2010-12-14
面白かったら笑っていいんよ!
障害者バラエティ
いっそタイトルを「液晶の外側から」に変更した方がいいような、またしても、TVにまつわるわたしの少数意見なり。
今回、ピックアップするのは、障害者バリアフリーバラエティ(略してバリバラ)『笑っていいかも!?』。局はもちろん、ハードコアな番組づくりに定評のあるNHK教育。障害者が障害をネタに笑いをとるタブー解禁番組だけに、賛否両論、かなりの反響があったようだ。
脳性麻痺の兄弟「脳性マヒブラザーズ」の漫才、
聴覚障害、言語障害者同士の伝言ゲーム、
障害者たちの障害物競走などなど、超ブラックな際どい企画に、スタジオの観客は戸惑いの色を隠せない。「どうですか?」とマイクを向けられ「面白かった!」と即答した人は2〜3割程度。大方の反応は「障害者の中には笑われたくない人もいるし、傷つく人もいるから難しい」慎重路線。番組中の街頭インタビューでも、半数以上が障害者を笑うことには否定的であった。「おもしろいからいいと思う」「笑ってしまった」という好反応を示したのは、なぜかほとんど女性。おもろかったら何でもええ大阪でも、「ちょっと引いてしまいます」と冷ややかに苦笑するイケ好かない若者もいた。
障害を笑うという行為。それは道徳的にも良識的にも「してはいけないこと」とされている。でも、それは見ず知らずの赤の他人に対するマナーであって、誰に対しても共通のエチケット。けれど、「笑わせよう」と自ら突進してくる障害者に対しては、笑う気満々で受け止めるのがマナーじゃないかとわたしは思う。それで面白くなかったら、「おもろないぞ!」と突っ込むこともありだし、いじり倒すのもあり。なぜなら笑いの世界の御法度・タブーは、下手な遠慮や同情だから。
ただ、この番組が残念だったのは、スタジオの司会者や芸人・脚本家といったコメンテーターに、障害者を笑ってやろうという悪意が存在していなかったこと。運動会に挑む障害者たちが「ハチャメチャにやってみたい!」と意気込みを語れば、「大丈夫、君たちなら絶対にハチャメチャになるに決まってるから」と突っ込む人間が必要だし、言語障害者と聴覚障害者の伝言ゲームであれば「何を言っているのかわからない」面白さをオーバーに上手く表現できる人間がいないと、笑いには至れない。それを見た人が「ずるい」と思えるレベルまで障害の値打ちを叩き上げるのは、障害者と共謀して社会のタブーを崩しにかかる健常者の存在ではないか。言ってはいけない、思ってはいけない、してはいけないと思う以前にあなたの心に沸いて出たものは、こういうことじゃないですか? と見せてやる。それが悪意に満ちた究極のサービス精神、笑いの本質ではないか。
わたしは小・中一貫して、障害児と一緒に学び、同じ教室で他の同級生と同じように過ごした。さらに、自分のいとこが知的障害者なので、その可愛さ、うっとうしさ、純粋さ、狡さ、剝き出しの本能の恐さ、たくましさ、素晴らしさを、小さい頃から肌で感じて育ったおかげで、障害者に対して必要以上の遠慮や配慮は持たない。それは、普通に友だちと付き合うのと同じということである。
自分の学年には、ダウン症のユミコ(以下仮名)、後天性知的障害のカスミ、タックンという3人の障害仲間がいた。ユミコは心臓の病気を抱え、体も弱く、とても大人しい恥ずかしがり屋さん。校庭で遊ぶときも体育の授業でも「ユミコ、大丈夫か」と、わたしたちが守ってやらねばならない存在だった。が、カスミはあることないことよくしゃべるうるさいやつで、学年で一番モテる男の子と自分が付き合っているみたいなしょうもないデマを流したり、気の弱いユミコに偉そうにしたり、大掃除や学級行事の準備というと「障害」を笠に着て逃げたりするので、わたしたちも容赦なく「カスミ!あんた障害児やからっていい気になりなや!」とキツくこらしめ「いい加減にせえ!」と張り倒したこともある。
まあ、それでもへこたれないのがカスミのいいところで、まったく自分を省みず、好きな男子にお色気作戦を仕掛ける山田花子みたいな存在だった。けれど、何より強烈だったのは障害男子のタックンである。中二の思春期ともなると、その性的欲求の昂ぶりが著しく、毎朝「ああああ〜」と叫びながら、ジャージの股間をピーンと張り切って元気いっぱい登校してくるタックンに笑い転げるスクールライフ。竹刀を持って校門に立つ生活指導の先生も「おまえら笑い過ぎやぞ」と、自分も笑っていた。
