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白線の裡側まで

2011-02-2
キング・カズー 無限の成長伝説

サッカー日本代表の奮迅勝利に、にわかに燃えたアジアカップ。一試合、一試合、戦う度に肉体的にも精神的も鍛えられ、強くたくましく成長していくザック将軍率いる若武者たちの勇姿に、なぜか坂の上の雲をめざし今まさに駆け上がらんとする明治時代の日本の姿が重なった。多分にお祭り好きで感傷的なニッポン人の1人である。

考えてみれば、ヨーロッパや南米のサッカー大国に比べたら、日本はまだまだよちよち歩きの後進国。 日本サッカーが掲げる目標、ワールドカップ予選突破。それはかつて日本が狂おしいまでに追い求めた「欧米列強の仲間入り」と意を同じくする積年の悲願なのである。だからこそ日本の選手たちは、海外に出る。明治政府の要人・軍人さながらに、海外でのプレイ経験を日本に持ち帰り、世界の強豪に匹敵する水準まで日本の力を押し上げることが、そのまま自分の夢、生き方になり得るのだ。平川克美さんがインタビューで語ってくれた「歴史的発展と個人の精神が調和していた時代」とは、国民の大半が、今のサッカー日本代表のように、「明日はきっと」の思いを胸に一丸となって成長できたあすなろ時代なのかもしれない。

となると、今からそんな成長はのぞめないのか。というと、そんなことはない。ただ、若い時代のような目を見張るような伸び盛りの成長ではなく、背は伸びてないけど背骨がきしんで痛いみたいな、外からは見えづらくわかりにくい質的な発達と成長もある。それこそが老いて死ぬ人生の真骨頂。いわば、サヨナラの向こう側にあるコンニチハ、なのである。

この先頑張って上ったところで別に何があるわけでもなし、何がもらえるわけでもなし。この辺で弁当食って、早いとこ切り上げて山を下りようぜ。そんな頭打ち気分が蔓延する世の中で、それでもおれは下りないよ、やめないよとひとり気を吐くあんたが大将、われらがキングこと三浦カズ。ということで、今回はキング・カズについて、にわかに語ってみたい。

27〜8歳がピークといわれほど寿命の短いサッカー選手の中で、44歳の現在も現役でプレイを続けることは無論スゴい。しかし、それ以上に、そこまでして続けている理由が誰もはっきりわからないところが何よりスゴイのである。チームのランク、ポジション、年収、活躍、記録、結果。誰もが「続けるべき」だと理解できる具体的な成果、数字が見えない。にもかかわらず「やめないよ」。キング・カズを見るたび、わたしの頭の中にはいつも『若者よ』の歌詞が流れ出し胸が熱くなる。

君のあの人は今はもういない。なのに何故、何を求めて。君は行くのか、そんなにしてまで〜(涙)。

つい最近も、ニュースのインタビューで、松岡修造がキング・カズの「続ける理由」がわからないと、ぐいぐいグリグリ攻め込んでいた。傍から見ればおまえが聞くかと。「なぜ?そこまで」のわからなさで言えば、修造も相当ハイレベルな逸材である。けれどもキングを前にすると修造のわからなさもフツーに見えてくるのが、さすがはカズさん! である。

もっとも活躍していた全盛期には年間100試合以上出場していたカズだが、現在では年間3〜4試合。しかも途中出場でしかピッチに立つことはない。けれど、100試合出ていた頃と3試合しか出られない今も、練習量もモチベーションも変わらないという。練習前の準備体操もランニングも、一切手を抜かないどころか、先頭切って声を出す。それはすなわち年間100万買ってくれる客も3万しか買わない客も、お客様であることには変わりがないと大切にもてなす最上のホスピタリティであり、現実にはわかっちゃいるけどできないことである。そこまで「分け隔てなく」生きる姿勢は、もはや天皇陛下の御心、これぞほんまの大和魂というものではなかろうか・・・

試合に出られないのに、ずっと控えなのに、なのになぜそこまで頑張り続けられるのか。自らの限界に涙を流し引退した元テニスプレーヤーである修造にはその心境というものがどうにも解せない、納得いかない点なのだろう。個人競技と団体競技の違いというのも多分にあるとはわかりつつも、わからない、わからないな〜と頭をかきむしり、半ばパニックに陥りながら、「なぜ! なぜ!」と辛抱たまらず押し倒すような勢いでむしゃぶりつく修造であった。

そんな修造をあやすように、「逆にそれがなぜ『何故?』と言われるのかが、僕にはわからないんだけどね」と自嘲気味に笑って答える。1日、1日、走って練習してプレイすることで、自分の中で変化している部分がたくさんある。10年前、20年前より、今がいちばん成長してるんじゃないかと信じられるから、モチベーションが下がるなんてことはないと。

サッカーを続ける理由、それはもう、サッカーが好きと言う以外、他人には理解できない自分だけの道なのだろう。自分自身の変化、成長に集中できるということは、めざす目標や見られたい評価というものが自分以外の他にはない。そういう目に見えない自分との闘い、挑戦には限界はない。
つまり、続ける・続けないというより、生きるか死ぬかということなのかもしれない。

あきらめない生き方とか夢を追い続けるとか、そんなありきたりな既成の表現では間に合わない、追いつかない、キング・カズの「やめないよ」。
目に見えて何もなくても、あるかのような成長もある。誰に見られずとも、褒められずとも、咲いてることすらわからずとも「咲いてるよ」と咲いている。カズのやめない生き方に、野に咲く花の侘び寂びの美を見たりの心境である。

とはいえ、同じ「やめない和!」のこころとはいえ、支持率が1%になってもやめない、強制起訴されてもやめないというのは、美と恥を重んじる日本の精神文化の観点から言えば悪趣味というより他ない。ほんま、カズの爪の垢を煎じて、毎朝服用していただきたいわ。

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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