2014-12-25
エロティック・メランコリア
—読書伴奏文
死を迎えた身体が、発酵、腐敗し、悪臭を放ち、他の生物たちの養分と成り果てた姿さえ、すばらしき生の姿、とたたえるほどにまで、ぼくはまだ大きくなれない。それは、眠りについた彼女の冷たい頬が、ぼくに生をあたえるのだから。
かつてランボーはうたった。
またみつけたよ
何を?ー永遠さ
太陽とひとつになった
海のことさ
(アルトゥール・ランボー「永遠」)
(ジョン・エヴァレット・ミレイ作『オフィーリア』)
そしてハムレットは憂鬱だった。
たとえば、中世以来の生理学において、人間の身体には四つの体液が流れており、その均衡によって正常さは保たれる、とされていた。しかし、ハムレットは黒胆汁、すなわちメランコリーの過剰によって苦悩していたのである。
ーーデンマーク王が死んだ。そして王の弟クローディアスは、義姉である王妃ガートルードと結婚し、王位を継承した。ところで王子ハムレットといえば、憂鬱な面持ちでそこにいた。
ここから、いまなお色褪せることのないウィリアム・シェイクスピアの代表作『ハムレット』の物語ははじまる。
父の死とともに母の早すぎる再婚をまえに、沈みこむハムレットは、ある晩、従臣であり親友でもあるホレイショーらとともに、父の亡霊に遭遇し、父の死が叔父のクローディアスによる毒殺であることを聞かされる。それだけではない。母が父の生前より、この叔父と密通していたことも知らされたのだ。かくして、ハムレットは、父の亡霊にクローディアスへの復讐を誓うのである。
ハムレットは復讐のため、あるいはこの秘密のために、狂気を装った。そのため、王や王妃は彼のこの変貌を心配し、またときに怖れた。とりわけ後者、つまり、彼らの怖れはその後、物語の進行とともに肥大していくことにもなる。それは、彼らの秘密が暴かれていることへの自覚と悔恨からくるものだ。
はじめ、ハムレットの狂気は、国務大臣であり、かつクローディアスの息のかかった重臣ボローニアスによって、自身の娘オフィーリアへの恋心ゆえだと認められる。他方で母ガートルードはやはり、父との死別と自身の再婚によるものだと推測していた。いずれにせよ、「狂えるハムレット」像はこうして姿を現していく。
一方、ハムレット自身は、復讐という明確な目的を持っているにもかかわらず、逡巡していた。そしてこの逡巡こそ、悲劇作品『ハムレット』なのだ。この逡巡と復讐への道のりが、この作品を良きにせよ悪しきにせよ有名たらしめている。
「狂えるハムレット」を装う、この「悩めるハムレット」は、その逡巡のうちに、王との勘違いによって国務大臣ボローニアスを刺殺、またその装いゆえに、ハムレットを想うオフィーリアを絶望させ、ついに彼女は真の狂気のうちに歌を歌いながら川で溺死してゆく。
そして、父ボローニアスと妹オフィーリアを失ったレアティーズは、ハムレット同様、ハムレットへの復讐の念を持つことになるのである。
こうして、ハムレットに怯える王クローディアスは、ハムレットを恨むレアティーズと結託し、暗殺を企てた。その計画は、剣術の試合で、レアティーズが持つ剣に毒をぬり、また休憩中にハムレットが飲むであろう酒に毒を入れる、というものであった。
しかし、試合中、汗をかきながらも、次の勝負がつくまでは、と、酒を遠慮する我が息子の代わりにと、母ガートルードがその酒を飲み、死んでいってしまう。そのさなか、レアティーズは毒剣による不意打ちでハムレットに傷を負わせた。ハムレットの体に毒が回らぬあいだ、ふたりは乱闘に入り、そのあいだに剣が入れ替わり、ハムレットはレアティーズに深手を負わせる。
死に際、ガートルートは酒に毒が入っていたことを、レアティーズは剣に毒が塗られていたことを、それぞれ暴露する。それをきいたハムレットはついに、叔父であり王であり、またすべての元凶であるクローディアスにその剣を突き刺し、さらに倒れた彼の口に毒入りの酒を注ぎ込むのであった。
皆が死んでいくなか、ハムレットは親友ホレイショーに、事の顛末を語りついでいってもらうことを約束させ、死んでいき、この物語は終わるのであるーー
逡巡こそ、悲劇作品『ハムレット』なのだ、といった。この逡巡とは、憂鬱の表出だ。ーーテンポよく進めてみよう。この憂鬱の根底にあるものは、「良心」である。けれども、この「良心」という言葉は誤解を招きやすいので、原文の言葉をそのまま引用しよう。すなわちそれは、〈conscience〉である、と。
