2015-03-25
目くじら立てて、ため息
—マトリョーシカ・ジャーナリズム
昨年の3月31日、国際司法裁判所は、日本の南極海における調査捕鯨を認めないとの判決を下した。その理由は、日本が行う「調査」捕鯨は、事実上「商業」捕鯨であり、したがって「調査」捕鯨としては認められない、というものだ。
捕鯨問題に関して、いま一度ここで言っておきたいことがある。
もうすでに、捕鯨問題は、重ね着に重ね着を重ねている。すなわち、問題に問題がまとわりつき、問題が問題でなくなり、問題ではないところで問題となっている問題なのだ。
つまるところ、”捕鯨問題”問題、が蔓延している。
そして世間では、重ね着姿への言及、議論ばかりがなされている。誰もそれを脱がそうとはしない。
思わず、ため息が出るほどだ。
たしかに、ぼくだってクジラについて思うところはある。
たとえばぼくの父や母は、むかし給食でクジラの竜田揚げをよく食べていたと話していたことがある。ぼくもまた、給食でそれを何度か食べたことがある。
また亡き伯父は、生前、寿司屋に行くと必ずクジラを食べていた。幼いながらも、ぼくも真似して食べたものだ。
美味しいとか不味いとかの話ではない。
それとは別に、愛着や思い出が少なからずある。日本の文化だ、と言われれば、たしかにそうだと思う。いや、事実そうなのだ。
歴史を見ればわかることだが、日本はもともとクジラを食すだけでなく、信仰や祭礼の対象とさえしてきた。またクジラ工芸品やクジラ唄のような文化にも関わりがある。日本人にとって、切っても切れない関係であることは、いまさら言うまでもないだろう。
鯨食文化、これは縄文・弥生時代から連綿と続いてきた、大切なひとつの文化なのだ。
他方で、諸外国は近代になって以来、クジラからとれる油、つまり鯨油をエネルギー資源として採用していた。それにより、鎖国中の日本ではできない遠洋捕鯨によって、あちこちで盛んに捕鯨が行われた。かの有名な小説、ハーマン・メルヴィルによる『白鯨』も、こうした背景から生まれたのである。また、黒船・ペリー来航も、「捕鯨」という観点から説明することさえできるのだ。
そんな中、アメリカ・ノルウェー・オーストラリアは次第に、鯨油目的の捕鯨を大規模に行っていく。これによって絶滅寸前にまで瀕した種もいたそうだ。
しかも、日本とは異なり、彼らは鯨油などの資源以外はクジラを必要としない、つまり、油をとって残りは捨てるだけ。さらに、鯨油そのものの必要がなくなれば、御役御免、となるだけではなく、捕鯨を続ける我が日本国をも非難し始める。
また現在、オーストラリアの反発が強い理由に、ホエールウォッチングによる観光資源としてのクジラを保護したい、との経済的な思惑もあるとも言われている。また国内での反捕鯨の盛り上がりに迎合する政治家もいるそうだ。
近代における産業の発展のため、鯨油だけをとってはまるごと捨てて、さらに絶滅寸前まで追い込んでおきながら、効率の良い別の資源を見つけた途端に、さようなら。すると突然、捕鯨そのものを否定し始め、そして他の捕鯨国を非難する。自国の経済事情や国内情勢も考慮に入れて・・・。
ジャイアンだって、もう少し優しい。
とはいえ、クジラ(やイルカ)は高い知能を有し、人間と同じように痛みを感じ、また殺されることを理解できる動物だ、と言われている。
たしかに、こうした鯨類への人道的な配慮に、国際世論は動きつつある。また日本だって、それ以前より、国際的な捕鯨規制などを取り決める「国際捕鯨委員会(IWC)」に加盟している。これによって、日本も「商業」捕鯨を規制する一方、さらなる科学的調査としての「調査」捕鯨を始めることにもなった。
ところで、こうした「クジラって頭が良いよね」的なイメージ(これを「鯨類デキスギ説」と呼ぼう)には、科学的にどんな根拠があるのだろうか。
たとえば、鯨類は音声によるコミュニケーションを用いている。ただし、その発音(言葉?)と意味との関係や、体系的な言語を持つのか、あるいはそうした言語のようなもので実際に会話が成立しているのかは証明されていない。しかしながら、この音声コミュニケーションの存在によって、多くの人々が「頭が良い」といまだに言っているのも事実だ。
だが、それ以上に「鯨類デキスギ説」に大きな影響を与えたのが、アメリカの脳科学者、ジョン・C・リリーの研究である。
彼の主な研究はイルカ研究である。それは、彼が培ってきた知識から打ち立てた「イルカは高知能を有する」といった仮説をもとに始めたものである。
しかし、その仮説には
・脳の大きさ
・抽象化能力の高さ(ヒト・チンパンジーの脳の部分的な違いから大雑把な断定をしている)
また、
・大脳皮質の細胞密度(『人間とイルカ』)
といった、現代の脳科学では否定されるような根拠がならぶ(もちろん、時代的にこれはしょうがないことだ)。
