salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2010-10-5
考えちゃダメ!
結婚は「ニコイチ」さんよ。

夏に大阪に戻った折、親友との話の流れで、もし今、結婚したら式を挙げるかどうかの話題になった。彼女は、う〜んと腹の中を一巡して、あるかないかを確かめてからひとこと、「ないなぁ」。彼女の答えに深くうなづき、「そこはもう、ええなぁ(いらないな)」と2人して苦笑いしたついでにビールのおかわりを頼むティータイム。店内に流れるフレンチポップのBGMを八代亜紀の舟歌に切り替えてもらいたい午後のひとときだった。

そんな彼女と別れた帰り道、ふと思った。結婚願望などまったくなかったくせに、23歳で何をとち狂ったか盛大なホテル挙式まで挙げ、たった1年で撤退したわたしの「もういい」と、1度も結婚式をしていない女友だちの「もういい」は、どうも情緒的な含みが違うのではないか。というより、そら違うやろと。

独身の彼女たちは、それこそ身近な友人知人が結婚し始める20代前半から20余年、あのときの誓いも空しく離婚や破局に至るケースをかなり見過ぎてしまった感が否めない。まるで移ろいゆく季節の風景を眺めるように、荒城の月に栄枯盛衰の理を知るごとく、愛し合う新郎新婦が憎み合う被告原告へと激変する、そこまでではないにせよ、そうした男女の生々しいドキュメンタリーを見せられ、様々に語られ、諭される機会が多すぎて、結婚は「するもの」というより「考えるもの」という学術的思考が自然に養われてしまったのかもしれない。

それだけに「結婚」というものの扱い方がとても丁重で注意深く、慎重の上にも慎重を重ねる宮内庁のごときところがあったりする。「そこまで考えたら結婚なんかできないよね」と言いつつも、自分に果たして結婚する資格があるのか、一生の誓いを破らぬ覚悟はあるのかと、ついついそこまで考えてしまうらしい。

人の振り見てわが振り直せと、ことあるごとに自分を見つめ直す謙虚な彼女たちの姿勢は、わたしからすれば羨ましいほど愛すべき美点なのだが、スポーツでもダンスでも、あまりフォーム調整に時間をかけすぎると意識が働きすぎて、生来の動物的な勘が鈍ることがある。

あるとき、女友だちと電話中、久方ぶりに気になる男性が現れ、こういう人を好きになっていいのかどうかと迷っているという話の途中、自分の言葉にはっと我に返ったようにつぶやいた名言。
「わたし今まで、ここまで考えて人とつきあってなかったわ!」
そう、まさに、考え過ぎると勘が鈍るというエピソード。ま、その女ともだちは、若い頃から恋愛経験を重ねてきた仕込みが違うから、3日も経たずあの頃の勘を取り戻していたが・・・

おそらく知性と思考力と分析能力に長けた現代女性ほど、そういう結婚学分野の高学歴女性になってしまう傾向があるのではないか。
「女は学がない方が嫁に行きやすい」と昔はよく言われたものだが、若干、それに近い熟慮し過ぎて機を失いがちな難点はあるような気がする。

なんせ20余年の歳月をかけて「結婚とは何か〜愛がなくなる時〜」みたいな哲学研究を知らず知らずに続けてきただけに、その研究成果を自らの人生を賭けて立証して見せたい希望が少なからずとも大いにあったりするのは当然のこと。

ただ、ひとつ気をつけねばならないのは、こうした研究の講師陣として頼んでもないのに出てくるのは、口の立つ結婚に失敗した女友だち(わたしも含む)という場合が多い。講義内容は違っても、そこで熱弁を奮って語られる幸福の方程式は、その講師自らが己の失敗から導き出した極私的な「わたしだけの真理」にすぎないことを、今さらながらの逃げ口上でお伝えさせていただいて。

そもそも「母親好きのマザコン男」「理屈ばっかりのインテリ男」「苦労知らずのお坊ちゃま」「夢ばっかりの甲斐性なし」・・・etc こういう男はダメ、幸せになれない、と言われれば確かにそうかとは思う。けれど実際そんなものは、体に悪い、ガンになるから「買ってはいけない!」と言われるのと同じことで、好きだからといくら食べても何ともない人もいるのだ。

それが社会的に法的に見て、明らかな毒薬・劇薬・麻薬の類でない限り、食べていいかどうかは、自分が食べたいかどうかの衝動でしかない。しかも恋愛や結婚など、そこは考えるよりまず手を出さねば(出してもらわねば)、何も始まらないのだから。

食べて腹下して痛い目見ても、一生おあずけ食らわされるよりマシ。亡母・登美子が窮地に陥ったときの伴侶確保の必殺技「ないより、まし」の腹づもり、である。

たぶん、結婚の意味など、どう考えてもわかるはずがない人類の謎のひとつである。20年、30年一緒に暮らしてもそれが何なのか、何のためか、言葉にできないものであり、愛や絆とまことしやかに言われるほど洒落臭くイヤになる。何万回かめぐりめぐって「またお前か」の運命と思って居れたら、それが何より幸せなのかもしれないし。だから結婚の条件とか、こないだ雑誌で見てぞっとした夫の人的資産価値とか、そんなこと考えるだけ罰当たりで、どだい自分に見合った人間しか出てこないし、それ以上でもそれ以下でも釣り合いが取れないのが結婚じゃ!(「見合い」とか「釣書」とか、ほんと昔の人は皆がコピーライターかと感服するほど、言い得て妙のネーミングセンスが冴えてるわ〜)

ということで、いよいよ結婚についての締めの段。
これはもう自分にとっても、それは未知の想像でしかないが、50年も近く同じ人間と一緒に居れば、自分の肉体がここにあるのと同じように、相手の肉体がそこにある、ただそれだけの感覚で居るような気がする。でもそれが意外にも、天から見れば「ニコイチ」という、結婚といえば結婚なのかも。

ちなみに、この「ニコイチ」とは機械部品などの修理用語で、それぞれ不具合や欠陥のある2つの部品を1つの個体に組み合わせて使えるようにするという意味。ということは、結婚とは、天が施す個体の修理なのか。と思うと、ちょっと笑えた。これは、使える(笑)

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1件のコメント

中盤の下りから笑いが。時には、本能のままにって 大事ですよね

by みっち - 2010/12/10 10:52 PM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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