2015-04-5
我がカグラザカにも春が来た
外堀の両脇は、例年通り、桜並木で彩られている。お堀の脇、水面上に店を構えるカフェには、これまた例年通りの長蛇の列。その向かいでは、数分おきに電車が走っている。
通り過ぎる電車の風は、桜の花びらをさっと揺らしていく。そのうち何枚かの花びらが、吹雪となって舞い上がった。お堀の水面にはもうすでに、たくさんの花びらが浮かんでいた。
牛込橋を渡る際、門番には「幕府への新年度のご挨拶」と告げる。橋の上では多くの写真家たちが、市ヶ谷方面へと続く桜並木にカメラを向けていた。見上先生ならきっと、こうしたいかにも「春らしい」写真は撮らないのだろう。
橋の向こうには、最近できた新しいビル、飯田橋グラン・ブルームがそびえ立っている。このビルの一階から三階は、商業施設になっており、多くの人で賑わっていた。名前は、サクラテラス、というらしい。この施設の前には小さな広場が設けられており、そこには桜の樹がいくつか植えられていた。
一階の郵便局に用事があったぼくは、その広場を通る。すると、端の方に咲く桜の樹の下で、ちいさな男の子が、花びらに触れようとしきりにぴょんぴょん跳ねていた。その姿を写真におさめようと、彼の母親がiPhoneを向けている。
きっと、その写真はどんな桜の風景よりも美しい。
その後男の子は母親に抱かれ、なんとか花びらに触れることができたようだ。何枚かをぐいっともいで、手のひらに並べてみる。お花さん、痛いでしょう?ほら、謝りなさい、母親はそう言いながらも、満足げな息子の様子に微笑んでみせた。
ぼくにとって、今春、一番ステキな桜の光景だった。
桜の光景ーー去年は千鳥ヶ淵に出かけた。ボートに乗って桜を下から眺めて、でも漕ぐのが下手で、枝が頭に刺さったりして・・・。ホントはこういうデートじみたデートが苦手中の苦手なんだけど、それじゃあモテないよね、ってついこの前、すくんと話したばかりだ。なるほど、今年一緒に花見に出かけてくれる女性もいないわけだ。
ともかく、一昨年、一昨々年も、春には春らしい思い出がきっとあったはず。いちいち細かく思い出すことはできないが、実を言うとひとつだけ、上京以来、毎年思い出すことがあるーー。
もう六年も前か、高校三年生になって間もないある日。ちょうど進路についてぼんやりと考え始めたときのこと。ぼくは校庭を囲む桜並木、そしてその向こうに見える新幹線を教室から眺めていた。来年から、向こう側の人になれるかな。新幹線から、この校舎、そしてこの桜並木を見下ろす側の人に・・・なんて思いながら。
国語の授業中だった。担当の教師は、某旧帝大の教授くずれで、少々変わった人物だったのだが、やはり、そのときも変わったことを言い始めた。
「こんなに良い天気で、こんなに綺麗に桜咲いてるんだから、ちょっと外に出て、みんなで俳句でも詠もうじゃないの」
いつもこの調子だ。実際、進学校にも関わらず、センター試験直前まで『舞姫』を熟読するだけの授業を続け、多くの生徒から顰蹙を買っていた人である。
生徒たちが教室を出て校庭へと向かうなか、ぼくはそそくさと帰り支度を済ませ、みんなとは違う方へと向かっていくーーすくんでも誘って抜け出そう、俳句なんてやってられるか。
ところが、変人教師はそんなぼくを監視していた!
