2015-04-25
忘れられない記憶、
忘れさせない強烈な事件
祖母が84歳の誕生日を迎えた。
4月25日。
10年前にはJR福知山線脱線事故が起こり、41年前のポルトガルではカーネーション革命でエスタド・ノヴォが終焉を迎え、70年前には連合国によるサンフランシスコ会議が開かれた。
4月25日。祖母の誕生日にはいくつもの出来事が起こってきた。しかし、祖母の記憶はいまだ鮮明に「戦時中の出来事」を彼女に語らせる。
祖母が生まれた翌年、日本政府は現在の中国東北部に満州国を建国し、満蒙開拓移民(日本人移民)政策を推進し始めた。そこで祖母の父、すなわちぼくの曾祖父は家族を連れて満州へと渡ったという。
これからここに書くことは80歳を過ぎた祖母の記憶、それも極めて個人的な話であるだけでなく、平成生まれであるぼくの「平成フィルター」なるものを通している、ということを念頭に置いていただきたい。
ではなぜそんな取るに足らない文字の羅列を人様にお見せするのか。それは少なくとも祖母がその目で、その身体でふれてきた戦争という歴史を、ぼくはこの耳で聞いた以上それを伝える義務があると思うのだ。
風化させてはいけない、教訓にすべし、と人々は口にする。しかし、そうじゃない。忘れられない記憶があり、忘れさせない強烈な事件があったのだ。そんな熱さと重み、ぼくはこれらを尊重したい。
祖母の話によれば、(いまだにそうかもしれないが)こうした満州への移民者に対して当時の日本国内では「野心家で意地汚い」といった意見が出ており、また戦後も裸同然の引き揚げ者たちは「ざまぁ見やがれ」と差別の対象とさえなってきたらしい。
事実、満州に移民した家庭では満州人や朝鮮人を奴隷のようにこき使い、また当時の子どもたちはとりわけ朝鮮人に対して蔑称を使って笑い者にしていた負の側面も大いにある。祖母も、そんな様子を見てきたらしい。
ここでなぜ満州に朝鮮人が?と無知なぼくは問いを投げかけた。祖母は次のように答える。当時の朝鮮における結婚は、女性が嫁ぐ際の結納金の高さによって決まるところが多分にあったため、貧しい家庭に生まれた女性の多くはこのような出稼ぎを行っていたというのだ。こうした背景から、キーセン(妓生)に売られる女性、また女子挺身隊で奉仕した女性もいたらしい。
※ キーセンとは、元々外国の使者や高官の歓待、宮中での宴会などで楽技の披露や性的奉仕をする女性のことであり、戦時中は同時に軍人の慰安婦も兼ねていた。一方、女子挺身隊とは工場などにおける労働奉仕をする女性のことである(朝日新聞社の元記者・植村隆さんはこの二つを混同して記事にしてしまったからフルボッコ状態なのだよ。・・・あとはもう何も言わないでおこう・・・どっちに転んでもうるさい人はいるからね)
祖母の家族は現在の中国黒竜江省西部に位置するチチハルという地で生活をしていた。曽祖父といえば当時の人間にしては珍しく、家人の満州人や朝鮮人を日本人同等に扱い、食事も自分たちと同じ献立、同じ量で出していたそうだ。たとえば、自分の息子(祖母の弟=ぼくの大叔父)が近所の日本人の友達と同じように、庭先で朝鮮人に対して蔑称を使っていじめているのを見つけると決まってゲンコツをお見舞いし、満州人・朝鮮人が食事する中で息子には食わせない!といった仕打ちまで用意していたほどだ。
祖母もまた姉として父の教えの通り弟を注意していたそうなのだが、あるとき朝鮮人が「ミンナ、オナジニンゲン、アナタモ、ワタシトオナジ」と反発した言葉が印象的だったという。というのもこれは、曽祖父が日頃より家族や家人たちに向けて言っていた言葉だったからである。
と、ここまで祖母の記憶の話だが、彼女が生まれたのは昭和6年(1931年)であり、覚えているのはせいぜい終戦間際のことらしい。だいたい12歳から14歳(1943年から1945年ぐらい)にかけてのことである。むろん、これらの記憶も戦後得た知識から再構成されたものであるのかもしれないが。
ところで日本軍といえば自分たちが劣勢にあることは敗戦が決まるまで黙っていたらしい。いや、最後まで口を開くことさえなく、終戦が決まるとすぐに何も言わぬまま自分たちだけ引き揚げていったそうだ。つまり、日本人移民者たちは取り残されたのである。
