようとするわけではなく、いくばくかの真実を伝えるために事実を離れるわけだが、ウソつきにはかわりない。

 つまり、私は事実を正直に伝えることもあるが、ウソをまことしやかに伝えることもあるわけだ。そうすると、私の発言の何がホントで何がウソか、受け取る側は、常に疑いをさしはさむ必要が生じる。
 家人のみならず近所の親しい人たちからも、私が何をいってもとりあえず信用されないのはそのためだ。

 以上を踏まえると、たとえ私が夏目漱石より有名だったとしても、私にコマーシャルの仕事は、絶対に来ないことになる。物書きと呼ばれるウソつきがいうことは、たとえその発言に真実が潜んでいるとしても、にわかに真に受けることはできないと思われ、信用されにくいからだ。
 私が車のコマーシャルに起用されれば、「私はしばしば事実にないことを言ったり書いてみたりするので、日常生活では人にあまり信用されていないのですが、この車の乗り心地は最高で、私はこの車が大好きです」というメッセージを送ることになる。
 
 言いかえれば、「ウソをつくことのある私が、お客様にお伝えすることは、本当なのです」といっているのと同じことになる。乗り心地がよくて大好きということが、ウソかホントか、よくわからなくなるから、私はウソつきクレタ人の親戚と思われ、広告効果は期待できない。
 ところが現実ではむしろ逆の状況が起きている。有名な作家はコマーシャルによく誘われる。断る人もいるかもしれないが、断らない人も多い。作家は、事実などにはこだわらない、真実の探求者だから、小さなウソはついても、大きなウソをつかない、という信頼性があるからだろうか。

 あるいは作家に限らず、研究者や文化人も、コマーシャルに出る。彼らこそ、事実や真実の探求者だから信頼性は超高い。そして、事実や真実の探求者といえば、ジャーナリストもまた同様で、この人たちは決してウソをいわないと信じられているから、コマーシャルにはうってつけだ。
 さらには当然芸能人もミュージシャンも、真実の探求者であり表現者であるのだから、コマーシャルの説得力があるといえる。
 まじめで努力家で誠実で公徳心のあるアスリートもまた同じだ。
 そうすると、有名でそんなに不真面目でなければ、誰だっていいわけだ。企業イメージや商品イメージがあるから、適任者は厳選されるだろうが、基本的には知名度が高ければ、誰もがコマーシャル出演の有資格者といえそうだ。

 これはとてもよい知らせだ。私にもチャンスが巡ってきた。有名になれば、一本一千万円、いや三千万か。一億だって夢じゃない。コマーシャルに出て、さらに私自身の認知度が高まれば、本だって売れる。テレビ出演も多くなるだろう。出演の際に本の紹介もしてもらおう。テレビで宣伝すると、すぐに増刷になるというウワサを聞いたこともある。
 コマーシャル、宣伝というものは、すごいもので、いつか私の本が、大新聞の読書欄のコラムで紹介されたときは、アマゾンのランキングが瞬間的に三桁、いや、四桁も上がって、人気急上昇商品の仲間入りをしたこともあった。

 年を取りますます意固地になってきた私は、どんどん仕事が少なくなってきているから、ウン千万円のコマーシャルの仕事など入った日には、家人は狂喜乱舞して、決して私をないがしろにしなくなるはずだ。いよいよ楽しくなってきた。
 しかし、残念なことに、私はTVコマーシャルには出演できない。容姿に難があるからだ。先日ショーウンドウに映った醜い体型の自分を、最初他人と思い、そのすぐあと自分と知って、暗澹たる思いにさいなまれた。そして、私は並外れた恥ずかしがり屋で、カメラの前で演じることなどできない、という理由もある。一度だけNHKのテレビ番組に、ビデオで出演したことがあった。打ち合わせではべらべらと一時間余りも一人でしゃべり続けていたが、いざ本番となり、ビデオの収録が始まると、カメラの向こうに何百万の人がいるかと思ったら、頭が真っ白になり、もう何もいえなくなってしまい、NGを出し続けた。以来出演オファーはない。