〈conscience〉は「良心・分別・道義心・善悪の判断力」などと訳される。ーーここで小休止、接頭辞〈con〉は「共に」という意味を持つ。〈sciense〉はご存知のとおり「科学」であるが、原義は「知識」である。「共に」もつ「知識」とでもいっておこうか。いや、こんな説明をしなくとも、〈conscience〉のラテン語源〈conscius〉は「(誰か彼かと何かを)共に知っている」という意味であるのだが。また17世紀の英国では〈conscience〉という言葉に「良心」と「意識」という意味があったそうだ。
ハムレットはいう。
〈Thus conscience does make
cowards of us all〉
「こうして、
思い惑う意識がわれわれすべてを
臆病者にしてしまう」
(野島秀勝訳)
彼はこの独白の台詞の冒頭に、〈To be, or not to be: that is the question〉ーー生きるか死ぬか、それが問題だ(野島秀勝訳)/世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ(坪内逍遥訳)/このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ(小田島雄志訳)ーーと言い放っている。この有名なセリフの真意は、邦訳が示す通り、400年間解釈がさまざまだ。さまざまだとはいっても、大きく二通りにわけることはできる。それは、ハムレットの復讐(他殺)を意味するか、逃避(自殺)を意味するか、と。いずれにしても、能動的な死への意識が見てとれればよいだろう。
ではハムレットはなぜ「思い惑う」のか。生の世界、すなわち現実、あるいは現世での、困難や矛盾、不条理に対して、死は、ぼくらを楽にさせることをハムレットは語っているではないか。だが、問題はその死にある。ここでいう死とは能動的な死である。この能動的な死ーー他殺あるいは自殺ーーは罪をはらむ。死すべき人、クローディアスも、ハムレットも、死という眠りの先に見る夢は、いずれにしても悪夢だろう。なぜなら、彼らは能動的な死を起こした罪人だから。ーー悪夢とは地獄のことだ。
ここで、罪について考えてみよう。それは罪の定義についてではない。罪の意識についてだ。それは、人が罪を意識するとき、そこには〈conscience〉があるのではないか、ということだ。絶対的指標があるわけではなく、また自身のうちで完結するものでもなく、また身近な愛する人が指し示すものでもなく、ぼんやりとした顔のない第三者的存在によって、禁止がなされ、その侵犯によって罪は意識されるのではないか。
たとえば、クリスマスイブとクリスマスの二日を股にかけて、二人の男性と会う約束をしている女性がいるとしよう。彼女を不貞だと断罪することはたやすいけれど、誰がそれを罪と決めたのか。法律だろうか、彼女の父か友人か、未来の旦那か、それとも二人の男性か。なるほど二人の男性なら納得できるが、だとすればこの二人以外は彼女に対して断罪する気などおこりえないはずだ。ここに、この女性に向けられた一般的に共有できる「こうあるべき姿」、あるいは「こうあるべき理想としての女性像」の共有が見てとれないか。〈conscience〉はこうしてあらわれてくる。
実際、ハムレットはまさしく「性」における〈conscience〉のうちに苦悩するのである。母の義弟との結婚は近親相姦の罪にあたり(「聖公会祈禱書」)、また不倫はいうまでもない。
もしも、この〈conscience〉があらゆる人々に完全無欠さを与え、かつ共有・共感されるのであれば、生の世界はなんと明るいことか。ハムレットに憂鬱など無縁であったはずだ。にもかかわらず、ハムレットにとって、一番身近で愛し、愛される女性、母ガートルードがそれを打ち破るのである。それだけでない。彼女は、「悩めるハムレット」を「狂えるハムレット」として認識さえするのである。「共に知っている」、〈conscience〉というものがあるならば、母と息子がこうまでしてわかりあえないことはないのではないか。
たしかに、ガートルードが、亡き父への哀悼の念がハムレットにおいては「格別に見える(seem)」と言ったとき、ハムレットはすでに気づいていただろう。ーーしかも、これは物語の序盤である。
「見えるですって?
