2011-02-13
体罰は悪か、戸塚校長は悪人か・・・
1980年代、非行少年や不登校児の問題が叫ばれる中、教師も親も手をつけられない子どもたちを叩き直す最後の砦として脚光を集めた戸塚ヨットスクール。当時わたしは中学生。「あんたの好きな戸塚校長、出てはるで〜」という母親の声に「べつに好きとちゃうけど、気になるねん」と、ニュースや特集番組は総ざらいチェックする、戸塚YSフリークであった。
今もわたしの脳裡に焼き付いて離れないのは、殴る、蹴る、海に突き落とす、戸塚ヨットスクールの体罰スパルタ教育の凄まじさ。木の格子扉をはめた座敷牢のような押し入れに三角座りでうずくまる少年。座禅の最中、気を抜いたと長渕キックさながらの跳び蹴りキックを入れられ、床に頭をぶつけられ、泣きながら謝る少年。けれどそんな鉄拳スパルタ教育によって、どうにもならない子どもがどうにかまともに立ち直る。それゆえ戸塚ヨットスクールには親も学校もどうしようもない子どもたちが全国から送り込まれ、スクール全盛期には100人を超える訓練生がいたという。
「体罰でしか人格の再教育はできない」と豪語する戸塚校長ほか12人のコーチが逮捕されたのは、スクール開校4年目の1982年。訓練中に生徒2人が死亡し、さらに奄美大島の合宿から戻る途中のフェリー船から海に飛び込んだ生徒2人が行方不明になった。行き過ぎた訓練と体罰による傷害致死、監禁致死の罪に問われ、戸塚校長に懲役6年、コーチ3人にも実刑判決が下った。
警察署から移送される際、まるでガッツポーズでもするかのように手錠を掛けられた腕を高くかざし、堂々と不敵な笑みを見せた戸塚校長。そのTV映像を食い入るように見ながら、元日本赤軍リーダー・重信房子にも通じる狂信的な人間の恐ろしさを感じた。
それから30年ー 戸塚ヨットスクールの現在の姿を多角的に映し出したドキュメンタリー映画「平成ジレンマ」が公開された。制作は、社会派ドキュメンタリー番組を数多く手がける東海テレビ放送である。
マスコミ・メディアで報じられなかった戸塚校長の生の姿、体罰を封印した今のスクールの日常を見れば見るほど、体罰は本当に悪なのか、何をどう考えるべきか、ますますわからなくなる。体罰など与えずとも教育はできる。けれど一方で、体罰でしか矯正できない人格もあるのではないか。戸塚宏を犯罪者とするなら、そんな戸塚校長のところに行くしかない子どもをつくった罪は誰にあるのか・・・。
かつての猛烈な体罰は封印された現在のヨットスクール。そこはもはや、中学の頃に親や大人から「言うこときかんと、戸塚ヨットスクールに入れるぞ!」と脅されたような地獄ではない。そして、当時の訓練生といえば10代の不良少年・少女や不登校、発達障害、情緒障害児だったが、平成の今、戸塚校長に託される生徒はニートやひきこもりの20代が大半を占める。中には、40代の男性もいる。
これが時代の変化というものなのか。スクールの様子、コーチの態度、子供たちの表情、そこに映し出される何もかもが、30年前より薄らいで、やわらいでいる。禅寺の修行と体育会の特訓合宿が合わさったような規律正しい集団生活とでも言おうか。体罰の恐ろしさがないおかげで、緊迫感、緊張感、切迫感、危機感もないのである。
わたしが何より違和感を覚えたのは、子どもたちの恐怖心の乏しさだった。コーチに激しく怒鳴られ、叱られる。先輩の訓練生に「てめえ、何やってんだよ!」となじられ、どつかれ、蹴り飛ばされる。目の前の人間が発する激しい怒りに対して見せる子どもたちの反応が、相手の怒りの感情レベルに不似合いな冷静さなのである。「自分が何か怒らせるようなことをしたから怒られているのだ」という事実を受け入れ、仕方なくあきらめているのか何なのか。人の怒りに触れることが、それほどショックではなさそうなのである。
体罰とは、体に恐怖を植え付けることである。理由も理屈もなく絶対にしてはならない人間界の掟、やりたくなくてもやらなければならない我慢や辛抱を覚え込ませる上で、何より即効的な威力を発揮するのは体罰だと思う。
