salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2011-04-17
脱・夢と魔法の王国

かの王国を訪れたことのある人々は必ずこう言う。「行けば絶対好きになる」と。けれどわたしは、そこには絶対足を踏み入れないと、大げさ過ぎるほど固く心に誓い生きてきた。「行けば絶対好きになる」。それは「やればわかるよ」と未知なる快楽に誘い込む売人の謳い文句と同じ危険を孕んでいる。ひとたび足を踏み入れれば一瞬にして誰もがその魅力に骨抜きにされる王国の魔法は、LSDや覚醒剤と同じ幻覚症状ではないかというのが、わたしが東京ディズニーランド・TDLに行かない理由である。行ってないので見たことはないが、ひと目見たが最後「うわ〜」と眩いばかりに魅了されてしまうことはわかりきっている「エリクトリカルパレード」も、じっと懐疑のまなざしで見れば、素直で愚かな民衆心理を華やかに盛り上げる占領軍の祝典にしか見えないわけである。しかも何より受け入れがたいのは、無邪気で従順で新しいモノ好きな日本人をもてなすように愚弄する王国の支配者が、あろうことか大ネズミとは、人をバカにするにも程がある。どんなに愛嬌たっぷりにおどけて見せても、決して目は笑っていないネズミ軍団に、何が悲しくて愛や希望や勇気という人の世の真理を授けてもらわねばならないのか。と、もはやテーマパークと呼ぶには強大すぎる王国の繁栄ぶり、帝国主義の統治作戦なみに完璧に仕掛けられたサービスという名の化学兵器の脅威について、余計な思索をめぐらせてしまうわたしも、どこかちょっとおかしいのか、どうかしてるのか、それとも、どっちもどっちなのか…

と、そのような考えから、人知れずTDLに怒りの狼煙を上げ続けて早25年。戦略的かつ策略的に仕掛けられた夢と魔法のプログラム装置によって再生産される快楽的感動と幻想的な愛や優しさ。直接脳にくる刺激に幻惑され懐柔されてしまうのが人の心なのである。ゆえに行けば必ず「楽しい!」と思ってしまう心ある人間は、そんな怪しいファンタジーがいっぱいの場所には近寄るべからず。「来るでねぇ!」の八ツ墓村。なのに、にもかかわらず、人々は行ってしまうのだ。

震災から一ヶ月、休園していたTDLが再び開園。今また王国の扉は開かれたのである。そこでまたしても徹夜で行列を成す人々の映像にがく然とさせられた。中でも目に余る感激を見せていたのは、最前列で興奮する男性、「この日を楽しみに生きてきた」M川さんである。もちろんTDLの年間パスポートをディズニー製パスケースに携帯所持。仕事帰りに毎日TDLへ直行するのが日課というファンタジックに逸脱したM川さんのライフスタイルを、テレビカメラは悪意に満ちたアングルで鮮明に映し出す。ゲストというより信者という方がしっくりくるM川さんの弾け翔んだマインドは世間の悪意すら刺さらない、まるで弛みきったゴム風船のよう。常識ある大人の感覚からすれば相当ズレと痛みがあるのは一目瞭然である。さぞかし職場や周囲から疎外され孤立しているのだろうと思いきや、そんなM川さんと心ひとつに「ミッキー!」「ミニー!」と歓喜の声を上げる仲間が、そこには大勢いるのである。入場して真っ先にめざすは「シンデレラ城です!」と張り切って答えるM川さんとその仲間たち。なぜなら「パレードの席を取らなきゃいけないもので」と、どうでもいい「そのココロ」を付け加える親切さがまたやりきれない。その言葉通り、入場ゲートが開いた瞬間、歓声を上げ飛び跳ねるようにシンデレラ城めがけて突進するゲスト衆。幻に魅入られた人間は止まらない、止められないのだ。いや、でもそれはそれでいいじゃないか。その人はその人の楽しみがあるから、人それぞれ好きに自由に生きたらいいじゃないかという見方もあるのかもしれないが、悪いけど、わたしはそこまで寛容なリベラル精神は持ち合わせていない。

