2014-09-5
海辺の砂
海辺で砂をにぎっては、指のあいだからこぼれ落ちる砂を拾い集め、もう一度にぎっては、その感触を確かめていた。断片的なこどもの頃の記憶である。夢のなかでの出来事だったのかもしれない。そしてそれは、さして問題ではない。
ちょっとした連休には、伯父とふたりで数キロ離れた海岸に出かけ、よくたき火をしていた。伯父はその火をなんともつかない表情で眺めていた。いま思えば、その先にある海を眺めていたのかもしれない。あとからきいたのだが、彼は海が好きだったそうだ。そして、これもまた、たいした問題ではないだろう。
波乗りの男たちがいる場合は消さずに帰ってくる。あとあとその火で暖をとったのかは知らない。ただ伯父が「あの兄ちゃんたち暖まるだろうから」とつぶやく言葉どおりに従っていただけのことだから。
外気が冷えてくる時分の休日には、こうしてよく海岸へと出かけた。ふたりで砂浜に落ちている枯れ木を集め、それから伯父が火をつける瞬間をとくと眺めていた。これから大きくなっていく火を想像してはふくらんでいく期待と不安とともに。ある程度火が大きくなってくると、そうした感情はどこかに流れていってしまっていた。それよりも、指のあいだからこぼれ落ちていく砂を拾いあつめることに夢中になっていたのだった。拾いあつめた砂が、今まさにこぼれ落ちた砂と、厳密な意味で、同一なものかどうかはわからずに。
何年か経って、その海岸線は姿を変えた。砂浜と町のあいだには、かつて、松林が存在していた。遡ること約四〇〇年前、時の仙台藩主、伊達政宗の命令によって造成され始めたものだという。この松林は、白砂青松といわれ、潮風や飛砂、または高潮から住民の暮らしを守ってきた。住民たちはこうした歴史とともに、また幾通りもの思い出とともに、この白砂青松を見守ってきた。だがいまはもう、林、とよべるものはない。
そして住民たちもこの地を去った。あるいは、この世を去った。
ぼくもまた、実家をなくしたうちのひとりである。地震による凄まじいほどの揺れで、家屋の半分以上が崩れてしまった。仮設住宅へ移り住むことを余儀なくされたのだが、幸運なことに、近くのマンションの空室を市の斡旋によって設けられたのである。家族もまた無事だった。少なくとも、あの震災においては無事だったのだ。
というのも、それから数ヶ月後、伯父が急逝した。病名は立派なものを与えられていたのだが、ぼくにとってそれはどうでもよいことだった。当時は、津波に命を奪われた人々で火葬場は混雑しており、彼はあっけないほど短時間で荼毘に付されてしまう。子供のいない彼の骨壺は、直接血の繋がりのないぼくが持つことになったのだが、その骨壺から発せられるわずかなぬくもりを抱き、自分は指のあいだからこぼれ落ちる砂のようだと思った。
それから約半年後、また一年後と、母方、そして父方の祖父が相次いでこの世を去った。寿命、といってしまえばそれまでのことであり、震災によるストレスと片付けてしまうのもまた、それまでのことである。だが、ぼくにとって、それもさしたる問題ではなかった。
東京に戻ってきてからというもの、出身をたずねられたときに答えてもみれば、彼らの関心はたいてい津波と原発に向く。それからぼくの家や家族を心配する。むろん、逆の順番もある。だが彼らの心配は、やはり津波や原発を介したものだった。あの日、あの瞬間、列島を揺るがしたあの大きな「揺れ」は彼らにとって問題に値しない。あったとしても、それは自分の体験物語として消化されているのだから。ぼくの家族の死に対する心配も、たいていは津波によるものだったのだ。津波によって奪われた命の、あの何万という数のなかに、あなたのご家族は入っているのですか、と言わんばかりに。
ぼくの周りには、震災によって様々な経験をした人々がいる——。
ある浪人生は、とある大学の入学試験前日に、他県へと向かう新幹線の中で被災し、十数時間閉じ込められたという。その後、受験を諦めざるをえなくなり、また、それから彼の実家は経済的に逼迫し、不本意な浪人生活の締めくくりを味わうこととなった。
音楽を志していたある女性は、離れて暮らす祖父を津波で亡くし、以来認知症の祖母の面倒を見るために引き取った。その家では両親が震災後、働きづめとなり、もともと同居していた祖母と、越してきた祖母のぎくしゃくした関係のあいだに挟まれた彼女は、志半ばで、その仲介と介護におわれてしまった。そして、いまでもそれは続いている。
ある港町の小学校には、小さなころから夢に見ていた教師生活を送り始めていた新米教師がいた。避難方法の「失敗」により、我が子を失った遺族から、小学校側が訴えられ、彼女もまた被災者——それも命を奪われた被災者であるにも関わらず、被害者を生み出した加害者として認定され、糾弾されている。「失敗」もまた、被災者家族によって、あとから構成された物語でしかないはずだ。小学生の未来と、彼女の未来にどのような差があるというのだろうか。