たぶん現代の子どもたちは、人の怒りというものに免疫がないのだろう。怒り狂う親や先生に対して、泣いて、怯え、震えながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と許しを乞うような体験など一度もしたことがないのかもしれない。もちろん、親に一度も叱られたことも叩かれたことがなくとも、すくすくと伸びやかに健全に育つ子どももいるだろう。けれど少なくともここは、すくすくと育つことができなかった子どもたちの終着駅、戸塚ヨットスクールである。体で恐怖を覚えさせることなく、眠ったままの人格を目覚めさせることができるのか。クチで言ってわからなければ叩いてでも教え込むのが「しつけ」であって、それは虐待でも体罰でも暴力でもないのではないか。子どもの個性や可能性を伸ばす情操教育に「体罰」は必要なくても、3歳児が大きくなっただけの子どもを鍛え直す人格教育には「体罰」は必要なんじゃないか、などと戸塚校長が言いそうなことをモンモンと考え込み、映画を観終わった後もずっとモヤモヤした気分が続いている。
夏休み期間だけスクールの訓練合宿に参加している少年は、「ずっとここにいろと言われたらどうする?」という質問に平然と「それはちょっと、拒否します」と答えていた。10歳かそこらで「拒否」という言葉を使えるというのは、無意識にでも自分にはその権利があるということを知っているのではないか。卒業を間近に控え、大型免許取得をめざし、自立への第一歩を踏み出すかに見えた20代の訓練生は、試験合格の数日後、何も言わず突然スクールを逃げ出した。戸塚校長が知人を頼って就職を世話した卒業生も、1ヶ月働いた後、姿を消した。
30年前、合宿帰りのフェリーから逃げようと海に飛び込み行方不明になった子どもは、ここから逃げるためにはそうするしかなかったのだろう。けれど現代の子どもは、そこまで必死に逃げなくても逃げられる逃げ方を知っている。それは、本気でつかみかかって、命がけで向き合わなければならない教育というものから逃げた大人・社会の合わせ鏡ということか・・・
けれど、少なくとも戸塚校長は逃げてはいない。逃げるどころか、全人生を投げ打ち、自分の命を賭し、世間の冷たい眼や非難を諸ともせず、70歳を過ぎた今も徹底して闘い続けている。その苛烈なまでに厳しい姿があるがゆえに、わたしはどうしても犯罪者・戸塚宏に真っ向から正義の銃を向けることできない。むしろ、30年経った今、戸塚校長の浮世離れしたアルカイックスマイルに、時代に逆らい取り残されても生き方を変えることができない愚か者の切なさ、侘びしさすら感じてしまうのである。
5件のコメント
戸塚ヨットスクールの映画を調べていて、このサイトに来ました。
僕が同い年のせいか、とっても共感しました。
怖いくらい…
電気風呂のうなぎババア は、もう3日間、思いだしては笑ってしまいます。
いろいろ想う年頃なんでしょうか…
最近、人に興味がわきます。
どーでもよかったはずなのに…
突然ですが、応援します。
次も、楽しみに待ってます!
同年代の応援、励みになります(笑)。そう「戸塚ヨットスクール」と聞けば、戦慄の海の向こうに戸塚校長のスマイルが朝陽のごとく上ってくる、そんな恐怖の光景が頭に浮かぶ、われら’70年代ですね。この映画を制作した東海テレビのプロデューサーも43歳で、どうしても考えずにいられなかったと舞台挨拶で語っておられました。この映画を観た帰り道、中島みゆきの「世情」を口ずさんでしまいました「頑固者だけが〜悲しい思いをする〜」なぁ・・・と。
[...] 体罰は悪か、戸塚校長は悪人か・・・ – salitoté(さりとて) 歩き… 罰」は必要なくても、3歳児が大きくなっただけの子どもを鍛え直す人格教育には「体罰」は必要なんじゃない [...]
ほとほと疲れた
うそやごまかしや人のせいに
あげく親を病気扱い
今わただ会話したくない
あたしが嘘つきゆわれるし
子供であって子供として認めたくなし
あたしが産まれて来た事すら、、、
子供がいないせいか、自分が産んだら自分よりも強い人間になってもらいたい。願います。
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