2015-05-5
こういうときが、たまにある
ミルク入れるか、という父の声で目を覚ました。うん、と答えて起き上がり、熱いお湯でさっと顔を洗って仏壇に線香をあげに行く。線香の煙を外に出すため窓を開けると、向こうのほうから電車の音が近づいてきた。その音が近づくにつれ、部屋は線香の煙が抜けるかわりに音で溢れていった。電車が通り過ぎ、音が抜けるとこんどは母の声が聞こえてくる。どうやら朝食の用意ができたらしい。
朝食をすませると、寝起きの悪いぼくのバラバラな意識もおもむろに整ってきた。それからコーヒーの存在を思い出し、ぬるくなったその液体をごくごくと飲み干した。かき混ぜなくとも、入れたミルクはすでに混ざりきっていた。カップの底に沈殿していた滓を見て、少しばかりほっとした。
調和のとれたあの美しいケヤキ並木も、あるいはこうした沈殿物なのかもしれない。
いま、自分のもっと内側に向かう力が働いている。こういうときが、たまにある。すべてにおいて摩擦が生じず、本を読んでも音楽を聴いても一切集中できない。誰と話していても、何も感情が生まれない。ここ最近、ずっとそうなのだ。
連休は、だから地元・仙台に帰ってきた。青葉繁れる東北大学川内キャンパスで、連休中の人のいない附属図書館で、とことん勉強してみようと決めた。もう一度外側に力を向けるため、痛みにふれる極限まで、自分のもっと内側に向かっていこうと決めたのだ。
ゆえに、いまは何も書くことができない。エントロピーは増大しつづけている。あらゆるカテゴライズもパッケージ化も排除しているのだ。これで、いいんじゃないか。いま一度すべてを混ぜ合わせ、そのうち沈殿された物質を手にとって、それをまた捨て去って。そんな運動の中に身を委ねようと思う。秩序だった乱雑、乱雑なままの整然。わずかに感じられる熱を逃さずに、新たな跳躍を会得するために、この生身の身体でなされる思考は止めずにいたい。
何も考えられない、そして何も書けない。さりとて、何かを考えずにはいられない。書かずにはいられない。
「個人が真に思考するためには、内面世界のどこかに徹底的に孤独になれる、静謐な場所を確保しなければならない」
「そこは、一歩足を踏み入れた瞬間は無人で、ひどく寂しげに感じられる場所」
( 千木良悠子「混迷の社会状況の中で、確かな灯りを探して知の遺産に思いを馳せる」『Journalism』朝日新聞社)
青葉山の緑の中で、広瀬川の瀬音の中で、孤独で静謐な、無人で寂しげな場所で、もがきながらも、しかし、生きている実感だけは確かにある。
(撮影:見上徹)
コメントはまだありません
まだコメントはありません。よろしければひとことどうぞ!
コメントする ※すべて必須項目です。投稿されたコメントは運営者の承認後に公開されます。