salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2012-02-28
アヤパンより嫌いではない木嶋佳苗

19歳から32歳までの13年間、20人以上と愛人契約を結び、男たちから月に150万円、総額1億円を貢がせた女—木嶋佳苗37歳。
彼女にぞっこん骨抜きにされた男性の3人が次々と亡くなった連続不審死事件の裁判で、2月17日、埼玉地裁で佳苗被告に対する弁護人質問が行われた。法廷では、佳苗の無罪を裏付ける弁論として、「男たちが勝手に佳苗に惚れただけ」という弁護側のストーリーを裏付けるかのように佳苗自身が過去を振り返り、自分の特別な価値を赤裸々に語った。

「(これまで関係を持った男性から)つねにほめられました。テクニックというよりも・・・本来持っている女性の機能が高いと」

「(男性から)普通とは違うと評価してもらっていたし、自分もそう思っていたので(普通の)就職には向かないと思っていました」

「(私の)第一印象は、素朴でまじめで普通なのに、それが実際には世間の価値感からかけ離れた奔放なところが気に入られたのだと思います」

そして、自分とセックスした男性の多くが今までにない感動、感激、感嘆の声を述べたといい、そういう男性たちの絶賛が揺るぎない自信につながり現在に至るというのが、弁護人が導き出したカナエズ・ストーリーである。

一連の告白を信じれば、佳苗は、女性として選りすぐりの天性の魅力を持っており、それがために男をどうしようもなく翻弄し、惑わせ、狂わせてしまう“罪な女”というだけの話になる。しかし、それに付けても「本来持っている女性の機能が高い」とはいったいどういう意味なのか。常識的に考えれば、ミミズ千匹、数の子天井など、よくは知らないが、昔から「ある」と伝わる“名器”の持ち主ということか。たぶん、まあ、そういう風な意味だろう。となると、不特定多数の男性と関係を持つことで金銭を得る佳苗のライフスタイルは、あながち間違ってはない。何しろ、その天賦の名器を生かす道は、より多くの男性とセックスすることに他ならないからだ。そして、その評価としてそれ相応の報酬を頂戴することが自分の価値を確認することになるのだから、「セックスしてお金をもらう生活」に人が思うほど抵抗感や罪悪感を感じなかったのも無理はないかもしれない。つまり、何万に一人とも云われる類い希な機能に恵まれてしまった佳苗にとって、セックスは自分の力量を試す発表の場、自己表現の手段だったのではないか。かくいう自分とて、なぜコピーライターになろうと思ったのかと云えば、大人や先生から「作文が上手」と褒められたことで、自分は人より文章や言葉を考えることが得意なのだと、その気になったからだ。
およそ女性というのは、恋愛でも仕事でも、髪型ひとつ、リップの色ひとつでも、人から褒められれば気分も上がればモチベーションも上がる。だから、男性に褒められることで「自分には価値がある」と思い込んでいた木嶋佳苗を「アホか」と笑うことはあっても、わたしは本気で軽蔑し嫌悪する気にはなれない。何しろ自分もちょっと褒められたことを後生大事に心の支えにしてしまう同じ穴のムジナだからだ。

たとえば、「わたしだけはこの子の痛み・苦しみがわかる」、あるいは「わたしだけは彼の本当の弱さがわかる」「わたしだけはあの人の気持ちがわかる」というときの女性の特別意識というものは、「わたしにはその価値がある」と思いたい女性特有の自意識の健全で正しい表し方ではないかと思うのだ。となると、女の自意識というものは、それが自分のためだけに使われなければ捨てたもんではないし、「わたしだけは、わたしだけは」のとどのつまりが母性のような気もする。

ただ、木嶋佳苗の場合、男性に褒められて嬉しかったというのはそういう時期もあったのだろうが、人というのは毎度同じように同じとこばっかり同じような言葉で褒められても飽きがくる。ありがたみも薄れてくる。そうやって褒め上げたら機嫌よく頑張るとでも思ってるのかと、裏をかく知恵もついてくる。木嶋佳苗は、ある面、無垢で無邪気で無自覚ではあるが、一方で、シーズー犬の愛犬サークル「カインド」を立ち上げ、数百人の会員を集め利益を出すような商才もあれば、自身の料理ブログに毎日レシピをアップするマメに器用なところがある。しかも婚活サイトにウソのプロフィールを書き込んで獲物を釣り上げる狡猾な策略を練る知性も技能もある。ということは、男に褒められずとも「自分が特別」と認める自意識も虚栄心もプライドもしっかりあるということだ。となると、自分が褒められて嬉しいと思えるような男性、この人に認められることでさらに自分の価値が押し上げられるような大物を求める邪な向上心が佳苗になかったとは、到底思えない。佳苗にそのような向上心と上昇欲があったかどうかが、殺害動機を解く鍵ではないか、ひそかに裁判員に選ばれる日を待ち望むわたしである。

おそらく普通は、もっと褒められたい、評価を得たいと思えば当然、今以上の努力が必要だと努力するものだ。が、この手の女犯罪者は、人を殺すより努力する方がイヤという価値感であっさり犯行に及ぶ。普通に考えたら「ちょっと頑張れば済むことではないか」という金額、目標、願望を達成するためにいともたやすく人を殺める傾向にある。殺して生命保険を得る、殺して遺産をくすねる方が自分が努力するより手っ取り早いという計算なのだろう。