わたしは、TDLに依存するM川さんたちの喜び、楽しさがいいのか悪いのか。というより何が悪いのかを、今一度、原点に立ち返り考えてみたい。
ただそこにいるだけで、次から次へ新しい世界へ進んでいける高揚感。この楽しい日々がずっと続いていくような夢のような安心感、ちょっと前にも似たような経験はなかったかと。そうそう、あったあった。1945年の夏からずっとあった。わたしたちはあの敗戦の夏から、求める求めないにかかわらずチョコレートをもらい続けてきたのだ。わあ楽しい!まあおいしい!まあステキだこと! そんな風に手放しで無邪気に喜んで受け入れた「日本にはなかった価値感」の巨大な象徴。それがTDLなのだ。

自分が子どもの頃、モノを欲しがって、もっとちょうだいとねだったときにはひっぱたかれて叱られた。むやみに欲しがることは恥ずかしいことだと、こっぴどく叩き込まれたものだった。それがたとえ自然な欲求であっても、誰にも迷惑をかけない個人の自由であっても、やたら欲っすることは「恥」であるというのが、日本的な伝統の心持ちとして、人にも世の中にもあたりまえに折り込まれていたように思う。

おそらく、日本人は調和や融和を支えに生きてきた共同体思想から、個人の欲望の自由化によって破壊される伝統文化の大きさをムラ社会の歴史文化の中でおのずと知っていたのだろう。だから、それを諫める信条として、「恥」という精神文化をつくったのではないか。「恥ずかしくないように生きていきたい」という主体性のない表現、あいまいで抽象的な価値感を根本に置くところが、いいも悪いも日本の伝統なのだから仕方がない。

かたやTDLに象徴される快楽的ファンタジーはダイレクトに脳を刺激するものなので、理性や知性というストッパーが効かないところに恐さがある。だから、思う思わない、意識するしないにかかわらず「もっともっと」と欲求だけが無限に増長していく。人というのはそういう具合にできているのだ。だから宗教があり神があり、特定の神を持たない個人集団の日本においては、それを「恥」として自制・自戒する感性が大事だったのではないか。 TDLファンが口にする「一度行けばわかる」というレトリックは、一度ハマれば抜け出せない蟻地獄のキャッチフレーズで、抜け出せない恐怖を察知するかどうかはユーザーの知的水準、ゲストの自己責任ということを、わたしたちはうっかり見落としがちだ。知的水準といっても、それは学識や学歴ではない。生活に根ざした経験からくる庶民の賢さ、聡明さのことで、それは、良さそう、おいしそう、儲かりそう、オトクかも、と鵜呑みにしたいモノや話に出くわしたときに、自分の頭で「但し・・・」の注釈を見つけることではないだろうか。

おそらく政府や官僚、企業の上層部たちの説明が歯抜けのようなスカスカの言葉の羅列なのは、正確にありのままの懸念や危機感を伝えればギャーギャー騒ぎ立てる程度の知性しか国民は持ち合わせていないと、国民の大半主流は聡明ではないと踏んでいるからだ。けれど、そうやって見くびられる側にも落ち度はある。楽しい・うれしい・気持ちいい・安いとなれば何の疑いも躊躇もなくまるごと貪るような人々が多数いるからである。そういうボリュームゾーンに正確な現状分析に基づき予測される深刻な事態、最悪の予見などを投げかけたとしても、そこから自分で客観的思考や分析に至ることはまずありえない。「どうなるのか!」「どうしてくれるのか!」と責められるだけだと、そうなれば次の選挙に勝てなくなると、長年のナアナアな付き合いの中で軽く見込まれてしまっているのである。

たとえば、医者といえどもガンを告知していい人か悪い人かを見極めた上で、正確な予見を述べるわけである。わたしの母親がガンとわかったとき、医者はわたしと弟だけに告知した。そのときわたしは本人に告知すべきではないかとお願いしたが、医者は言いにくそうに「お母さんは人より感情が激しい方なので、知らせない方がいいでしょう」と、ややこしい喧嘩に巻き込まれたくないような腰の引けた口ぶりで、問題先送りの安全策を選択したわけである。その後、ガンが再発し、いよいよ隠し通せないと本人に告げた際、やはり医者の懸念は的中した。「先生!よくもこの子らを悲しませてくれたな。わたしが死ぬということは、この子らには死ぬほどつらいことなんや!それをわたしに黙って、わたしが死ぬなど、医者のあんたにそこまでの権限与えた覚えはないわ!」と、たじろぎ固まる医者を滅多斬りに、凄まじい剣幕で怒りを爆発させる母親を見ると、「本人に告知せず」とした医者の判断は妥当であったと認めざる得ない。

