salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

きれいはきたない、きたないはきれい。

2014-12-5
留年の産物ー伝えたい人

..Never seeing no one nice again
..Like you, Mama you, mama you

 春先に「留年報告巡り」というなんともステキな用事で忙しくなった。「留年」という言葉には、どうやら一般的にネガティヴ・センスが孕まれているらしく、発することでシリアスな雰囲気を生み出すこともあったが、そんな雰囲気を味わうことさえひとつの悦びとなったに至る「非常識的余裕さ」を獲得したのも「留年の産物」だ。

 「報告」のトリには、高田馬場で唯一通うことになったバーのマスターを用意していた。

 ところで、「女性経験数と飲酒量によってヒエラルキーを確立している声の大きい学生諸君」と「公共の場で偉ぶることがエチケットとでも勘違いしている徒党を組んだ団塊の世代」を忌み嫌うぼくは、前者の群れが宇和島のねずみ騒動のごとく大量発生している高田馬場を、大学入学以来あまり快くは思わなかった。けれども自分の通う大学が馬場に近い以上それを受け入れざるをえなく、この五年間、何度もこの街にお世話になる始末であった。(かの「女飲・声高学生諸君」は四年間だというのに!)
 あるときこの街を歩いていると、「GLASS ONION」という店の看板が目に付いた。ビートルズの曲名だ。嬉しくなって入店してみると、さらに嬉しいことに、あの「女飲・量的判断学生諸君」がほとんどいない!もちろん「徒党オヤジ軍」もだ!
 その店のマスターの年齢といえば、ぼくの父とほぼ同じ、客の年齢層はそこからマイナス十歳くらいか。皆ユーモア溢れるシニカルな言葉が飛び交うなか、彼らが共通しているのは音楽が好きなこと。ギターを弾きながら酒とたばこを呑むステキなおじさんや、打ち上げだけを楽しみにバンドを組んでるステキなおじさん、何をしているかはわからないけれど、ともかくスーツは着ているステキなおじさん、それから常に笑顔でうなづきつつ、ときに誰も傷つけることのない上品(?)なジョークで笑いをとるステキなマスターと、音楽の話で盛り上がる。もちろん、ステキな音楽が流れるもとで。

 この店のマスターは、やはりトリにふさわしかった。「留年報告」はすぐさま彼の大笑いへと変換された。彼にとっての「留年」という言葉にはポジティヴ・センスが作用したのだ。
(その後、マスターがぼくを他の客に紹介する際、必ず満面の笑みで「留年した五年生」というステキな肩書きをつけてくださることになる)
「ハッハッハ、じゃあ友達いないだろ?毎晩遊びにおいで!」
痛いところをつかれた。というのもぼくは留年せずとも友達がいなかった。こうした「友達いない問題」が暴露された場合、掘り下げていくと必ずや「祐太郎クズ説」に落ち着いてしまう。ならば得意の緊急回避、つまり話題の転換だ。
「友達いないどころか、この前ひとりで初場所見に行きましたよ!」
この緊急回避は、若造に「好角家」のレッテルを貼られることで、物珍しさが先立ち、「じゃあ友達いないのも仕方ないね」的な判断のもと、建前上「クズ説」を隠蔽できるのだ。また同時に、相撲に興味のない人たちへのレクチャーが自動的に開始され、少しだけ優位に立てる。思えば、この店で相撲の話をしたのはこのときが初めてだった。それだけいつも音楽の話やそれに伴って海外の話をしていたのだろう。
 けれどもその日はちょっと違った。このマイナーな話題について、ぼくの数十倍詳しい人物がいたのだ。
 店内では「band on the run」のライブ映像が流れていた。

..If I ever get out of here.
..If I ever get out of here.

