salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

きれいはきたない、きたないはきれい。

2014-11-25
見上先生の眼—伝えたい人

 見上先生は小学生のころ、家の近くの路上でとある実験を行った。ガソリンだか灯油だかよくはおぼえてないが、線状に怪しい液体を垂らしていき、端からライターで火をつけたのだ。すると間もなく火はその線上を駆け抜けて行った。あのときの、こちらから遠ざかっていく光の運動は、いまもなおぼくの網膜に焼き付いている。そして十年以上経ったいま、彼はそれを「忘れた」というのである。

 彼はひとりの科学者だった。小学生には考えもつかない実験のようなものをし、また学校では学べないような知識を常日頃より蓄積させ、ことあるごとに「〜博士」という称号を与えられていた。それは、彼の飽くなき探究心・知的好奇心からくるものだった。彼は、科学をどこか人間離れしたマジックのようにとらえていたのかもしれない。ものごとの原理さえつかんでしまえば最後、彼は上にあげたような少々の危険などは気にせず、子どもがおぼえたてのマジックで遊ぶように、科学の実験をしてしまうのだ。

 さて、彼はまた別の科学者でもあった。それは探究心・知的好奇心とは別に、彼の身体に根ざしたものからくる。身体の限界点を自認し、しかしその延長線上に科学を求めていたのである。これは科学の発展を考えるうえで、ごく当たりまえのことかもしれない。けれども、この当たりまえのことを当たりまえのこととしてやり過ごさないセンスを彼は持っていたのだ。
 彼が、この科学者としての顔を見せはじめたのは、高校に入ってからのこと、カメラ、それからオーディオ機器、またバイクへの関心が向いてからだ。趣味、と片付けてしまうのならば、少々ありきたりなことどもかもしれない。事実、彼はこれらを趣味としてその入口に立ったのだろう。
 しかし、彼の根本には、若かりし頃の知的好奇心旺盛な科学者としての姿もあることを忘れてはならない。
 たとえば、彼がオーディオ機器に惹かれるとき、大前提として物理学の論理が背後にある。もちろん彼の知的好奇心は物理学だけにはとどまらないが、このオーディオ機器に対しては物理学への関心が顕著にあらわれたのだ。
 こうした科学的なアプローチが、それゆえに身体の限界点へと結びつく。たとえば、音声波形を数値化させたデジタルデータとナマの音との一致のしえなさを認めたうえで、にもかかわらず、人間の可聴周波数帯を越えた音さえもひろうデータファイルやそれをより高い音質で流すヘッドフォン、またアンプに彼は魅了され、惜しみなくお金を費やす始末だ。それは、耳には聞こえながらも、脳がそれを感知していないとでもいうような音を求める彼の姿勢なのだ。
 ここまでいえば、彼がなぜカメラやバイクの虜となるかわかるだろう。これらが「目」や「足」の限界、つまり、「見ること」や「移動」の限界点の延長線上にさらに一歩踏み出ようとするものだからだ。
 一方で、そうであるからこそ、iPhone6という、手の平サイズを離れつつある、また(洋服を身体の延長ととらえるならば)ズボンのポケットからはみ出つつあるデバイスが世に出た今、彼はAppleに失望したのだろう。延長線の先に断絶があるならば、彼はそれを是としないのだ。

 つまるところ、彼の知的好奇心の挫折=身体の限界点の見極めは、暗く明るい。その超克が指し示すものがそうであるように。
 見上先生と科学との関係は脆く繊細だ。この脆く繊細な関係が、彼が大学に入り、またその後も続けることとなった「写真」において昇華されたことを、いま友人を代表して祝福したい。

 かつてロダンはこうした言葉をもらしたという。
「芸術家こそ真実を告げているのであって、嘘をついているのは写真の方なのです。というのは、現実においては時間が止まることはないからです」
このときロダンには、とある「注意」が背景にあったことを忘れてはいけない。つまり、「瞬間的な視象、不安定な姿勢は運動を石化してしまう、——競技者が永遠に凍りついてしまっているような多くの写真がそれを示しているではないか」というものだ。(M. メルロ=ポンティ「眼と精神」)

 祝福の冒頭にしては、少々縁起の良くない引用文をおいてしまった。実際これから、「芸術家」、あるいは絵画を誉めそやす用意はある、が、縁起の悪さはここまでとしようか——いや、ちょっと待て。

 かつて、絵画において、いち手法たる遠近法なるものが完成形としてもてはやされた時代があった。たしかに、ぼくらの視覚はそう見えるのだから、それが完成形で何が悪い。
 たとえばいまぼくはノート型パソコンを前にああだこうだと文章を書いたり、消したりしている。そしてこのパソコン画面の後ろには、小説『人のセックスを笑うな』が置いてあることをぼくは知っている(先日再読し、ぶん投げたままだったからだ)。画面を閉じれば、その向こうにある本をいつでも取ることができる。
 事態を単純にしてみよう。ここで見えているものは、パソコン本体と右手にあるコーヒーカップ、それから奥の壁に立てかけてあるギターケースだけだ。となれば画面の後ろにあるはずの『人のセックスを笑うな』は、想像、あるいは思考のうちにあらわれたものでしかない。いいかえれば、視覚の奥行きと思考は有機的に関連しあっているのである——パソコン→(小説)→ギターケースというように、(小説)、つまりは「間」をとらえ、またこれを想像のうちで担保してやる。そうだとすれば、「見ること」を考えるとは、視覚と思考の連鎖をときほぐしてやることなのだ。
 この解体作業はきっとこの先、物質と精神を抽出するだろう。視覚がとらえるただモノがあふれる物質世界、そして思考のうちで興る精神世界といったような。このとき、遠近法は物質世界をぼくらの目に映し出させる。ならばあとはみんな好きなだけ、思い思いに考えてごらんなさい、「みんなちがって、みんないい」、あなただけの精神世界。ああ、なんてステキな……。

