2010-11-23
薬か人か、うつめく心を救うもの
松平健さんの妻で、元女優の松本友里さんの自殺に触れ、「彼女を救えなかった」という健さんの悲痛なコメントに、人が人を救うとはどういうことか考えさせられた。友里さんは3年ほど前から「うつ病」を患い、最愛の母を失ったショックから自殺に至ったのではないかと見られているが、遺書なども見つかっていないので本当の理由は誰もわからない。
かくいうわたしも、12年前、ガンが再発した母親の余命を告げられた時、死のうと思ったことがある。その頃は「うつ」という病名も一般的に知られていなかったが、当時の自分は、それに近い症状だった。励ましてくれる友人や同僚に対しても「ありがたいけど気を遣わせて申し訳ない」と卑屈な罪悪感を感じ、「でも、わたしのこの苦しみは誰にもわからない」と孤独の淵に自ら沈み込み、「誰もわたしを救えない」という絶望に自分を追い込む毎日だった。自分が思いたいようにしか思えない。その狭苦しさが「心を病む」ということなのかもしれない。
電話も引かず、友だちとの交流も絶ち、抜け殻みたいな心で会社に行き、心とは裏腹なハッピーなコピーを書き、家に帰ってひたすらうつうつと死にたい日々をやり過ごす。しかも、その頃は京都に住んでいたので、ひんやり底冷えする古都の風は、世の空しさに心を凍てつかせるには格好の環境であった。必要以上に陰々滅々と打ち沈んでしまったのは、京都のせいというのもなきにしもあらずである。
死別、喪失、病気、過労、失業、親の介護… 耐えられない悲しみ、苦しみ、寂しさ、つらさに心が耐えられるようになるまでには、耐えられない心がもがいて「うつ」めく時間が必要で、逆にその瞬間「負けないぞ!」となれる方が、わたしにはよっぽど信じられない。
ひどいことしか思えないときは、思いたいように思うだけ思えばいいと、わたしはそう思う派である。
だから、あえて視野を広げる旅に出たり、やさしい自然と触れあったり、窓を開けて新鮮な風を入れたり、気分転換に花を飾るような、うつな心にそぐわないことは一切しない。
いわば心のままに、悪いように悪いように、ひたすら思い至らしめるのみ。すると不思議なことに、どこかの地点で「もうこれ以上、悪くは思えない」臨界点に達するのだ。そこまで来たら、もう思い残すことはない。
そこでようやく正気に戻って吹っ切れるのである。
真面目で几帳面な完璧主義な人。
責任感が強く、我慢しすぎてしまう人。
人に気を遣い過ぎる繊細な人。
「うつ」になりやすいタイプに限らず、ましてや心の弱い人だけが患うのではなく、誰もが「うつ」になる心を持っている。
打たれて打たれて強くなった鉄の心といえども、折れないまでも屈折して歪んでいる危険もある。自分がいかに地獄の底を舐めて生きて来たか、貧乏のどん底からどうやって這い上がってきたか、どれほど凄まじい修羅場をかいくぐってきたか、わたしがどれほど頑張ってこの地位に上りつめたか、強い心の実績を誇る人が必ずしも「健やか」とは言えない場合もある。
とはいえ、 人の心は傷つきやすく壊れやすいものだから、大事にしてね、やさしく扱ってね、という甘えた考えもいただけない。それは人が思ってくれることで、自分が思うことではない。
「え、そんな壊れやすいの? ほな要らんわ」となるのがあたりまえの人様の心であり、けれどそうはならないのが、ありがたき人様の心である。
大きな問題や訴訟が起こってからでないと動かない政府が、なぜこれほど積極的に「うつ病」対策に取り組むかと言えば、それは経済的損失が大きいからで、国がやさしいからではない。
「うつは、薬で治る病気です」というメッセージも、確かにやさしいし、正しいと思う。「一生、薬に頼って生きるのか」「自分を助けるのは自分しかない」そんなきついことは、言ってはいけないことかもしれない。
でも、本当にその人を救いたいと思う人間から出る言葉はやさしいだけではない。
「光市母子殺害事件」の被害者・本村洋さんの著書「なぜ君は絶望と闘えたのか 門田隆将・著」に、彼を立ち直らせた上司の言葉がある。わたしはその言葉に、人が人に救われるとはどういうことかを痛切に思い知らされた。愛する妻と幼いわが子を殺され、しかもその犯人は少年法の壁に守られている。その悲しみ、怒り、絶望はあまりにも残酷で峻烈極まりない。妻子を守れなかった無力感、罪悪感、途方もない悲しみ、苦しみに苛まれ、生きる希望も仕事をする意味も見出せないと辞表を提出した本村さんに、上司はただこう言った。
「この職場で働くのがイヤなのであれば辞めてもいい。
君は特別な経験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。
でも、君は社会人として発言していってくれ。
労働も納税もしない人間が社会に訴えても、
それはただの負け犬の遠吠えだ。
君は、社会人たりなさい」
その胸中を察すれば察するほど、その人の希望を受け入れることが、唯一自分にできることに思える。けれど、その人の気持ちを優先することが、本当にその人を思うことなのか。「社会人たれ」という上司の言葉に、人を思う厳しさを痛烈に思い知らされた。それは、生きる望みを失った者に人がかけられる唯一の言葉。生きろ、生きてくれ! 祈り、願う、ただそれだけしかない。
「うつ」や「自殺」を防ぐ手立ては、はっきり言ってわたしにはわからない。ただ、わかることは、その人がわかってほしい気持ちをわかるだけでは、わかってもらうだけでは、人は救われない。
どれほどの悲しみや喪失を味わっても、たった一人の存在や言葉に生きる希望を見出し、再生することができるのが人の心というものなら、誰もが誰かのそういう一人になることが、草の根的なうつ予防策、国民主導のメンタルヘルス対策ではないかと思うのである。
1件のコメント
「うつ」や「自殺」を防ぐ手立ては、はっきり言ってわたしにはわからない。
ただ、わかることは、その人がわかってほしい気持ちをわかるだけでは、
わかってもらうだけでは、人は救われない。
どれほどの悲しみや喪失を味わっても、たった一人の存在や言葉に生きる希望を見出し、再生することができるのが人の心というものなら、
誰もが誰かのそういう一人になることが、草の根的なうつ予防策、国民主導のメンタルヘルス対策ではないかと思うのである。
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確かにそのとうりですね、それで松本さんの場合はとても精神的苦痛、悲しみがあるんですね、半端では有りません。 ソレが幾つも成立しています。
まずいことに薬では治らないのですが 前もって自分を知ることで心構えができて乗り越える事ができるかも知れません、もちろん身近な人の助けが必要です、しかし問題は経験した人が身近にいるといいんですが。
ヒンズー教占星術で前もって判断出来ます。
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