2011-04-17
「時間の流れ方」
この旅に出る三日前のことである。招待券が余ったのでコンサートに行かないかと友人から電話があった。開演時間の三時間前である。さすがに無理だよ。僕だって忙しいんだよ…と言ってみたかったが、相変わらず暇だった。特に予定もないので、ふらりと出掛けて行った。
「イシコさんって、ホントいつも暇だよね?」
誘ってくれた友人までもが、そう言う始末である。
ヤンゴンの午後の時間を何日か過ごし、ミャンマーの人々を見ながら「暇」について考えていた。「暇」について考えるということは、やはり僕は暇なのだろう。暇というとちょっと怠惰なイメージがつきまとうので(実際、僕は怠惰な人間なのだが)、時間ということに置き換えてみることにする。僕のように時間だけはたっぷりある、もしくはありそうな人が、ミャンマーには多いと思う。
この国の失業率は高く、仕事にあぶれている人達も多い。普通、失業率が高くなれば、治安が悪くなる傾向になるが、いたって、この街は平和である。軍治政権だからと言う人もいるだろう。確かにそうかもしれないが、僕はミャンマーの人間性があるような気がしている。そして、その人間性を育てる上で、この国の「時間の流れ方」が影響しているような気がしてならない。
パヤー(仏塔)に行くと持ってきたお弁当を広げ、時間をかけて食べる家族、午睡を楽しむおばさんや仏典を読みふける坊さん、それぞれに緩やかな時間の流れを感じさせてくれる。街を歩けば街路樹の木の下で煙草を吹かし、考え事にふけるおじさん、一杯3000チャット(約30円)程度で飲める屋台のコーヒーをちびちび飲みながら語り合う若者がいる。この光景は日本でも見かけることはあるのだが、どこか時間の流れ方が違う。きっと街全体に緩やかな時間が流れているのだろう。
「日本人は時間に追われている」とよく耳にするが、「ミャンマー人は時間を流している」ように僕には見える。流されているのではなく、流すのである。もちろん、その時間の過ごし方に、どちらがいい悪いとは一概には言いきれない。追われるような時間を費やすからこそ、今のような先進国の日本ができたのだろうし、その恩恵を僕も受け、こうして旅ができている。
「ただ…」ともう一人の自分が言う。最近の日本人が眉間に皺をよせ、どこかセカセカした雰囲気が流れ、次第にギスギスして肩が触れただけで罵声が飛ぶ。こういったところには時間に支配され、追われていることが多少なりとも影響しているのではないかと思うことがある。
そうは言っても追われるような時間の方に充実感があると言われたら、そうですねと僕は言うだろうし、追われる時間に何だか自分を見失いそうだと言われても、そうですねと僕は言うだろう。まだまだ自分なりの考えがまとまるには「時間」がかかりそうだ。
1件のコメント
いつまでも変わらないヤンゴンの風景であってほしい・・・と願うのは私のエゴかもしれませんね。今はロンジー姿も少なくなったようです。
コーヒーは300チャット・・・かな。
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