 けれども、縁起の良くない引用文、これを与えてくれたメルロ=ポンティは、たとえば林檎の輪郭、それから畑と草原の境界線を例に出す。輪郭と境界線はそのモノの「限界を劃するもの」だ。たしかに林檎の輪郭の線の外は林檎じゃない。畑と草原が区切られているのであれば、畑がわを草原だということはないだろう。考えればわかるコト。しかしながら、メルロ=ポンティはこう言うのである。
「林檎や草原はまるで空間に先立つ背後世界から来でもするように、〈見えるもの〉のうちに降臨する」
と。つまり、おのれ自身から形を引き出して、「おのれを形にする」のだ、と。
 どういうことか。林檎を机に置いて眺めてみればいい。そのあと手に取り、ぐるりとゆっくり眺めてみればいい。目に映る机の上の林檎の輪郭の線は、手にとった林檎の輪郭と一致しただろうか。もちろんするわけがないだろう。要するにメルロ=ポンティは、机の林檎を林檎足らしめる輪郭の「線」への人間の視覚、感覚の無意識を、林檎が「おのれを形にする」といった言葉で表現したのだ。これを視覚における無意識の発見ともいえよう。林檎、そのもの自体とやらは、ぼくらの目に映る林檎の姿ではない。
 こうしてみると、残念ながら先のステキな話は忘れていただくことになろう。視覚と思考は切っても切れない癒着状態にあるのだから。メルロ=ポンティに言わせれば、物質世界さえ、視覚における無意識のうちにあり、かつ、精神世界さえ、「おのれを形にする」モノの世界のうちにあるのだから——視覚が林檎の輪郭線を無意識的に抽出するように、また視覚が抽出しているかに見える線が、実は林檎が視覚にそう見せるよう、仕向けているように。
 どちらの世界も、片方を照らしてやれば、もう片方は翳っていく。人間の「眼」は、暗く明るい。
 
 本来、大雑把に言ってしまえば写真とは遠近法的描写である。となれば写真自体が眼の限界点そのものをあらわし続けているのではないだろうか。とすれば、視覚の無意識の、また「おのれを形にする」ことの限界をこえる表現など、どうしてできよう。
 またロダンの「注意」は、だからこそ「芸術家」(画家や彫刻家)を賞賛したのだろう。また彼のいうように、写真には時間的限界もある(空間的限界についてはもはや言うまでもない)。彼が放った「石化」という言葉も、あの「線」にほかならないのである。つまり、ぼくなりにわかりやすく言えば写真は「固定化」させるものなのだ。

 しかし、こうした限界点に生きるのが見上先生だ。それは彼がオーディオ機器に没頭したとき、耳には入ってきているはずなのに脳が感知しえない音を求めたように、写真にもそれを求めたのだ。「おのれを形にする」何か、視覚のうちに入り込んでいる何か、けれども「見えない」何か、「見させない」何か。少々安っぽい言葉でいえば、「目にとめながら、心にとめていなかった」何か。彼はこれを求めた。
 だからこそ、彼の写真はごくありふれた日常を舞台とする。その日常のなかで、普段の生活ではきっと「線」すら抽出されない何かを、あるいは「おのれが形に」してもこないような何かを求めるのだ。また、視覚はそうした「線」の形態には抽出しないであろう見え方を、あるいは「おのれ」はそうした形にはしないであろう見え方を求めるのである。このとき、写真はぼくらの眼に、また別の日常(Alternative Days)を映し出すことになる。
 いってみれば反逆の石化だ。見上先生の眼は、視覚の限界も、写真の限界も、いまや自認している。その限界点を逆手にとって、しかし、試みはその延長線上に、ちょうどこどものころそうしたように、片端から火をつけてやるのである。だが彼の眼はこの火の運動を見ていない。彼が見つめるのはきっと火が通り過ぎた痕であり、いままさに燃えようと、あるいは消えようとする火の一瞬だ。それは、見上先生の眼が、暗く明るいものだから。

「ぶらぶらと垂らした足が下から見えるほど低い空を、小鳥の群れが飛んだ。生温かいものが宙に浮かぶことが不思議だった」
 パソコン画面と閉じると、目の先にある本のはじまりにはこう書いてあった。

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見上徹写真展 「 Alternative Days 」
期間:12月3日(水)〜12月14日(日)
場所:ギャラリーカフェバー 縁縁
   東京都港区麻布十番2-8-15 1F
営業時間:水〜土 12:00-23:00
     日・祝 12:00-19:00

見上徹 official site

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福田祐太郎
福田祐太郎

ふくだ・ゆうたろう/留年系男子。1991年生まれ。宮城県仙台市出身。ライターとしての一歩目に、大人の道草にまぜてもらいました。大学では文芸を学んできましたが、「それ、なんになるのよ」と非難囂々のなか、この場にたどり着きました。

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