その後、リリーの研究は、LSDの使用や神秘主義的思想に向かっていき、マッドサイエンティストと呼ばれるにいたる。幸か不幸か、それがニューエイジやカウンターカルチャーへと結びつき、彼の仮説はカルト的な支持を得て、「鯨類デキスギ説」は一人歩きしていくことになった。実際に、彼の研究や研究所、またそのスタッフなどの全体を指して、「カルト宗教」と揶揄する人もいる。
こうした起源を持つ「鯨類デキスギ説」は、その後に有意義な研究もあったのだろうが、リリーによって負の印象を与えた側面は大いにある。
また事実として、「鯨類デキスギ説」はいまだに科学的に何ら実証されてはいない。
たしかに、科学はロマンがなければ進歩はない、が、仮説の段階で社会システムまでをも変える必要はあるのか。
もちろん、変えないことで100年後、笑われることもあろう。そして仮説をうたった人間が賞賛されることもあろう。歴史上に名を残してきた科学者たちが、たいていはじめは否定されたように。
しかしながら、そもそも論、である。
高知能を有する生物と、殺生に、どんな関係があるのだろうか。頭が良いから殺しちゃダメ、頭が悪いやつなら殺してもイイ・・・そんな論理がまかり通るはずもない。
ではそこにどんな線引きが可能だろうか。
肉食忌避と菜食主義、そしてカニバリズムについて少々学んだぼくが半年かけて出したひとつの答えは、時代・地域性をはらむ流動的な倫理(宗教)観でしかない、ということだった(半年間かけてこれしか捻りだせないほど、考えれば考えるだけキリがないことなのだ。そしてその経過は大事なものだったが、ざっくり割愛させてもらった)。
とすれば、反捕鯨の人々が主流になったとき、日本人は諦めることしかできないのかもしれない。それがその時代や地域の「倫理(宗教)観」であるならば。
でもだからこそ、日本は調査をし、科学的見地からそれを覆さなければならないのだろう。
(撮影:見上徹 by iPhone)
と、ここまで、ぼくの「思うところ」を散々言ってきた。が、これこそが、”捕鯨問題”問題なのだ。実を言うと、こんなことはどうでもいい話なのである。残念、忘れてちょうだい。
この捕鯨問題というものは、冒頭に挙げた判決の通り、調査捕鯨が、調査捕鯨じゃなかったことが問題だったのだ、ということを遠回りではあったが、ようやくここで言わせてもらおう。
実際に調査捕鯨に出向いていた方々には、シーシェパードの暴力的な妨害の中、命を懸けて本当によく頑張っていただいたことを、改めて感謝しなければならない。
だがしかし、日本にも落ち度があったことも同時に認めなければいけない。
では、日本の落ち度とはいかなるものか。それは、皮肉なことに、捕獲数が少なかったのである。
これは実におもしろい話である。いってみれば、
「絶滅するかもしれないから調査のためにクジラを殺す日本」を非難する側の人々が、
「日本の調査捕鯨はクジラの殺す数が少なすぎじゃないか」と非難した、
という話だ。・・・世界とは、逆説である、と哲学者風に言ってみたくなる。
捕獲数の設定は、もちろん科学的調査に必要な数として取り決められていた。それに対して、設定数に満たないよね=科学的な結果は得られないよね=科学的調査とは呼べないよね、的な連想をしてもらえばわかるだろう。
また、調査目的で捕獲したクジラは、IWCの規定に則り、国内で流通させていた(これに対して「商業目的じゃないか!」とか言っちゃうのはトンチンカンだから気をつけてね、IWCが売って食っていいって決めてるの、もう)。
だが、日本も日本で、鯨食文化だなんだとかいいつつ、かなりの在庫が余っていたのも事実。こうした背景から、調査捕鯨の捕獲数の少なさは、在庫管理と関係しているのでは、と諸外国に疑われてしまった。つまり、流通量と在庫量を見て、捕獲数を抑えているのでは・・・?という疑いだ。
もしそれが本当なら、「調査」を隠れ蓑にした「商業」捕鯨ではないのか、と言われても致し方がないだろう(ここで初めて「商業目的じゃないか!」と声を大にして言いましょう)。
※日本国は裁判において、捕獲数の少なさの原因はシーシェパードによる妨害だ、としたが、判決ではそれが認められなかった。逆を言えば、原因は流通目的・在庫管理であり、したがって日本は商業捕鯨をしていた、との印象を世界に与えてしまった、ということだ。ならばこれを一度受け入れ、今後是正していくほかないだろう。
だが、流通量や在庫状況からもわかる通り、残念ながら、日本の鯨食文化は衰退しつつある、ということが言える。
その理由として、たしかに、近代以来の諸外国による鯨油のためのクジラの乱獲から、その反省による規制の波に、日本の捕鯨文化がさらわれた、ということがあげられる。だが、これはあくまでも外的な要因でしかない。