「ゆうたろう君はどの力士を応援しているの?」
一緒に入店し、左隣に座っていた姉の席から左にもうひとつ席を挟んだ席に座る人物から質問を投げかけられた。
 彼に対して、勉強不足のぼくには、まだ名前も聞いたことのなかったアーティストのライブによく出かけている音楽好きな方、といった印象を短時間のあいだに持っていた。また「ポールのMCってほんとつまんないよね」とか、「神宮のチケット(当時OUT THERE JAPAN TOUR 2014が予定されていた)なんか、前日に新宿の金券ショップいけば売ってるよ」などと話の入り口がどうも興味深い。さらに、会話の妨げにならない程度につぶやく言葉に、痛みを感じさせない棘があり、それが心地よかった。いま思えば、その棘がさらに会話を弾ませる刺激を与えてくれていたのかもしれない。
「稀勢の里を応援してるんですけど、がっかりし続けてる状況です」
「稀勢の里ってなんであんなダメなんだろうね〜」
その後、彼の愛情溢れる稀勢の里批判から、朝青龍肯定論(これについては相撲人気低迷を憂う視点と横綱審議委員的視点の両方から見ないといけないのでご注意を)、妙義龍評価(多くの日本人はまだ妙義龍のセンスに気づいていない!)へと進み、ぼくの栃東賞賛(彼こそが横綱にふさわしかった!怪我さえなければね)に話題がいくと彼は満足した様子でうなづいてくれた。
 マスターは、「留年」の話題と同じくらい、このマイナーな話題を真剣に語り合うぼくらを見ては大笑いしていた。もはや「わからなさ」が喜劇だったのかもしれない。
「一緒に相撲見に行ったらいいんじゃない?」
このマスターの一言をきっかけに、偉大な好角家はぼくに名刺をくれた。どうやらもの書きをしているらしい。
「ぜひご一緒に、五月場所に行きましょう」
彼はこう言い、店を後にした。

 音楽の話題ではなく、相撲の話題で盛り上がる不思議な時間を過ごし、ぼくらも店を出ると外は雨がふっていた。
 気分が良かったので赤信号を渡った。雨にうたれ、クラクションを鳴らされ、さらに気分がよくなった。うるさい、逃げてやれ、どこまでも、だ。

..Well, the rain exploded
..with a mighty crash
..as we fell into the sun

 約束どおり、五月場所に出かけた。もの書きさんは、奥さんと、彼の著述業における先輩、それから先輩のパートナー、また美人すぎる若き好角家さんと、彼女の背中で眠る相撲観戦歴=年齢というぼくからすれば大先輩の坊やの一団に、ぼくは迎え入れられた。(先輩とそのパートナーは相撲歴でいうとどうやらぼくの後輩になるらしい=坊やよりも後輩になる=不思議なヒエラルキーの完成だ)
 この日の観戦は力士の入待ちからはじまった。国技館の入り口に力士が現れると、入待ちの人々はざわざわしだす。「あ、お相撲さん来た!誰だ?」という言葉が飛び交うのである。実際、いくら身体がでかくともなかなか誰かはわからないものだ。けれども、もの書きさんと奥さんは着物を見ただけで誰かを判別してしまう。さらに、もの書きさんはその力士を本名で呼び、声援をおくるのである。また、彼らは行司(「はっけよい、のこった」という人)や呼出(「に〜し〜/ひが〜し〜」などという人)の場所入りまで見逃さない。なんならまだ階級の低い行事や呼出にまで目をつけているのだ。将来、木村庄之助や秀夫になるであろう彼らに。

 そしてここでぼくは気づいてしまう。友達がいないことの引き換えに、少々相撲に詳しいつもりでいたぼくのくだらないプライドは気持ち良く音をたてて崩壊したことに。ぼくは所詮土俵の上でしか力士を見ていないミーハーなのだ。ぼくに足りない部分、それは彼がもつ眼差し、つまり、力士たる力士を見るのでなく、力士その人の人間性を見る視点だ。
 たしかに、彼と出会い、相撲の話で盛り上がったとはいえ、「なんで相撲を見るようになったの?」という質問から、「へーおじいさんとお父さんが好きだったんだ、ふたりはどんな仕事してるの?」といった具合に、じりじりとぼくの素性が暴かれていった。つまり、彼は相撲の話題をとおしてぼくのことを見てくれたのだ。それは、ぼくに対する興味などではなく、彼のものの見方が、それそのものの歴史や環境に目を向けることにあるのだ。それはそれは、人情味あふれる眼差しだ。

