2010-09-15
親友コンプレックス
「親友」という言葉に弱い。
ここでいう「弱い」は、「声の低い男の人に弱い」という風に使われる、
ちょっと好きが入った「弱い」ではなくて、
たとえば、
自分では「私の親友は…」と言うことができなかったり
たまに言ったとしても、自分の言葉ではないようで気持ち悪かったり、
友だちに「親友がね…」をいうのを聞くと、
心の奥の奥のほうで、小さく傷ついていたりする。
そういう「弱さ」だ。
理由はわかっている。
私には「親友」と呼べる人がいないからだ。
こんなことを別に人に話す必要もなく、
ただ、ときどき、「親友」と誰かが口にするのを聞いて、
うらやましくねたましく思っていたときに、
吉本隆明さんの言葉に出合った。
『よく、「俺、友だちたくさんいるよ」なんて言うヤツいるけど、
そんなのは大部分はウソですよ(笑)。
結局、ほとんど全部の人が本当は友だちがゼロだと思うんです。』
(『悪人正機』吉本隆明/糸井重里著:新潮文庫)
ここで吉本さんが言っている友だちは、
私の「親友」と同じような意味合いをもっていると思う。
もう少しかいつまんで紹介すると、
「ある時期、すごく仲良くなった友だちがいる。
でも、その後離ればなれになって再会したとしても、
話はあまり盛り上がらなくなったりする。
そのことは、もう考えようがなくて、
その友だちとの関係は「記憶の中にのみ関係は残る」ということ。
その友だち関係をずっと持続できたら、
それは本当に素晴らしいことで、宝物。
でも、たいていの人はそういうことはない。」
吉本さんがいうように、
「友だち関係をずっと持続している素晴らしいこと」がうらやましいのだ。
反面、そんな器量が自分にはない、とも思う。
私は「親友」というものに、たぶん、幻想を抱いているのだろう。
親友であれば、悲しんでいるときに力になってあげる。
そしてその哀しみを理解してあげる。
親友であれば、苦しいときにそばにいてあげる。
その苦しみを癒してあげる。
という風に。
でも、そんなことはできないのだ。
やってみたところで、哀しみを理解することも、
苦しみを癒すこともできない。
恐らく、逆にそうして欲しいとも思っていない。
悲観的なわけではない。
これは経験として。
もしかしたら、「親友」と言ってもいいのかも? という友だちがいた。
大学からずっと、お互いに、夢を語り、人生を語り合った友だち。
だけど彼女が悲しみと苦しみを抱えていると思ったとき、
私は、理解することも共有することもできなかった。
できなかったというより、そうしなかった。
ただ、無理だと思ったから。
彼女は生き急いで、早めに人生をまっとうしたけれど、
やっぱり、親友というのは恥ずかしいけれど、
記憶の中の関係があれば、それでいい。
もうひとつ救われた吉本さんの言葉。
「以上のように、友だちとか友情を結論づけますと、
『じゃあ、人間は歳とともに、生きるとともに切なくなるじゃないか』
という意見が出てくるでしょうが、
実はその切なさみたいなものは非常に大切なことでね、
なくさないほうがいい感情なんですよ。」
歳をとると泣けてくるのは、切ないからなのかな。
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