そこで登場するのがソ連軍である。世界史を見れば明らかだが、これがロシアのやり方だ。敗戦が決まり満州の領有権が正式に中国へと移ろうとするや否やロシアはそこに侵攻を仕掛けるのである。北方領土もまた同じようにして奪われたことはいうまでもない。
ソ連軍が侵攻してくる中、移民者たちは逃げ惑い、多くの人々がこの地で捕らえられ、また命をも奪われた。それだけでなく、逃げ惑う日本人は中国人たちによっても狙われ、捕らえられた人々は次々に人民裁判にかけられて殺されていった。また、日本人に恨みを持った満州人や朝鮮人の家人たちの裏切りによって捕まった日本人もいたという。
その際、家長は公衆の面前での銃殺、あるいは四肢と頭に釘を打たれて磔にされたりした。他の者は追い剥ぎや暴行を受け、飢餓に苦しみ、途中で死ぬ者も数多くいた。祖母はこうした場面を何度も見てきたのである。
しかし、曽祖父は先のような行いのおかげもあって、終戦間際に多くの満州人・朝鮮人から「きっと日本は負けるから早く逃げたほうがいい」とアドバイスを受けたらしく、10人以上の家族を連れて引き揚げたそうだ。が、日本へ向かう船が出港していた「コロ島」(葫芦島在留日本人大送還)まではかなりの距離があり、ソ連軍や中国人に見つからないように何日もかけて逃げることになる。その際、移動手段としての馬車は家人である満州人が用意をしてくれ、また馭者を担ってくれたという。
しかし、道中多くの中国人に目をつけられた。彼らの中には、盗みを企む者もいれば、女性への暴行を企む者、人民裁判を目論む者など、様々な目的で引き揚げる日本人を狙う者がいた。
あるとき、襲い掛かってきた中国人がハンマーのようなもので馬車を叩いた際に、まだ幼い祖母の妹が悲鳴をあげたことをきっかけに馬車の中にいる人間の取り調べが行われた。そしてあえなく曽祖父は中国人に捕らえられてしまったのである。
曽祖父が連れて行かれた場所を祖母は具体的には覚えていないそうなのだが、川のほとりで人民裁判が行われていたことは確かなようだ。そこでは多くの日本人家庭の家長、すなわち父にあたる人間が川のほとりに立たされていた。一人ひとりに即席の罪状が与えられ、反論する余地もなく銃殺される。遺体は川に蹴飛ばされ、きれいさっぱり、次の日本人を裁判にかける。そんな作業がたんたんと進められていき、彼らの家族たちはその場面を見させられるのである。もちろん、まだ幼い子どもたちも自分の父が殺される場面を見ることになるのだ。
いよいよ曽祖父が裁判にかけられる番になった。
すると、なんとチチハルから駆けつけてきた多くの満州人・朝鮮人が強く抗議の声を上げ始めた。
「彼は私たちを平等に扱ってくれた」
「彼は私たちに三食、日本人と同じように与えてくれた」
「彼は私たちの家族だ。彼を殺したら私たちの恥となる」
「どうか彼を殺さないでほしい」
彼らの声は裁判官に届き、曽祖父は免罪された。映画のようなワンシーンである。曽祖父は手足を縛られたまま脇にどかれると、たちまちに満州人・朝鮮人が駆け寄り、縄を解き、逃げる支度を始めたのだった。
祖母の目は、次の日本人が銃殺され、遺体が川に蹴飛ばされる光景を捉えていた。
祖母はその後引き揚げの道中、遺体がごろごろと転がっている中、それを跨ぎ逃げて、逃げて、逃げてきたという。自分が女だと知られると襲われるかもわからないので髪を角刈りにもした。幼い妹を肩に乗せて川を渡ったこともあった。何週間もかけて到着したコロ島でも、多くの引き揚げ者たちで殺到しており、船に乗るまで何ヶ月もかかってしまう。飢餓や寒さに耐えながら、途中、隣に座っていた人がそのまま動かなくなったこともあった。
そうして終戦から約8ヶ月もの歳月を経て、祖母の家族は九州へと渡った。それから約半年間もかけて、曽祖父の身寄りのいる宮城県へとたどり着いたのである。たどり着いたころには、終戦から1年以上も経っていた。
(撮影:見上徹)
宮城県では裸同然の引き揚げ者として、「ざまぁ見やがれ」と言わんばかりの蔑視を受けながら、身寄りのつてを頼りに、とある学校に住み込みの(今で言うところの)用務員としてどうにか生計を立てていたらしい。祖母はそんな中で勉強に勉強を重ねて看護師となり、一家の稼ぎ頭となった。