が、やはり変人だった。変人で助かった。
「あれぇ、福田くーんどこ行くのぉ?俳句詠まないのぉ?気をつけてねェ!」
しかしながら、彼も一応教師である。というのも数日後、彼に呼び出されてしまったのだ。いくら「説教慣れ」をしているぼくも、変人の怒りについては予測不可能だった。
が、やはり変人だった。変人で助かった。
「福田くん、キミはそれだけ本読んでるクセに、国語の点数低いよネ。でも、せっかくだから、もっと本読んで、もっと点数下がったらいいヨ。ほれ、この本あげるヨ。新品だヨ」
常日頃より顰蹙ばかり買っているこの変人は、なんと、ぼくに本を買い与えてくれたのだ。渡されたのは『桜が創った「日本」ーソメイヨシノ 起源への旅』(佐藤俊樹 著)という本。校庭の桜はもう、葉桜になっていたにも関わらずーー。
その本の内容は、つまるところ「桜神話」の解体、であった。満開の桜を前に、生徒たちに俳句を詠ませたあの教師が、この本を読んでいた、というのがおかしかった。
もう少し、この本の内容についてふれておこう。簡単に、ね。
現在、ぼくたちが「桜」ときいてイメージするのは、たいていソメイヨシノである。だが、このソメイヨシノというヤツ、ここ百年ちょっとの間に生まれたヤツなのだ。つまり、幕末から明治初期にかけて、ということ。
話を進める前に、ひとつの前提として、桜は「自家不和合性」という性質を持っていることをふまえておこう。これは、同じ樹のおしべ・めしべの間では受粉できない、ということだ。したがって、ほとんどの桜は、別の樹の遺伝子と混ざり、少しづつ変わっていく。
だが、ぼくたちが目にするソメイヨシノは、日本のどこへ行っても同じだ。なぜか。答えは簡単、クローンだから、である(だからといって、「ありがたみ」がなくなるわけではない。というより、だからこそ、魅惑的かつ圧倒されるのだ)。
で、さっきの続き。
結局、ソメイヨシノというヤツは、ここ百年ちょっとで、人工的に、かつ大規模に複製されたのである。それが、日本の近代化に伴う文化の大衆化にも寄り添ってきた、と同時に、日本のナショナリティのシンボルとして、うまいこと政治的にも活用されたのだ。実際、大日本帝国は、植民地にもこのソメイヨシノを植えたとか。軍人さんも大喜びだったに違いない。花は桜木、人は武士!なんてね(この「桜木」という言葉、いま目の前にあるソメイヨシノなんか指してないヨ、なんて聞いたらがっかりするんだろうな・・・)。
こうした流れから、いまのぼくたちの持つ花見の文化は生まれた。つまり、「春、一斉に花開く桜を愛でる文化」ーーこれはけっこう、新しいのだ。気象庁の「開花宣言」が、靖国神社の境内にある桜を基準としていることからも、なんとなくわかるだろう。
これに対して、やはり、ソメイヨシノを嫌う人もいる。事実、これまでソメイヨシノ嫌いの人たちによって、さまざまな議論がなされてきた。彼らの言い分で最も多いのが「本来は、奈良県吉野山のヤマザクラこそ、日本人が愛でるべき桜なのだ」といったようなもの。たしかに歴史を見れば、和歌・俳句で詠まれる「花」とは、吉野の桜が多い。
また、ソメイヨシノの寿命は人間の一生に近いのに対して、ヤマザクラのような種は何百年と生きる。これがその地域・場所性、あるいは固有性へと結びつき、伝説や崇拝の対象とさえなっていた。
こうした長らく日本人が大事にしてきた桜への思いを復活させるべきだ=ソメイヨシノなんてイカサマだから廃絶せよ、と彼らは言うのである。
なんだか古臭い評論のような話であるーー前近代/近代、自然/文明、個性/没個性、といった受験生がよく読むような、ツマラナイ陳腐な二項対立のテーマ。
だが、『桜が創った「日本」ーソメイヨシノ 起源への旅』は、そんな陳腐なものではない。この本がおもしろいのは、この対立そのものをぶっ壊しにかかるところだ。
その話の前にひとつの前提。和歌や俳句で詠まれてきた「桜」は、たしかに、吉野のヤマザクラが多かった。が、それ以外の地域でも、花見の対象はヤマザクラだったのか?