いまだに強烈な思い出として忘れられないのは、タックンの手の臭さである。これまで生きて嗅いできた中で、あれを超える臭さにまだ遭遇したことはない。というのも、タックンはどうも尻の穴がむず痒いのか、いつもジャージの中に手を入れ、何やらもぞもぞほじくっている。そして「臭ってくれ」とばかりにその指先をコチラに突き刺すように向けてくるのが、タックンのクセなのだ。いつもは「うるさい」と払いのけるのだが、その日はあまりにしつこいので、友だちと2人「どんな臭いなんやろ」という悪意に満ちた好奇心でその手をつかみ、恐る恐る自分たちの鼻先に当てた。瞬間、殺虫剤を噴射されたゴキブリみたいに七転八倒、あまりの臭さに友だちとふたり笑い死に寸前。転げ回って笑いもがくわたしら2人を、タックンは満足気に見下ろしていた。その後日、仏のような養護担任の先生が、怒りも露わにタックンの手をバシッと叩いて「やめろ!臭い!」と怒鳴りつける場面に出くわした。先生も好奇心から臭ってしまったクチなのだ。タックンもわたしたちも先生も、同じ境界線上に並び立っているアホくささ。これこそ、バリアフリーのコンセプトではないだろうか。
たぶん、「障害者が自分の障害をネタにする」「健常者が障害者を笑う」というコミュニケーションのあり方は、あたりまえに障害者と接したことがない、24時間テレビ的な感動的な障害者しか知らない人にとっては、品性を疑う行為に捉えられるのかもしれないが、健常者がその良識の壁を越えなければ、障害者はいつまでたっても「面白いヤツ」になれない。その方がよっぽどブラックではないか。
わたしは、「どんな笑いであれ、根底に劣者への差別を含んでいる」という中島らもの考えに強く共感する。ハゲ・デブ・ブス・アホ・ビンボー、その人間の弱みや身体的特徴を大げさに揶揄して笑うことで沸き上がる優越感が笑いの本質で、人に優越感を与えて「笑わす」、優越感を与えられて「笑ける」。結局、笑いは与え合いの極致なのだ。
しかもそれは「差別」という社会的タブーぎりぎりの境界線上に迫れば迫るほど、どんどん深化する。笑ってはいけないしばりや抑圧がきつければきついほど、突き上げてくるものが笑いであって、それは決して善意などというものから生まれるものではない。だから、障害者のお笑いを成り立たせるには、批評精神、反骨心のある底意地の悪い人間が必要なのだ。
障害者も本気で笑いをとりたいのなら、健常者に対して悪意に満ちた批判の眼を持つべきだし、健常者のウソや仮面をはぎ取る表現の技や腕は鍛えていかねば、越えたい壁は越えられない。それもまた、障害があろうがなかろうが関係ない人類共通の常である。
最後に、良識外れのバリアフリーを物語るエピソードとして、パートナーの同僚の親父さんの逸話を。
その親父さんの家の前はちょうど養護学校のバスの停留所で、毎朝、障害児たちが庭先の草花をちぎったり、むしったりされることに激怒した親父さん。「おまえらいい加減にせえよ!」と障害児のひとりにゲンコツを食らわせた。それを見てすっ飛んだきた養護学校の先生が「なんてひどいことをするんですか。この子たちは障害児なんですよ!」と猛抗議。間髪入れず、親父さんが言い放った言葉は、いいも悪いも平等そのもの。
「障害者だろうがなかろうが、していいことと悪いことは一緒やろ。関係あるかいっ!」
その後、バスの停留所は、親父さんの家の前から別の人の家の前へ移されたそうだ。
その親父さんの言動は、一個人のものなので、養護教育的には間違っているのかもしれないが、わたしは、言ってることはその通りだと共感できる。
障害があろうがなかろうが、その人がその人であることには関係ない。
障害者がしんどいこと、困っていること、不便なことを思いやり、手助けするのは、そういう人に対して自分がそうせずにいられない気持ちがあるからであり、障害者がいけないこと、間違っていること、自分がイヤなことをしたときは自分がそう思うままに、自分の表現方法で伝えればいいんじゃないか。そこで「障害者だから」とわきまえられ、遠慮されるのは、わたしがその立場なら、とても悔しいし寂しい。
笑える・笑えない、腹が立つ・許せる、可愛い・可愛くない、一緒にいたい・いたくない・・・
自然な心の衝動を「障害者だから」と抑え込まれてしまうこと。たぶんそれが、障害者がつねに感じている「バリア」というものではないだろうか。
1件のコメント
素晴らしい考えだと思います!!
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