いや事実そうなのだ。「見える」とやらはぼくの知ったことではない。
…(中略)…どんな悲しみの形、様子、姿でもない、ぼくの心を本当に表してくれるものは。なるほど、そういうものなら、眼に見える、誰にでもできるお芝居なのだから」
こうしたハムレットの〈conscience〉への絶望は、物語の終盤において、もはやシニカルな希望にさえ転化する。
「美徳がなくても、あるように装えばいいのです
…(中略)…習いは性となり、悪魔を宿すことも、悪魔を追い払うことこともできる不思議な力だからです」
このとき、ハムレットは〈conscience〉を流動的にとらえるだけでなく、人というものを相対化された世界へと放り投げていた。どんな人格も、すべては関係性のなかで決定される。であるからこそ、クローディアスを「叔父なる父」、ガートルードを「叔母なる母」と表現した彼のアイロニーに富んだレトリックは力強く響くのである。
もはや等身大の、ありのままの自分などありもしない。そこにあるのは相対化された世界に見える混沌とした現実のみだ。そしてそれこそがハムレットにとっての世界であった。
ここにおいて、ハムレットの死への憧憬は際立ってくる。それは亡き父に目をむけてみればよい。父の死だけが、母と自分に繋ぐように横たわっている。父の死だけが、彼らのうちに連続を与える。死だけがわかりあえない個々の不連続な存在を連続させるのだ。連続を、融け合う、といってもよい。この連続は、彼らにとっての永遠となる。父を、夫を、本当の意味で殺すことは永遠にできない。永遠に忘れることなどできない。
なるほど、ハムレットはオフィーリアの死後、彼女への愛を告白するのである。オフィーリアの生前、「悩めるハムレット」はあらゆる人々に懐疑の念を向けていた。オフィーリアも例に漏れない。けれども彼女の死は、死ゆえに、ハムレットという存在に彼女との連続性を与えたのである。永遠を与えたのである。
「オフィーリアを愛していた。たとえ幾千幾万の兄があり、
その愛情すべてを寄せ集めたとしても、おれ一人のこの愛には到底、
およぶまい」
一方でオフィーリアはもうすでに、より重要な点をとらえていた。それは彼女の死ぬ直前、狂気のなかで歌を歌い、その後発した言葉である。
「きっとなにもかもうまくいくわ。おたがい辛抱しなければ」
彼女が歌った歌は、卑猥な隠喩を多く含んだ、貞女オフィーリアが歌うにはまさに狂気じみた歌だった。けれども、この卑猥さが重要だった。彼女を貞女たらしめていたのはまさしくかの〈conscience〉である。このため彼女もハムレットも「辛抱」せざるをえなかった。しかし、「辛抱しなければ」、理想の〈conscience〉、個々に境界・結界を持った不連続な存在に、壁を突き破る連続を与えうるかもしれない。とすれば、性における連続は、死における連続の疑似体験なのかもしれない。エロティックな体験が、彼らにかりそめの融合を、かりそめの永遠を、与えることができたのかもしれない。「辛抱しなければ」、「きっとなにもかもうまく」いったのかもしれない。
けれども、オフィーリアはもう死んだ。でも悲しいことはなにもない。もはやエロティックな体験から得られる連続など必要ないのだから。そんな連続など、後にまた不連続を意識させるのだから。
そしてハムレットはいった。
〈But let it be〉
死の先に、どんな夢が待ち受けているのかなど、やはり誰も知る由もない。ならば必要なものはあとひとつだけだ。
「来るべきものは、いま来れば、あとには来ないーーあとで来ないなら、いま来るーーいま来なければ、いつか来るーー覚悟がすべてだ(the readiness is all)」
そしてハムレットは覚悟を決めた。剣術の試合に向けて。これからクローディアス、ガートルード、ハムレット、レアティーズが毒によって死んでいく未来に向けて。
ここでひとつふまえておかねばならないことがある。それは、この全滅の悲劇が描かれる第五幕のはじまり、第一場における、墓掘りとハムレットの会話のなかで、死後の人間の姿、つまり、腐敗し、土に還り、塵と化す人間の姿が語られている、ということだ。着目すべきは、人間の一個体としての姿である死体、輪郭を持った不連続な身体が、その輪郭をあいまいにされる際、水分によって腐敗していくさまだ。この身体は腐敗によって、地面とひとつになり、また新たな生の姿となる。
ハムレットらだけでなく、彼の父も毒によって死んだ。この毒もまた液体だ。ここまでいえば気づく人もいるだろう。オフィーリアもまた溺死という液体によって死んでいくのである。