だが、やはり生活は苦しいままだった。それでいて引き揚げ者として差別も受けていた。あの、朝鮮人を笑い者していたやんちゃな弟も住み込み先の小学校ではつらい思いをしていたらしい。
こうした中で、その小学校に若き教師が赴任してきた。彼は祖母の弟も他の生徒と「同等」に扱い、また住み込みで働く祖母の家族もまさしく「平等」に扱った。そして彼こそが祖母の未来の夫となり、ぼくの祖父となる。
実を言うと、こうした満州からの引き揚げ者としての過去を祖母はあまり話したがらない。それは当然、差別の対象となるゆえんでもあったからだろう。事実、いまだにGoogleでも「引揚者」と検索すれば「差別」や「部落民」と言ったキーワードが出てくる。ぼくがこうしてここに書くことで、ぼく自身の生まれもある人にとって見れば負の印象を持ってしまうのかもしれない。だが、ぼくの脳内では「引揚者」のキーワードには「祖母」「曽祖父」「祖父」「平等」という誇らしいキーワードが推測される。
これでいい。祖母の声はまさにこうしたつらい過去に誇らしい過去を積み重ねた歴史から発せられるのだから。
忘れられない記憶、忘れさせない強烈な事件。熱さと重み。ぼくたち平成初期に生まれた世代の人間は、こうした生の声を聞くことのできる最後の世代なのかもしれない。ならばその声を文字という増幅回路に乗せて後世に伝える義務があるのではないか。何らかの政治的立場を表明しているわけではない。ただ生の現実を生きた人々の当事者意識に、いかに寄り添うことができるか、これがぼくにとって大きな問題なのだ。
当事者意識。かつて小林秀雄はこう述べた。
「子供を失つた母親に、世の中には同じ様な母親が数限りなくゐたと語つてみても無駄だらう」
「類例の増加は、寧ろ一事件の比類の無さをいよいよ確かめさせるに過ぎまい。掛替へのない一事件が、母親の掛替へのない悲しみに均合つてゐる。彼女の眼が曇つてゐるのだらうか。それなら覺めた眼は何を眺めるか」
(小林秀雄『ドストエフスキイの生活』創元社)
覺めた眼は今日、何を眺めるか。ぼくの眼は曇っているのだろうか。それなら曇ったままでいい。あの透明さなど獲得しないままでいい。
4月25日。どんな歴史があろうとも、どんなビッグワードがあろうとも、ぼくは祖母の誕生日を祝福し、これまでの過去を誇りに思いたい。
4件のコメント
私たちの家族は満州で終戦を迎えました。私の父も同じような考えを持っていました。満州で暮らした日本人の中には、このような人が他にもいたと思います。敗戦後の困難な時期を乗り越えられたのは、その人が持つ人間性によるところが大きかったのではないかと思います。戦後1年と2ヶ月後の私が7才の時、親子4人で葫蘆島より日本に引き揚げて来ました。
初めまして。
最近、ちばてつや先生の「ひねもすのたり日記」を読みまして、満州から引き揚げてきたちば氏一家が実家に向かう道中で「引き揚げ者め」という蔑みを受けるシーン、ちば氏の父親がそれを大変みじめに感じ、あと少しで実家という場所から動けなくなったシーンが印象的だったのですが、なぜ、そこまで引き揚げ者が蔑まれるのかピンとこなかったため、ネットで手記などを検索していたところ、こちらの記事を見つけました。
私のようによい年をした人間でも、戦後生まれで、親や親戚からこういう話をあまり聞くことがなかった者には想像がつかないことがたくさんあります。おばあさまのお話を書いてくださってありがとうございます。読めてよかったです。
朝鮮人が日本人の助命嘆願をしたというのは、初めて聞きました。
誰しも美談を作りたい気持ちがあるのは分かりますが、創作のように感じました。
あと、当時の日本軍に関する記載には、多分に情緒的な記述が見られるように思います。
敗戦後も満州に残って治安維持にあたっていた憲兵隊もいたし、ソ連兵に陵辱される日本人女性を助けて銃殺された憲兵もいたことを知っていますか?
その憲兵のご遺族がこの記載を読んだらどう感じるか、そうした点にも配慮された方が良いと思います。
物事を語るには、それなりの勉強が不可欠です。
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