salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

〜日常は、劇場だ!〜「勝手に★ぱちぱちパンチ」

2010-09-18
『カッパをトルコはドイツだ!』または、ちょっと長めの望郷物語。

勤務先の人が、遅めの夏休みを取ってトルコを旅してきたという。
旅先で撮ってきた写真を見せてくれたのだが、中でも、世界遺産で有名なカッパドキア地方の巨大奇岩群は、石造り巨大物系がメロメロに好きな私にはたまらない風景だった。
いつか絶対に行ってみたい国トルコ。でもトルコと聞くと、私にはもうひとつ、必ず思い出すことがある。

以前、日本語を教えるボランティアをしていたことがあった。
その日本語教室は、比較的貧しく、語学学校にも行けない出稼ぎの外国人の労働者や、その家族たちをサポートするためのものだった。
もしかすると、なかには不法滞在の人もいたのかもしれない。
けれど、なんとか生活に必要な日本語だけでも学び取り、役立ててもらえ、そこからさらに学校に通えるようになればいいなといった趣旨のものであったため、教室も和やかでどこか家庭的な雰囲気だった。
ボランティアの多くは定年退職した元教師や、日本語学校の先生の卵で、その種の数ある教室の中では、とても評判が良かったように思う。
教える人と教わる人の組み合わせは毎回違うのだが、お互いが気に入ればそのまま次回も継続して同じ人を希望することもできる。
しばらく仕事の関係で休んでいた私が数ヶ月ぶりに顔を出したとき、今日初めて来たという1人の青年を担当することになった。

小柄だがガッシリとした体格と太い手足。真っ黒に縮れた黒髪と濃すぎる眉に似合わない、西洋人のような肌の色と目鼻立ち。あらゆる民族の遺伝子が長い年月をかけて交じり合ったエキゾチックな風貌だった。

お互いの挨拶をまずは日本語で。
「はじめまして、アラキです」
「ハジメマシテ…」

「国は、どこですか?」
「トルコ、デス…」
なるほど。この外見は古代から続く東西貿易がもたらした、歴史の遺産だったのか。

「トルコですか!行ってみたい国です。イスタンブール、カッパドキア、バムッカレ…」
簡単な日本語と英語を混ぜ、少し大げさに身振り手振りでそう言ってみたが、なぜかあまり反応はなかった。大抵の人は、相手の国の有名な地名を挙げると嬉しそうにするのだが、彼はただ静かに何度が頷くだけだった。
少し英語も話せるとのことなので、まずは世間話をすることにした。

まだ、日本に来て数ヶ月、都心部からやや離れた下町の町工場で働いているという。
住んでいるところは、その町工場が用意してくれたアパートで、狭くて古いがそう悪くはないと、ただクーラーが無いのでとても暑い、休みの日でも昼間は部屋にいられない、そう言って少し笑った。

仕事がないため、何とか少しでも稼げる仕事を求めて、知り合いの紹介で日本に来たのだという。
国には妻と幼い娘がいて、次に会うのが待ち遠しいとポケットから取り出した写真を見せてくれた。小さな女の子を膝の上に乗せた、優しそうな笑顔の女性が写っていた。失礼ながら年齢を聞くと、彼も妻もまだ20代の半ばだった。

話し方や佇まい、英語の発音や言葉の選び方から、ある程度のきちんとした教育を受けていることが分かる。今まで教えてきたトルコの人とは、明らかに違う雰囲気を持っている。
なんというか、感覚でいえば我々となんら変わらない普通の先進国で育った若者のようだった。
よくよく話しを聞くと、生まれてすぐ家族でドイツへ渡ったのだという。もちろんトルコ語も話せるが、普段頭で考えたり話したりするときはすべてドイツ語で、彼にとって母国はトルコなのかもしれないが、母国語はドイツ語と言っても差し支えないだろう。

「ドイツでも仕事がないのですか?」
疑問に思って聞いてみると、太い眉がやや八の字になり、移民には良い仕事に就けるチャンスが少ないという。
そういえば、学生時代にドイツを旅行したとき、崩れたベルリンの壁のカケラを路上で売っていた人たちは皆トルコ人だった。ドイツでは、かつて労働力としてトルコから多くの移民を受け入れた経緯があるらしい。その後、好景気も終わり仕事が激減した後も、多くの移民はそのままドイツに残ったのだという。
しかし、彼自身は生まれたときからドイツ文化にどっぷりと浸かり、ドイツの学校に行き、ドイツ語で話し、今を生きるドイツの若者となんら変わらない時間を過ごした筈だ。感覚的に言えば、ドイツ人に近いであろう。
最初にトルコの話をしたとき、あまり反応が無かった理由が分かるような気がした。
一方で、もしかすると家庭ではトルコ人であることを求められ、トルコ人であるための伝統や文化を教えられたかもしれない。