冒頭にふれた中世来の生理学における四つの体液を思い起こしてほしい。人間の身体というものは、液体によってその均衡を保たれている。しかし、毒という液体でいともたやすく死へと向かってしまう。それから地面に住まう液体によって、その不連続な姿(死体)はぼやけていくのだ。そうして新たな生へとむすびつく。
シェイクスピアは、酒に毒を入れるトリックとして、宝石(真珠)に毒をぬり、それを酒に入れるという方法を選んだ。「宝石(真珠)」の原文は〈union〉、〈union〉という語は「結合・合一/性交」の意味も持つ。
そしてハムレットは死んだ。いや、ハムレットが死んだのではない。あの憂鬱が死んだのだ。ハムレットという個体は破滅した。流動のなかに飲み込まれ、ひとつの流動となった。ここではもはや〈conscience〉などありえないのかもしれない。皆が皆、ひとつの流動であるからだ。皆は連続した。個体がはらむあの憂鬱など、もうどこにもない。
あの憂鬱は死んだのだ。けれどもそれは、連続と化したハムレットのうちにおいてのみ。
そしてハムレットはぼくらの永遠となった。オフィーリアとともに。あの憂鬱とともに。ぼくらのうちで。
覚悟はあるか?ーーないのなら、一挙に流れ込んでくるであろう。あのエロティック・メランコリアが。
4件のコメント
「つまんないな」というタイトルの楽しい愛読書、
絵本を思い出しました。
そして、憂鬱の種類も知りました。
明朗、快活なハムレットの憂鬱。
あるいは、not to be、それへの憧れ。
未来にたゆたうそれへの憧れは、
膨大な過去、一十百千万億兆京… 不可思議そして無量大数の
かなたへのノスタルジーなのかもしれないということ。
またそして、覚悟というロマン。
覚悟もまた、ロマンにすぎないのかという
境地の安穏。
今、憂鬱は、蒼空を後ろにして、
枯れ枝に独りとまる、ふくら雀。
明るさも暗さも激しさも鎮まりもなく、
あらゆるものから遠い、
静かで美しいふくら雀が、
僕の中の正しい憂鬱です。
これらについて、またお話をしましょう。
ハムレットの憂鬱は、「結合のしえなさ」という意識が、
ときにエロティックなものへ、ときにグロテスクなものへの憧憬に向かい、
それでもなお〈be〉の自分というものに、ぶつかっていくところにあるのだと思います。
だから、ハムレットは明朗快活のように振る舞いながら、
しかし孤独で、
「明るさも暗さも激しさも鎮まりもなく、あらゆるものから遠い、静かで美しいふくら雀」の姿を、
私たちに見せてくれるのかもしれません。
「ふくら雀」は、ありのままに世界を眺め、
生々しい現実に悶えるハムレットであり、
そこに「生きた時代の本質」を見るシェイクスピアであり、
「きれいはきたない、きたないはきれい」の世界を見つめる眼差しそのものだと思います。
またたくさんお話できることを楽しみにしてます!
妻はどうしても聞きたいという
聞こえるはずのないわたしの耳鳴りを
(高橋喜久晴 詩集『見知らぬ魚』「耳鳴り」より)
そうして妻は虚無を抱きしめる。きっとオフィーリアも聞こうとしていただろう。ハムレットの内に響く耳鳴りを。
聞こえなかったら どうしよう
聞こえなかったら-
だから おまえは嘘に死を賭けた
人間の生は嘘で塗り固められていると言えるかもしれない。私が何かを言おうとして沈黙したとしても、その選択は私だけの秘密になる。聖堂にて僧がヨーゼフKに放った言葉が思い出される。
「すべてを真実だと思う必要はないのです。ただそれを必然だと思えばよいのです。」(カフカ『審判』)
ハムレットは性を通して、そしてついには死をもって生の世界の連続にかりそめでも生きようとした。それは「必然」というかたちでしかありえないと知ったからだろうか。
わたしは黙っておまえを抱く
・・・
狂おしいお前の嘘に
私は耐え
誰にも聞こえぬ激しいこの耳鳴りに
わたしは耐える
エロティックな体験は、耳鳴りが聞こえないという事実を残酷につきつけます。聞こえないという事実はむろん必然です。しかし、なかなかこの必然を必然として受け入れることは難しい。エロティック・メランコリアはそうして流れ込むのかもしれません。
「見たまえ これら 存在しない人々の群れが 押し合い へし合いしているさまを。斜めに突き出したり 組み合わせたりしている このおびただしい腕を。踵を接するばかりのこのおびただしい足を! いうまでもなく、みんな燕尾服を一着に及んで! ぼくたちはうきうきと歩く。風が ぼくたち同士のあいだ、ぼくたちの手足の間にできた隙間を 吹き抜ける。みんなののどはこの山地ではからりと晴れる! ぼくたちが歌い出さないのは これはおどろきだぜ」
(カフカ『観察』「山地へのピクニック」)
メランコリーは「風」となり、ディオニュソスを殺しにかかるのです。
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