 そんなわけで、以上二つの理由だけでも、ウン千万を蹴ることになると思う。しかし、もしこの二つの欠点が改善されたとしても、私はコマーシャル出演を断ったほうがよいだろうと考える。
 それは、私は物書きのはしくれでいたいからだ。
 私がもし、ちっぽけでも真実を伝え得る物書きになれたとして、それを信じてくれる読者が一人でもいたら、その一人のために、私は私の表現した真実によって支えられている私の信頼性を、商品の優秀性が本当であると信じてもらうために、使ってはならないと思うからだ。

 私は誠実でいようとしているのではない。私は私の仕事を守るためのことを考えているだけだ。
 私はこれまでに、広告記事を書いたこともある。詐欺まがいの商法の広告パンフレットを作ったことさえある。あれはギャラがよかった。しかし、もうやめようと思う。お金をもらえば、なんでも言う、なんでも書く、心ならずも笑顔まで作ってしまう物書きと思われたら、私の書くことは、ますます信用をなくしてしまうに違いないからだ。

 などと書いてきたら、なんだか格好いい話で、ちょっとウソ臭い気がしてきた。もっと正直に言おう。私はお金をもらうと、たとえ意にそわない商品でも、なんとか自分を説得して、なんでも言ったり、書いたり、へらへら笑ったりしてしまいそうな気がしてならないのだ。
 黒を白と言って、良心の呵責にさいなまれないようにするためのヘリクツの製造はお手のものだ。その種の訓練は三十余年も続けている。
 ウソつきでないと自他ともに丸めこみながらウソをつくことに快感を得る本性が、自分にはあるのではないだろうかと思うことさえある。
 私は一千万円もらったら、完璧なウソつきになる自信がある。

 私の蔵書に、大正五年、今から九十五年前に出版された、文書の書き方を教える本がある。その中に、「広告用文を草するに注意すべきは左の件々である」として、四件のアドバイスが掲げられている。最初の一つだけを紹介する。

 (一)至誠(しせい)を旨(むね)とすること。商人は人を欺(あざむ)いても構わぬという様な思想は、極めて古い思想で、大正の商人、其(その)他(た)実務家は一に至誠を旨としなくてはならぬ。従(したがっ)て其(その)広告文にも一点の虚偽をも混(まじ)えてはならぬ。『正直は最良の商策也(なり)』という語は、いつの世に於(おい)ても真理なのである。 

 あるいは、大正から昭和に時代は移っても、別な言い方で同じことをいったCMディレクターがいた。
 時まさに高度経済成長へ向かい歩み始めた、一九六〇年代から七〇年代にかけて、テレビCMの草創期に、数々のヒットCMを生み出し活躍したCMディレクターが、三十七歳の若さで突然自らの命を絶った。理由はいろいろ取沙汰されているが、真因は不明といえるだろう。ただし、彼が次の言葉を遺して逝ったことだけは、確かだった。

リッチでないのに
リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは…とても
嘘をついてもばれるものです
 

 今も正直を旗印として、最良の商策を選択している多くの企業は、ウソのにじむ私を、お金によってウソをつく私を、やはりコマーシャルに起用すべきではない。そんなことをしたら、心血を注いで多くの社員が脈々と築いてきた企業の信頼性にキズがつくことになる。最悪の商策は、ぜひとも回避しなければならないだろう。

 自転車で街のあちこちをフラフラ走っていると、時々古い建物の板壁や薄汚れたモルタルの壁、あるいは錆びたトタン張りの壁に、昔のホーロー看板が残っていることがある。レトロ趣味として残すこともあるのだろうが、それにしては保存が適当で、ホーロー看板マニアの所有ではなさそうなものも多い。すでに看板としての役目を終え、マニアのものでもないホーロー看板は、誰に許されて、頼まれて、あるいは慕われて、何を伝えようとしているのだろうか。

 由美かおるさんは、そんなに好きなほうじゃないけれど、かつてはその肢体に鼓動が高鳴った。その肢体を誇示するかのように、今もなおアースのホーロー看板の中で、むき出しの素足を伸ばして微笑んでいる由美さんの視線と目が合ってしまったとき、私はこう語りかたけられた気がした。
「正直でいなさい。あなたはコマーシャルに出ちゃだめよ。だってウソつきなんだから」

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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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