残念なことに、あるいは幸運なことに、テレビや新聞が好む、いわゆる「被災者像」には、ここで取り上げた三人は当てはまらないだろう。なにも恣意的にこの三人を選んだわけではない。こういう津波や原発によって生まれたいわゆる「被災者像」の外側にこぼれ落ちた被災者はごろごろといる。またこれは、テレビや新聞だけじゃない。様々なメディアによって、一見個別に見える悲劇の主役を仕立て上げるかのように、多くの、しかも一律のいわゆる「被災者像」が作り上げられていった。ここで、このことの是非を問うつもりはない。
問題は、それによって多くの人々にいわゆる「被災者像」が意識化されたことだった。その意識化には、ある種の暴力がひそむ。彼らが思い浮かべる、いわゆる「被災者像」は、もはや、こぼれ落ちた人々さえも飲み込んでいくものなのだ。
多くのボランティアの人々は皆一様に「逆に、被災者に元気をもらった」という。当たり前だというほかない。彼らにとっての「被災者」とは、彼ら自身の内部にひそむ、一律に意識化されたいわゆる「被災者像」でしかない。直面した「元気」とは、悲劇の物語を消費しようとし、裏切られた結果の産物だ。「逆に」という言葉がそれを証明してくれているではないか。映像の向こう、あるいは写真の向こう、また言葉の向こうにあるなまなましい現実は、ただ現実としてあるだけだ。
「被災者」という言葉の橋渡し。発する側と発せられる側との乖離。無能で優秀な門番は、あいだにたたずむ流動を無視することで、確固たる意味で塗り固められた石橋の上に、胸を張って立ち尽くす。そしてマクベスは口元に微笑を浮かべ、とある言葉を反芻する——「きれいはきたない、きたないはきれい」。マリーナベイ・サンズの客室は、今日もまた同じ明かりがついている。マーライオンは常に同じほうへと影をおとして。彼が吐き出すものは流動そのものであるにも関わらず。
ではここで、こうした現実に住む人々すべてを「当事者」とよんでみよう。津波の第二波によって、陸の孤島に打ち上げられたすべての人々を。見わたすことのできる海などない。目の前にあるのは果てしなく高い意識の壁。「当事者」たちはどうすることもできずに壁に耳をおしあてる。きこえてくるではないか、「想像の共同体」をこころに描き、壁の向こうから投げかけられる慈愛に満ちた言葉、すなわち「われわれは傍観者である」と。
いま、ぼくらは拾い集めなければならない。指のあいだからこぼれ落ちる砂を。たえず変わりうるその流動を。そして、「意味という病」におかされてしまった陸地の津波に、流されてしまったあらゆるものを。
4件のコメント
ことばという掌で掴み取る意味
そして零れ落ちる意味
伯父さんは海が好きだった
意味が零れ落ちた
意味と意味 よく見ると違う
よく見ずとも違う
きっとあの町に被災者の語彙はない
海が好きだった伯父さんがいるだけだ
どっちだっていい
今はいない
それだけをたえる人たち ぼくたち
わななきが 零れ落ちた意味の中で続いている
「きっとあの町に被災者の語彙はない」
もう一度、文章を読み返し、
まさにこの言葉に尽きると感じました。
掌にのった砂は、つねに偶然で、
どんな固定も差異も、はねのけるものです。
意味、無意味、そして脱意味と、
これまでいろんな思いで書いてきましたが、
きっとこの主題は、
どんな語彙をもっても書ききることはできず、
何度も何度もこぼれ落ちる砂をひろいあつめる姿、
これを見せることしか、いまのぼくにはできないと思っています。
「海辺の砂」には、メディアの喧伝する単一化された被災者像への批判と、そこからは外れてしまう一つ一つの現実を直視していきたいという意志が表現されていました。私は留年系男子さんの文章は重要な問題提起になっていると感じました。
人間は往々にして自分のわからないことは、「物語」に仕立て上げて理解しようとしてしまいます。とりわけ、それは感動的であるほど受け入れやすい。「絆」という言葉がメディアによって多用されたのもそのためでしょう。しかし、実際に被災地に広がっているのは、そのようには整理できない混沌とした現実であると感じます。佐野眞一さんが言っていた、「大文字言葉では表現しきれない、一つ一つの現実と切実に向き合う」姿勢とはこのことかと、納得がいきました。
更新された文章へのコメントではなく、すいません。
いわゆる「被災者」のなかには、震災後、全国からの寄付金や、東電からの賠償金のおかげで、
フォアグラ生産過程のような体型を獲得した方もいます。
また、中古車から外国の高級車に乗り換え、昼夜パチンコ三昧の方もいます。
事実、「最後は金目」だった方もいます。
たしかに、かたい「絆」のおかげで、いわゆる「被災者」は、いわゆる「被災者」ではなくなったのかもしれません。
亘理郡山元町にある、青巣稲荷神社では、今日もボランティア活動が続けられています。
「被災者が
被災者でなくなりますように」
先日、絵馬にこんな言葉が書かれていました。隅には、日付が書いてありました。
「2014年4月」
と。
当事者たちの現実を外から歪める傍観者たちへの、ぼくなりの反発は、しかし、こうした現実すべてを受け入れることだと思っております。
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