この疑問に対する答えも、これまた簡単ーー人生いろいろ、桜もいろいろ、である。考えてみればわかるだろう。南北にのびるこの列島の、地域ごとのさまざまな環境的な違いによって、そりゃ桜だって違ってくるよね的な思考回路で。
では話を再開(もうすぐ終わるよ!)。
要は、ソメイヨシノから始まるイマの「桜」文化はたしかに、新しいモノだし、クローンだったり、ナショナリズムへの政治利用だったり、無機的で没個性だったりで、なんだか疑わしい。けど、「本来は・・・」とか言い出す人も、実は新しい。というのも、彼らが「本来は」と語り出す「日本性」というのも、ソメイヨシノによってつくりだされたナショナリズムへの意識からくるものだからだ。
著者は言うーー『マクベス』の魔女風にいえば、新しいは旧い、旧いは新しい。
つまるところ、どっちにしても、桜=日本の結びつけは「新しくて旧い、つくられたもの」なのだーーこうしたソメイヨシノ誕生から生まれた「日本性」、そして原理主義的な反ソメイヨシノ派(吉野のヤマザクラ派)が求めた「日本性」、これらすべては「桜神話」によって支えられている。
そしてこの本は、それらを解体したのである。だから、おもしろい。
と、変人教師に与えられた本を再度読み返し、こんな言葉を思い浮かべた。
「芸術愛好家は精神を集中して芸術作品に近づくのに対し、大衆は芸術作品に気散じをもとめている、
芸術愛好家にとって芸術作品は一心不乱な帰依の対象であり、大衆にとっては娯楽の種である」
(ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」)
ベンヤミンの言葉を借りて言い直すと、芸術愛好家にとって、作品には「礼拝価値」が備わり、大衆にとっては「展示価値」が備わっているのである。
これを桜の話にパラフレーズしてみよう。
伝説などの歴史的な意味をまとっている吉野のヤマザクラ、それも一本のヤマザクラを愛好する人。それに対して、どこでも同じ姿で、特別な意味など持たない大量のソメイヨシノを好む人々。
前者が好む対象は礼拝価値を持ち、後者のそれは展示価値を持つ、ということだ。
もちろん、こうした二項対立は、事後的な意味づけによる「神話化」なのかもしれない。だが、単純な「神話化」としてこの論文を斥けるのは早計だ。この論文がいまもなお色あせていないのは、他でもなくこの二項対立における接点に存在する、芸術の「価値」そして「意味」を問うたからである。
そこでぼくはこの接点に目を向けたい。この接点は、解体によって生じる残滓でもある。そしてこの接点が少なければ少ないほど、さまざまな意図によって互いの正統性がぶつかり合い、対立は生じる。
だから、この接点から三次元空間へと跳んでみたいーー。
「桜神話」の解体は、しかし、桜への美意識というあたりまえの共通点をぼくたちの眼前につきつけた。これに、「日本性」という事後的な意味づけは必要ない。
けれども、これまでもうすでに、実にさまざまな意味が付与されてきてはいる。入学、卒業、出会い、別れ云々。神話化はとどまることを知らない。
じゃあどうするかって?
かつて、バルトは言ったーー神話が言語を盗むのだから、どうして神話を盗んではいけないのか?
誰か彼かの意図・企図によってつくり出された神話からの自由ーーそれは、ぼくたちがぼくたちの神話をつくり出せばいい。いい加減で陳腐な物語に、独創的な物語をもって対抗すればいい。
否定じゃない、過剰な肯定だ。
意味づけによって黒ずんだ桜の花びらたちを、ぼくたちの美意識という風によってさっと揺らして舞い上がらせる。目の前の川には死んだ神話化された花びらたちが束になって浮かぶはず。
新たな神話の獲得のために、ぼくたちは手をのばし、ときに跳ねてみてもいい。もぎとった桜の花びらをーー新たな「桜神話」を、手のひらに並べて。
こうして生まれゆく神話の数々が、ぼくたちの美意識そのものなのだ。むろんそれは簡単なことじゃない。必要なのは、さまざまな円あるいは楕円への知的な遊動、そしてそれらの接点からのステキな跳躍だ。
その先に映し出された光景は、きっとどんな桜の風景よりも美しい。
2件のコメント
見慣れた風景に、枝が道によっかかるようにたわんでいる桜がある。枝から離れた花びらは、道行く人々の間をどこということもなく舞っている。
「桜神話」を抜け出た私たちは、あまりにも素朴な桜の美しさに気づいた。そうしていまや、私たちは美意識にまつわるいくつかの「小さな物語」を選んでいる。そのような<選択>でしかない日常に自覚的な者だけが、意味づけを共有する「想像の共同体」から脱退できるのだろう。
しかし、彼は途方に暮れるかもしれない。接点から跳躍を果たしたと思った途端、そこには確かな足場のない三次元空間が広がっているからだ。
この空間を生き抜くのは簡単ではない。彼が神話を獲得しようとすると、頭の中を様々な矛盾した言葉が駆け巡り、衝突し、何とか言葉にできたかと思えば、その表現はあまりに他者の想像力とは乖離している。このような混沌と無理解を経験したならば、私たちは再び、あの居心地のいい地点へと引き返したくなるかもしれない。
しかし、恐れずに言おう。「私は平行線を歩んでいく」と。たとえ誰とも接することがなくても、それでいいと。私たちの跳躍にはそれだけの価値がある。
私は、道を覆うように垂れている枝の下で手のひらを空に向けた。そして、手のひらにのった桜の花びらをぎゅっと握った。
ATさん
いまさらミコシをかつぐのもシンドイけど
二階の張出し窓で高見の見物ちゅうのもイヤミッたらしい
こうなったら
ミコシの後についてウロチョロするか
ってやつです。
ぼくからの、少々小生意気で不良なお誘いです。
今回もステキなコメント、ありがとうございました。
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