 二階席にうつり、ぼくたち一団は、彼の先輩が用意していた焼酎を片手に、ああだこうだと言い合いながら相撲観戦をはじめた。ところが、取組の最中、彼と奥さんは急に立ち上がり、走り出した。
「琴欧洲いるよ!」
引退して間もない琴欧洲関が二階を堂々と歩いていたのだ。先輩ライターさんに「祐太郎、俺らもおいかけな!」と声をかけてもらい、ぼくらも走り出す。周りの観客は迷惑そうに、あるいは不思議そうにこちらを見る。取組真っ最中、赤信号を渡るいい気分だ。

..And the first one said
..to the second one there
..I hope you’re having fun
..Band on the run
                    
 取組よりもこの一団と、これまでとは違った見方ができたことがなによりも満足だった。焼酎のおかげもあってか、取組についてはほとんど覚えていない。
 この後、「美人すぎる好角家」と彼女の背ですやすや眠る大先輩が抜けた一団は、両国の居酒屋へと移動した。
 もの書きさんとその先輩の職業もあってか、あるいは「それ、なんになるのよ」と非難轟々、罵詈雑言のなか文芸を学んできたぼくの知見の狭さもあってか、自然と本や作家についての話題となる。もの書きさんの先輩とは柄谷行人氏の「探究Ⅰ・Ⅱ」というぼくの周りでは誰も読んでない、俗に言う「売れない本」で盛り上がることになる。もの書きさんは、ちょうどぼくらが相撲で盛り上がった際にマスターが笑っていたように、ぼくと先輩を見ては笑っていた。
 そういえば、ちょうどこのころぼくは柄谷氏の『遊動論』を読んでいた。

 ところで、どのタイミングかは忘れたが、その日、もの書きさんが連載してるコラムなるものを紹介され、ぼくはそのサイトを、これまたどのタイミングかは忘れたが、じっくり読んでみていた。
 どうやら彼は、そのサイトで「四十二才の夏休み」を過ごしているらしく、彼独特の痛みのない心地の良い棘が、その色を変え、さらに彼の眼差しがより人情味あふれる姿となって文章化されているものだった。しかし、その根底に、彼の反骨精神のようなものが見て取れ、いま目の前で優しく接してくれているはずの彼の知られざる素性がおぼろげながらわかったような気がした。けれども、そうしたある種の反骨精神のようなものの姿を、うまく暴き出せずにいた。
 一方、合わせて紹介されたのだが、彼の師匠、中川越さんもこのサイトで「自転車に乗って今日も遠回り」しているらしく、これを読み、どこかに「夏休み」とのつながりを感じた。優しく、滑らかな言葉の旋律が、脳内に響き、しかし、それが神経に伝わるや否や、その「遠回り」が力強く、なによりも意味あるものへと結晶する文章だった。もしかすると、ぼくが出会ったもの書きさん、村瀬航太さんという人物の反骨精神は、「自転車に乗って今日も遠回り」する中川越さん由来のものかもしれない。ぼくが「夏休み」と「遠回り」の根底に見いだすことができたのは、あるいは彼らの意識に通底していたものは、安住への抵抗だ。
 同時にこのサイトには、宮台真司氏や大澤真幸氏などのインタビューもある。この二人に対し、ぼくは震災後を含むこの約二十年間の日本を考える上で重要な「知」を直感していた。もちろん、この「知」が取りこぼしてしまう何かもあろう。けれども、一要素としての「知」をかき集めることと、それら「知」と「知」のあいだを行き来、「遊動」することを渇望していたぼくは、ひとつの「知」の一団を組むこのサイトに言いようのない魅力を感じた。
 それから、このサイトの紹介文である「About salitote」を読み、もうすでに気持ちの整理はついていた。

