2010-09-8
スカイツリーな時間
先日、今世間で話題の、東京スカイツリーを見に行った。
まだまだ建設中であり、何体もの巨大クレーンがまるで手取り足取りお世話するメイドさんのように、スカイツリーの側に寄り添って立っていた。(大事にされてる~)
とにかく最初の印象は、
「デカイ…(汗)」
想像よりもはるかにデカかった!
まだ、これでもあと三分の一位は残っているとのことであるから、完成した暁には、恐らくトンデモない高さであろう。(既に、現時点で東京タワーの高さは越えているという)
聞くところによると、巨大レジャー施設やショッピングモールなんかも併設され、なぜかわからないが水族館とプラネタリウムが入るらしい。(うーん。なぜ、日本では高層ビルやタワーと水族館のセットが多いのか???不思議だ。)
建設中のツリーは今しか見られないということで、平日にも関わらず大きな一眼レフカメラを持って撮影する、主に中年以降の男性を何人も見かけた。
フムフム、その気持ち、分からなくもない。
今しかない、今しか見れない、というものに人は弱いものだ。
以前、東京タワーに行ったとき、同じように建設途中の東京タワーの写真があった。
半分くらいまでのつくりかけの鉄塔に、ガリバーに群がる小人のようにその上で作業する人々、後ろにはまだまだ空き地が残る、昭和の東京の風景。
それは、とても非現実的で不思議な印象だった。
完成形しか知らない故に新鮮であったのと同時に、なんだか時間や歴史の圧倒的な強さを思い知る感覚なのである。
まるで、今の姿しか知らない祖母や祖父の若い頃の写真を見て、「こんな若いときもあったんだ。」と驚きながらも、時間の経過が誰にでも容赦なく訪れる現実を、そっと垣間見せられたような気持ち。
「なんだか…こわい…」
言葉に出来ない少しザラついた不安と奇妙なノスタルジー。
いずれ自分も歳をとり、死んでいく。そんな時間の感覚のリアルさが、ヒヤリと体に入ってくる。自分では知っているつもりだった目の前のものが、実は過去には全く別の形で存在していた、あるいは存在自体がなかったことへの違和感、時間の経過の現実感。
普段は、なんとなく毎日歳を取っていくことを意識しないし、忘れている。
けれど人間は、そして自分は、確実に生まれてきて死に向かって生きていること、人間として生まれてきたからには例外がないこと、そんな秩序を認識させられるような感覚。
非日常の風景のその奥に、日常の隠されたルールを垣間見た瞬間だった。
人は強く思う。
今しかない、今しか見れない、今そのときにしかないものを、自分の手で残したい。
それは、言い換えれば自分の死に対する、無意識の抵抗なのかもしれない。
将来、この建設中のツリーの写真を見た未来の人々は、どんな風に感じるのだろう?
そのとき、東京は一体どんな姿をしているのだろう?
見届けられるのは、スカイツリーだけだ。
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