もし、この外的要因に打ち砕かれないほどの「クジラ愛」を持った人々が多かったのなら、多少値段が高くとも、また場所的な限定があろうとも、クジラを求め、食べ続けたはずだ(少なくとも、亡き伯父は、フリーマーケットでの売上金をはたいてまで寿司屋でクジラを食べていた!)。
そしたら需要も増加し、供給量と釣り合って、鯨食文化を守るのだと胸を張って海外に知らしめられる。現状ではその説得力がない。だって、「獲ってもそんな食ってないじゃんおまえら」状態なのだから。
実際に、鯨食文化の衰退を危惧した捕鯨業界は、国際的に商業捕鯨を規制せざるを得なくなった状況の中で、某広告会社にPR戦略を依頼したという。
その内容は、反捕鯨国による「可愛くて頭の良いクジラを食べる日本人は野蛮だ!」というキャンペーンを、「印象操作だ」とひろく国内の人々に植え付けること。それから、こうした「不当な圧力をはねのけて、日本人の伝統的な食習慣を守れ」と国民のナショナリズム感情に訴えかけよう、というものだった。
たしかに、これによって、食文化としての鯨食を守ることができればよかった。もちろん、純粋に守ろうとする人々も多くいる。けれども、現状を見ると少し様子が違う、とぼくは思う。
本来、内側へと向かうベクトルが、確実に外側へと向いているように感じるのだ。
誇りを守るのではなく、ルサンチマン思想にとらわれ、愛国精神ではなく、どこかと敵対しようとする、そんな余裕のなさしか目に映らない。もともと、これらは表裏一体なのかもしれないが、ぼくはその比重を言っている。
つまり、もう視線の先には、クジラはいない。
現状を見れば、経済事情による政治的意図によって争点化された捕鯨問題の外側で、意味もなくナショナリズムがぶつかり合っている。これは不毛な議論というほかない。
その眼差しの先は、もはや捕鯨問題ではない。”捕鯨問題”問題だ。
だから、着膨れしてしまったあいつの服を脱がしてやれ。重ね着に重ね着を重ねた彼女を、もう一度、裸にしてやってくれ。
問題に問題がまとわりつき、問題が問題でなくなり、問題ではないところで問題となっている問題を前に、やはりため息しか出ないのだから。ホゲぇ、つって。
シーシェパード、次はマグロだってよ。
(前から言ってたけどね)
4件のコメント
豚肉おいしいです 牛肉おいしいです ジンギスカンもおいしい ペットの豚はかわいいです 子牛の畜産農家の子牛もかわいい そしてヒツジはもちろんかわいいのです クジラはそんなにおいしいと思ったことはないし本物を見たこともないけれどかわいいのでしょう イルカもクジラなら見たことはありますが ぼくはこのふたつの実感を持ちながら生きてきました ある画家は牛だったか豚だったかを擬人化し 人間を家畜化した絵を描きました 豚か牛が人間をステーキにして食べる絵です 私はそういうことをしているという実感を持ちながら獰猛に生きています けれど養豚場でとんかつを食べたり 牧場で牛や羊を見ながら焼肉をしたり マグロの解体ショーに興じたりはしません 大食い競争も嫌いです とはいえ釣りは面白い 矛盾に満ちた自分を解決することなしに過ごしてきました かすかな答えらしきもといえば 獰猛を認め獰猛を恥じる ということぐらいしかありません 人間界にしか通じない反省であります
以前スイス人のお兄さんに、
「いただきます」という言葉を教えました。
「仏教思想ですか?」と訊かれ、
「さあ・・」と答えると、
一緒にいたイギリス人の女性が、
「生き物と、作ってくれた人への感謝の気持ち、
それから、さあ食事を楽しもう、っていう意味よ」と、
解説してくれました。
すると彼は納得した様子で、
「イタラキマスク!」と、
ドイツ語らしい発音で真似てくれました。
その後も彼は、食事の度に、
「イタラキマスク!」と、
手を合わせて言うようになりました。
「いただきます(イタラキマスク)」は、
人間界にしか通じない言葉だと思いました。
捕鯨問題をあげるときに、捕鯨反対の理由に「可哀想だから」とか「頭がいいから」とか言ってる人って本当に居るんでしょうか。
むしろ、その批判しやすさからか、批判するときにしか使われていない気がします。
usako様
コメントありがとうございます。
同感いたしました。
usako様のおっしゃるように、
”その批判しやすさ”ゆえに、”捕鯨反対の理由に「可哀想だから」とか「頭がいいから」とか言ってる人”を、
顔の見えない敵として設定した、という側面はあると思います。といいますか、本文中にも書いたとおり、某広告会社のPR戦略はまさにそうした思惑からくるものですね。
ところでぼくは、そうした「反対理由」をあげて”その批判しやすさ”ゆえに批判するためにこの記事を書いたわけではもちろんなく、むしろそのような議論は「不毛な議論」だとして斥けたわけですが・・・。
またコメント欄にてご意見いただけることを楽しみにしております。
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