「この一団にも混ぜてもらいたい」

 相撲観戦の晩、相撲一団にも混ぜてもらいながらも、この欲張りを酔いにまかせて、村瀬さんにぶつけてみる。
「ぼく、さっき紹介していただいたサイトで文章書いてみたいです」
「そっか、じゃあ一度、記事読んで見せて」
やはりどこまでも彼らしい優しい回答だった。

 数日後、ぼくは「あの透明の獲得まえへ」という記事を書いた。村瀬さんはこの記事を推薦文とともにサイト運営者の方へと送ってくれた。

「感想も含めて、一度飲みに行こう」
 その日、「GLASS ONION」に到着すると、店内ではローリングストーンズの曲が流れていた。
 彼の感想はほとんどなかった。そしてぼくもまたそれを想像していた。なぜなら、彼はぼくを「年の離れた友人」と言ってくれたから。それは彼のあの優しい眼差しと、感想という形の「意見」が生む遊びのない関係性を拒む姿勢である(ぼくとしては、生意気なくせに甘えん坊なのでもっと厳しくしていただいたほうが……笑)。
 しかし、一方で彼は絶好調だった。酔いが回りにまわって、呂律が回らなくなった「先生」と呼ばれる別の客が、ぼくらに自慢の一眼レフにおさまる蝶の写真を見せてきた。「きれいですね、これはなんていう蝶々ですか?」とまったくもって遊びのない反応を喉元まで用意していたぼくよりも先に、村瀬さんが口を開いた。
「これ、蛾とどう違うんですか?」
少々言葉の棘が鋭いのではないかと心配になる。しかし、酔っ払いには少々の鋭さでは痛みを感じさせないらしい。
「ハハ、おまえはわかってるな!じゃあおまえ、美人とブスの違いはなんだ」
ぼくが閉口していると、村瀬さんはすぐさま答えた。
「みんながそう言うから。平安時代は瓜実顔が美人と言われていましたからね」
この解答になぜかぼくがすっきりした。それは、この先生の問いに対する気持ちの良い解答であることへのすっきりだけでなく、彼とその師匠たる中川さんの文章に通底する反安住なるものの一角が見て取れたことへのすっきりだ。
 それから、先生ご自身の美人論、ブス論を展開してくださったのだが、ぼくはもはや一言も覚えてはいない。というよりも、凝り固まった持論をもつことなく、その都度、取っては捨て、取っては捨てを繰り返す、半ばそれをもシニカルに捉えつつ、しかし、その取捨という移動、あるいは遊動に目を向ける村瀬さんの姿勢こそがぼくにとって何よりの解答だった。
 ここで、遊動を重んじる凝り固まった持論だね、などと揶揄されるかもしれない。けれども、その程度の詭弁は無視しよう。ぼくらはもうそこにはいやしない。

..Well, the undertaker drew a heavy sigh
..seeing no one else had come,
..And a bell was ringing
..in the village square
..for the rabbits on the run.
..Band on the run

 その後、さりとて一団への申し出の話はトントン拍子に進んでいった。六月のある晴れた日、ぼくと村瀬さんは運営者との待ち合わせの地、二子玉川についた。間もなく溝の口から二子玉川へと自転車でやってきたサイト運営者ととあるカフェに入って、昼食をとった。帰り際、「さりとて、お願いしますね」という一言をいただいた。「さりとて」の言葉の使い方が、すこし、おもしろかった。
 一方で村瀬さんは、「ニコタマの風景が変わった」とすこし寂しそうに、またすこし嬉しそうに、それと、ちょっとだけ子どものように、驚いてみせた。ぼくといえば絵に描いたような綺麗な街並みに、少々肩身の狭いを思いをしていた。運営者はなんだか馴染んでいた。ぼくらはなんとなくバラバラな感じがした。
 それから数ヶ月後、運営者は、別の地へと引っ越した。ぼくらが二子玉川で会うことは、もうなくなった。

Well, the night was falling
as the desert world
began to settle down.
In the town
they’re searching for us everywhere,
but we never will be found.
Band on the run