2つの文化に育ち、国や人種や民族といった個人を越えた社会的な軋轢や、多くの移民2世が経験する両親や親族たちとの価値観や思想、文化の違いといった様々な問題に、彼が苦悩してきただろうことは容易に想像がついた。特に、感じやすい思春期には様々な想いがあっただろう。いや、もしかすると今も尚、苦悩しているかもしれない。
20代半ばの若者にしては、何かを喪失したような柔らかで優しすぎる目をしていた。
ある種の痛みを知るものが持つ、奥深い脆弱な何か。
全身から透明な哀しみの光が漏れてくるようだった。

「知っているドイツ語はあるか?」
突然、いたずらっ子のような表情で、試すように聞かれた。
唯一知っていた語句を、ここぞとばかりに自慢げに披露する。

「イッヒ リーベ ディッヒ!(Ich liebe dich!)」

すると、驚いたことに、彼の顔がみるみるうちに真っ赤になった。
目を伏せ、軽くハハハと笑ったかと思うと、何度も頷きながら下を向いてオドオドしている。
何が起こったのか分からない私は、どうしたのかと彼の態度を不可解に思った。
が、次の瞬間、すぐに理由が分かった。私が叫んだ言葉だ。

「イッヒ リーベ ディッヒ!(愛してる!)」

自分には実感のない外国語の気楽さで叫んだ言葉であるが、彼にしてみれば、いきなり見知らぬ外国人に愛を告白されたのである。それも普段自分が使う母国語で。
直球で入った。頭より体が、理性より感情が反応したのだ。

もちろん、私が本気で言っているのではないことは、彼も充分に承知している。
それでも、無意識に私の言葉に反応してしまったのだ。
言葉は一瞬にして理性を超え、直接感情に働きかける。
普段、意識せず当たり前に使う体や全身の筋肉と同じくらい、私たちと一体化されているのだ。
これほど、言葉というものが、生理的、肉体的なものだと実感したことはなかった。
決して、言葉のちからを侮ってはいけないと、改めて自分に言い聞かせたのである。

それにしても。
異国で1人生きる彼の孤独を思うと、安易に「愛してる!」なんて言葉を(悪気がないとはいえ)言ってしまった自分が恥ずかしく、また申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
過酷な環境、重労働の仕事、家族への想い、彼自身のルーツである母国トルコと、そして移民として育ったドイツへの想い…。彼が背負っているものは、生ぬるい平和の恩恵を受けて育った私の身には、到底うかがい知ることの出来ないほど複雑で深遠な世界の重みだ。
でもその荷物を、私には背負うことが出来ない。
どうあがいても、日本人である私が、同じ重みを感じることは出来ないのだ。
その夜、世界は意地悪だった。そして、少し泣いた。

今でも、トルコと聞くと、恥ずかしげに笑った彼の儚げな笑顔を思い出す。
アジアの片隅の島国で、たった1日だけ話をした青年。垣間見た、彼の人生について。
そして、もう一度考える。私に何が出来るのか。

私には何も出来ない。想像することしか出来ない。
その人の傷に、想いや、哀しみや、痛みに。
1千万分の1でもいい。共感し、寄り添った気持ちになることで、世界の誰かの悲しみと苦しみをほんの少し自分が背負った気になるのである。
もちろんそれは、自己満足だろう。けれどそうするしか他に、方法が分からない。
それでもやらずには、いられないのだ。

いつか、カッパドキアに行く日を、楽しみにしている。
そしてそのときは、その奇岩を見上げながら彼の幸せを祈り、シャンパンで乾杯しよう。

 奇岩をくりぬいて作られた教会キノコ岩バルーン

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2件のコメント

勝手にぱちぱちパンチなので、もっとくだけた内容かなと思ったら意外と まじめな話だったので驚いたけれどとてもよかった。あんまりお出かけしないので、いろんな場所を紹介してくれるのを楽しみにしています。

by kiki - 2010/12/10 10:47 PM

その国に住む人の気持ちってのに、別の国の人が気遣ってあげられる世界があると、いいなぁ・・・。って、ほんとに思う内容だった。
「イッヒリーベディッヒ」めちゃウケてしまった!
お散歩好きのアラキランプさん、次のお散歩発見談楽しみにしてますよぉ~♪

by umesan - 2010/12/10 10:48 PM

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アラキ ランプ
アラキ ランプ

東京在住。映画と文学と旅行が好きな典型的文化系社会人。不思議なものと面白いものに目がなく、暇があってもなくてもゆるゆると街を歩いている。そのせいか3日に1度は他人に道を聞かれる。夢は、地球縦一周と横一周。苦手なものは生モノと蚊。スナフキンとプラトンを深く尊敬している。

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