salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

きれいはきたない、きたないはきれい。

2015-07-5
主観的、あまりに主観的I

「アンタんとこの学生の娘さんもね、ついこの前までこのあたりで働いてたんよ」

「へ?東京の学生なのに?なんでこんなところで?」

「詳しい事情なんてみんな知らんサ。ただ一年ここで働いて、人生リセット。そういう娘、昔から多いんよ」

「その後、どうなるんでしょうね」

「ある娘はお金持ちと結婚して、今じゃ高ーいマンションに住んどるって聞いたよ」

「ならイイね」

「良いんだか悪いんだか・・・」

「そういうお店って、やっぱり米軍の人も来るんですか?」

「そりゃあ来るさー。もうずーっと・・・ここらじゃみんな頼りっきりよ」

「でもさ、基地の間に大きい道路一本しかなくて、夕方だからかもしれないけどずっと渋滞してるし、しかも真上めちゃくちゃ飛行機通っててうるさいし危ないじゃん!これどうにかしないと・・・」

「あのネ、アタシたちだって基地はないほうがいいに決まってる。でもネ、いますぐなくなったとして、どうするヨ?食べていけなくなるヨ?」

「チョット待って。この前の選挙、オナガさん勝ったけど、アレは?」

「あのネ、お兄ちゃん。騙されないで。あの選挙・・あのオールオキナワがどうって話、あれは”空気”だったの。一時のふわーっとした”空気”だったの。騙されなちゃイケナイよ」

「そういう意見も、その反対の意見もよく耳にしますけど・・」

「ここらじゃみーんな移設に賛成だったの。だってほら、建設の人も、飲み屋の人も、ウチのようなとこも、どうするの?いつ食べていけなくなるか・・お兄ちゃん、騙されちゃダメよ」

 今年1月、卒業旅行と称した沖縄取材旅行でのこと。昨年11月の沖縄県知事選を受け、多くの有識者の意見を見聞きした。それらはあまりに多様かつ複雑で、知れば知るほど根が深い問題だった。
 正直、このまま基地をなくして、仮に中国に奪われたとしても、少なくともそれが日本国内で民主主義のプロセスを踏んでからのことならば、致し方のないことだろう、などと無責任なことまで考えていた。

 それがあるとき、中村卓哉さんという水中カメラマンとの出会いをきっかけに変わった。そのとき見せていただいた写真はパプア・ニューギニアの海を撮ったものだったのだが、彼から聞いた沖縄の海の話や山の話には強く惹きつけられた。実際に現地に足を運んだ人間から、それも直接聞いた言葉には重みがあった。そしてぼくは当たり前のことを当たり前に思った。

 現地のことは現地に行くまでわからない。

 東京で少しばかり頭でっかちになっていた自分を恥じた。沖縄に行き、沖縄の人の声を聞いてみたい。
 思えば、震災を経験した自分は常に当事者としてその後の復興関連の情報にあたってきた。そして同時に傍観者たちをシニカルに眺めてきた。それが今や、沖縄の人からしてみれば自分が傍観者になりつつある。それが許せなかった。

 上の会話は普天間基地の近くで暮らし、働く年配の女性とのものだ。特定されてしまうのも申し訳ないのであえて詳しくは書けないが、その地域のアングラな情報に詳しい方だったこともあり、ぼくの通っていた大学の学生が一年間休学し、基地近くの風俗店で働いて資金を蓄え復学したという話を聞かされた。
 また政治に関してもアツく語ってくれた。彼女の意見は、まさに当事者としての意見だろう。ここで当否は問題としていない。現地の人が何を考え、どう生きているか、それだけで十分なのだ。難しい話はまた後で考ればいい。

 翌日、ある島の砂浜でしばらく横になっていた。空には時折、米粒ぐらいの大きさで飛行機が通りすぎ、その下では鳥が飛んでいた。視界の端では、ボールが行き来している。近くで親子がキャッチボールをしていたのだ。ともかく、このあたりはあの政治的な喧騒とは無縁のような場所だった。

 沖縄で読もうと決めていた本を取り出し、あの一節をもう一度読み返す。

「これまでずっと、いつだって、僕はこの白っぽい起伏に包まれていたのだ。
 血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い」

「限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った」

 波音に包まれた中で一通り読み進め、思考は断片的に大きなものを捉えていた。次のさりとての記事ではこの大きなものを抽象するか、しないか。答えは決まっていた。波音のように断片的に書こう。読みづらくとも、この断片的なものこそが、自分が捉えた景色を映したガラスのようなものだった。限りなく透明に近いもの、すなわちどこまでも不透明なもの。あの透明の獲得まえの景色を書こう。

 それからしばらく経ち、喉が渇いてきたので近くの売店に立ち寄った。
 これまで様々な場所へ旅行をしてきたが、自分にも、友達にも、そして恋人にもお土産など買ったことがなかった。ただし、どこへ行っても決まって母にだけは旅行先のポストカードを買っていた。しかも、しっかりとした店構えの場所では買わず、小さなお店の、しかも隅っこにおまけのようにとりあえず売られているだけのポストカード。そして今回も例にもれず、気分で立ち寄ったこのお店でポストカードを買うことに決めた。
 ここには「ジュゴンの岩」と題されたポストカードが置かれていた。そういえば、基地移設反対者の中にはジュゴンがどうのこうのと意見している人もいたな・・・。このお店で働くお姉さんにでも聞いてみよう。

「この岩って、なんでジュゴンって名前ついてるんですか」

「似てるから、って言われてますね」

「へー・・このあたりってジュゴンいるんですか」

「いる・・・って言われてる、かな」

「そうなんですね。これだけ綺麗な海ですもんね・・・
 ジュゴンって、やっぱり見たことある人、少ないんですか?」

「そうですね〜・・・私は見たことないなぁ。ただ、いる、って昔から言われてるんですよね」

「ふーん。この綺麗な海、イコール、ジュゴンっていう意味だったりしてね」

「うんうん。シンボル・・的な」

「シンボルかぁ・・ステキですね、そういうの・・・
 ちなみに、辺野古のほうならいるんですか?」

「うーん。こことあまり変わらないんじゃないかしら」

「そうなんですね・・・まあ、難しい話は抜きに、ぼくはこの島、のどかで、綺麗で、すごく好きになりました。またゆっくり来ますね。ありがとうございました」

「こちらこそ。あ、お兄さん、これもよかったらどうぞ。私も難しい話はわからないけれど、私もこの島、この海が大好きで、ずっとここにいるんです。また遊びに来てくださいね」

 彼女はそう言ってまた別のポストカードもくれた。夕暮れ時の海辺の写真だった。外に出ると、ちょうどそんな景色が広がっていた。

「難しい話はわからないけれど、この海が大好き」

 ぼくもまた、難しい話はわからないけれど、彼女の声を最後の最後まで全肯定したいと思った。
 あえて難しい話をほんのチョットだけ考えてみれば、当然、こうした声は「国防」の論理にいともたやすく退けられるだろう。そしてぼくはそれでいいとさえ思っている。

 こうした声を最後の最後まで全肯定したいと思う、彼女とぼくの主観的、あまりに主観的な考えは考えとして。


(撮影:見上徹)

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福田祐太郎
福田祐太郎

ふくだ・ゆうたろう/留年系男子。1991年生まれ。宮城県仙台市出身。ライターとしての一歩目に、大人の道草にまぜてもらいました。大学では文芸を学んできましたが、「それ、なんになるのよ」と非難囂々のなか、この場にたどり着きました。

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