「先日、中川さんからメールをいただきました。こうたくんと相撲と音楽について書いてみてほしい、と。でも一発勝負は怖いから、最初は友達や家族を犠牲にして、ともかく周りの人について書こうと思います」
 九月場所、先輩のパートナー、若き女性好角家と背中の大先輩は、また別の一団に属しているらしく、ぼくと村瀬さんと、村瀬さんの奥さんと先輩の一団で出かけた際、馬鹿正直に打ち明けてみた。
「周りの人について書くって、すなわちゆうたろう君を書くってことだよね」
村瀬さんは、用意していたかのごとくすぐさまこう答えた。だとすれば「周りの人」がその都度変われば「ゆうたろう君」もその都度変わる。その逆もまた同じことになるだろう。
 ならば「ゆうたろう君」もまた遊動し続けているのだろう。それならきっと、村瀬さんだってそう、さりとて一団だってそう。内部の人も、全体としての集合も、周縁の人々も、すべてが動き続けている。しかし、気づいたときには、安住を強いられてしまっている。

 ここで、遊動という言葉に、円環的なイメージを持ってしまう人がいるのなら、少しだけそのイメージを移動させてみてほしい。螺旋構造のようなイメージに。三次元に広がるように。たとえば四方を壁に囲まれた牢屋から、太陽のもとに逃げ出したとたんに大雨に打たれるように。
 一団という言葉にピンと来ないなら、英訳させてバンドと呼んでみよう。そのバンドは螺旋状に逃げ回るんだ。その螺旋はもちろんイビツだ。
 それでもどこか統率された姿を思い起こしてしまうのならば仕方ない、遊動という言葉も捨ててしまえ。あまり使いたくはないけれど、代わりに逃走とでも呼んでおこう。ぼくらバンドは逃走するんだ。そして互いに逃走し合うんだ。
 それは、上か下かもわからずに。あるいは発展なのかもわからずに、衰退なのかもわからずに。どっちにしたってステキじゃないか。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

3件のコメント

ぼくも高田馬場の大学を留年したのだけど、体育のたった2単位というとても恥ずかしいミス(さぼり)の結果でした。たった2単位の取得のため、10日間だったか、軽井沢でスケート合宿という貴重な体験をさせてもらったのですが、それだけのために1年間を棒に振る。
でも、そんなこと、どうでもいいことでしたね。その大学は卒業か中途か、が決め手で、卒業したやつはろくなやつにならないという伝説がありましたね。だから、留年なんていうのは微差で、問題にすらならなかったのが数十年前。留年したことがものを書くネタになるということに興味津々で拝読いたしました。
こちらは留年はおろか浪人もし、留学もし、同年齢のひとより10年くらい非社会人でしたけど、ふつうに生活しております。ま、現実がろくでもないときって、非現実的に生きるのは当然ながら素敵なことですよ。でも、いっぽうで現実をすりあわせる、という作業もなかなかおもしろいもので、その楽しみに目覚めるときもいつかあると推測いたします。ちょっと酔っぱらいながらのコメントでした。

by umibe - 2014/12/13 9:07 PM

[...] ロウ麻友の紀行「ホームシック・カルチャーショック・言葉の壁は、ロンドンが教えてくれた」や福田祐太郎「留年の産物ー伝えたい人」が更新。 [...]

umibeさんコメントありがとうございます。それから返信が遅れてしまい失礼いたしました。
「現実をすりあわせる」作業のために、これからも勉強を続けていこうと思っています。そしてこの契機があたえられたのも、留年の産物です。
留年のおかげで、お金もかかり、心配もかけています。
だから、これぐらいしなきゃ恩返しはできないなーとも思ってます。
またご感想いただけることを楽しみにしております。

by 留年系男子 - 2014/12/22 1:06 PM

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福田祐太郎
福田祐太郎

ふくだ・ゆうたろう/留年系男子。1991年生まれ。宮城県仙台市出身。ライターとしての一歩目に、大人の道草にまぜてもらいました。大学では文芸を学んできましたが、「それ、なんになるのよ」と非難囂々のなか、この場にたどり着きました。

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