つまり、人というのは、言って分かる人間にしか本当のことを言えない、言わないのだ。政治や社会を何とかしたいと思ったら、自分たちが勉強して賢く聡く一筋縄ではいかない大人になるしかない。ぼやけて不抜けた答弁で逃げる政治家、官僚、企業のお偉いさんは、国家の向きや国策の是非を問うアンケートで「どちらともいえない」が大部分を占めるような国民性に支えられている。たぶん日本の構造改革というのは、一丸となった意識改革に他ならないのかもしれない。

TDLの開園に、闇の中に差すひと筋の光を追い求めるかのように嬉嬉として押し寄せる人波は、およそ成熟した大人の社会とは程遠い現象に見えた。それはあたかも無意識に口の中に放り込まれるふんわり甘い綿菓子のような快楽に人間本来の健全な感受性や知性が蝕まれ、社会の骨がボロボロに腐食していくようなおどろおどろしい「だまし絵」にさえ映る。でも、だからといって、自分の好きなこと、自分が楽しいことを規制するような世の中であってはならないし、人が何を思い、何を良しとして、何を表現しようともそれは尊重されるべき個人の自由である。ただ、個人の自由が本当に人を幸せにするものなのか、したいようにさせることが自由を尊重することなのか。伝統と自由の間で苦悩し続けるスタンスこそが洗練と成熟ではないか。そういう苦悩のバランス感覚が見事といえばやはりヨーロッパ、わたしとしてはとくにパリなのである。

「大衆がひとたび権力を持てば、その社会を救済することは不可能である」というのは強烈な大衆批判で知られるスペインの哲学者・オルテガの言葉である。大衆のひとりとしてはそこまで頭ごなしにアホ呼ばわりされると腹が立つも、それだけ民衆ひとり一人は高貴な使命と義務を背負っているものだということでもある。おそらく、この場合の「権力」を現代に置きかえれば、法に触れない限り誰もそれを止められない、咎められない、もっともっとの「自由」かもしれない。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

4件のコメント

千葉に住んでいたので、ディズニーランドが出来た当初から何の疑問もなく遊びに行っていました。
多川さんは意識して行ってないのですね◎
うまく言えないんですが…むしろ好きの裏返しみたいな…(^^)
行ったことがないのにTDLに対してこんなに熱く語れる多川さん、面白いなぁー相変わらず。
こんなに嫌われるとTDLもある意味、嬉しいかもしれません。

by 平平平平(ひらたいらへいべい) - 2011/04/18 6:46 PM

愛には憎しみを、憎しみには愛を。
が、信条でありますm(_ _)m

by 匿名 - 2011/04/18 9:52 PM

まぁービックリしたわ〜!!!
今時、俺以外に、ネズミーランドに
行った事がない奴が おるんか…

相変わらずの、楽しい話で楽しませてくれて
ありがとうございます!
俺は地方なので、M川さんの ニュースは知りません。
見たい…
映像は、allモザイクでイイので、M川さんの
その時の温度を感じてみたい…

今までの自粛ムードに…
TDLは夢だからOK…なの?…か?
今日は、やたらと、お笑い芸人さん達が
被災地に行って…ってTVでやってる。

そもそも自粛反対な 僕ですが…

このサイト⁈も、少しの間、自粛だったんだろーか?
全然、更新されなくて、淋しかった…

まぁ とにかく、現実からは逃げられない!
けど、逃げた気になりない!
って事で、逃げる人が多いから TDLは、儲かる!

大ネズミなのに〜( ̄ー ̄)

by 秀虎 - 2011/04/19 8:13 PM

M川さんに言わせれば「ネズミーの夢こそが現実で、通勤電車に揺られ会社であくせく働く現実が夢なんだ」と、完全に反転した世界で生きているのかもしれません。
M川さんの温度は判別不能でしたが、M川さんの瞳の輝きは100万ボルトでした。

by richun - 2011/04/20 12:15 PM

コメントする ※すべて必須項目です。投稿されたコメントは運営者の承認後に公開されます。


コメント


Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

そのほかのコンテンツ