木嶋香苗は努力が嫌い、というよりも、生まれてこの方、努力というものを一度もしたことがない半生である。佳苗の場合、愛人クラブといっても、どこかの事務所で女の子数人で電話を待つ勤務型ではなく、個人契約のフリーランスなので、そこには指名や売上ノルマもなければ、客からチャンジと足蹴にされることも、店の女同士の熾烈な競争もない。そう考えると、佳苗という女性は、本人が云う通り、選ばれし特別な「運」を持った女性だったというのは、確かにそうだったのかもしれない。もし仮に、自分が佳苗と同じようなことをして、その日、その日を食いつないでいたとしたら、「なんでわたしが2万で、あんたが5万やねん」と、佳苗の運の良さ、恵まれた境遇に凄まじい嫉妬と怒りを覚えていただろうが、幸いにも業種も職種も違うので余計な私情や私怨のない冷静な頭で、木嶋香苗を見つめることができる。すると、食欲・性欲・金銭欲の3本に絞り込まれた今どきないくらい単純で原始的な佳苗の自己実現願望に、どうにも憎めない愛嬌すらと感じてしまうのである。

そんな欲の出所と欲の出し方がわかりやすい佳苗に比べれば、今の「女子アナの生きざま」の方がよっぽど鼻持ちならずいけ好かない。それは、佳苗とは真逆のヌケもスキもオチもない自意識、ないと見せかけて実はあり余る自己愛、自己陶酔、自己顕示欲が見え見えだからだ。

先日、ヘアサロンで手にした雑誌で、幸せの絶頂にある高島彩の謙虚なまでに嫌味なエッセイを読んでしまい、それはそれは佳苗ブログなど比べものにならない気色悪さを感じたわたしである。30代女子のファッション誌の連載なので、ピュアでガーリーでハッピーなノリが求められるのはわかるが、それにしても知性と教養あるアナウンサーの文章とは到底思えない幼稚くさい文体もさることながら、その内容のしょうもなさときたら「昨夜見た夢の話をする電車の女子高生」レベルではないか。

昨年、人気フォークデュオ「ゆず」の北川悠仁と結婚したことはニュースで知っていたが、そのエッセイでは、妻になったことがいまだに信じられない「わたし」について、眠たすぎるエピソードと感謝と決意が延々と綴られていた。

「朝目覚めたとき薬指の感触に結婚した喜び、嬉しさを感じます」とか、「区役所に婚姻届を出しに行ったときに係の人が小声でおめでとうと言って下さったことにあらためて結婚の喜びとともに、感謝の思いがわいてきました」とか、もし佳苗が大金持ちと結婚したらブログに書きそうな内容である。おしまいには「2011年は激動の年でした」というからてっきり震災のことかと思いきや、自分が結婚してフリーになったことを「激動」と表す浅はかさ。やさしく丁寧な言葉にさりげなく包み隠された無神経さときたら、ある意味、丸わかりな佳苗より笑えないだけ性質が悪い。

「結婚、そしてフリーになったことで、激変した生活のリズムについて行けない自分がいて、まわりからは『少し、ゆっくりしたら?』と言われるのですが、わたしは、一生に一度の変化の時をちゃんと味わって前に進んでゆきたいのです」・・・・好きにせえよ。以外、読者はこれに何をどう思えばいのか。大体、結婚することもフリーになることも全部自分が決めたことで、そうなれば今までとは生活が変わるのは当然ではないのか。それをまるで自分だけに訪れた「変化のとき」みたいに大げさに気にして、しかもまわりもそんなことくらいで「休んだら?」って、大人が大人に言うことか。

わたしは、木嶋佳苗に対して何ら苛立ちを感じることも怒りを覚えることもないと言ったが、おそらく、それは木嶋佳苗がいくらモテたとはいえ、どれほど愛されたとはいえ、どれだけハッピーで贅沢なセレブライフを送っていたとしても、それが女性の幸せの形として世間一般に広く出回る可能性も感染力もないからである。毎回裁判の傍聴に並ぶ「カナエギャル」と呼ばれる追っかけはいるそうだが、彼女たちいわく、ブスでもモテる女子力をカナエから盗みたいらしい。まあ、彼女たちはブスを自認しているところがブスではないと思うが・・・

けれど高島彩には、危険がある。こんなフワフワした結婚観や、「わたしがキッチンで鼻歌を歌っているとハモってくれるんです」みたいな溶けたソフトクリームのような甘ったるい思考でも、働き女子のハッピーリーダー的ポジションに祭り上げられるわけである。しかも、「わたしもアヤパンみたいに可愛く幸せになりたい!」というような憧れや羨望を抱いた少女や女子の中から、第2、第3の佳苗が生まれることも十分考えられる。
そう言う意味で、木嶋佳苗の料理ブログ「かなえキッチン」のあきらかな虚言よりも、高島彩のエッセイ本「irodori なりたい自分に近づくチカラ」のキレイな戯言の方が「嘘」の罪は深い。ひがみだろうと何だろうと、「ブスのくせにモテる」より「アナウンサーのくせにタレント気取り」の方が、よっぽど癪にさわる。それは、自分でモテると思っているのは同じでも、後者は「そんなこと思ってません」作為が見られる。男の人にはそうは見えなくても、わたしにははっきり見える。わたしには分かる。それが自意識の強い女の毒眼ってやつだ。

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1件のコメント

北原みのり著「毒婦。木嶋佳苗 100日裁判傍聴記」について書いてみました。木嶋と北原の2葉の写真。
http://harrylime3rdman.blogspot.jp/2012/05/1002.html

by ハリー・ライム - 2013/10/05 8:32 PM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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