salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

きれいはきたない、きたないはきれい。

2014-07-25
雨がきらいで、雨がすき

 雨はきらいだ。なんだか、頭がぼんやりしてしまって、なにをするにもやる気がそがれる。まだ、雪のほうがあきらめがつく。だって、雪は、はっきりしているから。だけど、雨あがりのアスファルトの匂いだとか、雨のなかで咲いているアジサイの花だとか、雨のおかげで、とにかくすきなものもある。なんで、といわれても、説明なんてできない。この説明のできなさがまた、よかったりもするのだけれど。
 つまるところ、雨がきらいで、雨がすきなのだ。
 そういえば、ちょっとまえに、梅雨が明けたらしい。気象庁によると、今年の梅雨明けは、去年よりも約16日も遅かったそう。それが、平年、なんてものと比べてしまうと、こんどはたった1日だけ遅いことになる。平年とは、西暦におけるその年の、1の位を0に戻して、そこから過去30年間の平均のことをいうらしいのだが、それでは、去年の梅雨明けのはやさは、異常だったのか。気になったので、過去約60年間のデータを調べてみると、2001年の7月1日がもっともはやい梅雨明けらしく、逆に、もっとも遅いのは、1982年の8月2日だという。べつに、異常なんてことはなさそうだ。ただ、びっくりしたのは、1963年の梅雨入りがなんと、5月の6日だったということだ。平年だとか、平均だとか、この年の新緑を待ちわびていた人からすれば、なんともうるさい話だ。
 梅雨明けが発表され、こうして調べているあいだにも、外ではずっと雨がふっている。だからといって、かりかりしても仕方がない。まだアジサイは咲いているかもしれないし、雨があがれば、アスファルトの匂いをぼんやり堪能すればいい。これがなんですきなのか、どれだけすきなのか、説明なんてできないけれど——。

 でも、だからこそ——たとえば、こどものころ、夕立のおかげで、友達の家に少しだけ長くいられた……けれども、晴れてしまえば帰らないといけない……家に帰れば、夕飯が待っている……帰り途、なま暖かい湿った空気に包まれて、こころのどこかがぽっかり空いたような気がした……それとも、もともとぽっかり空いていたのを、そのときはじめて気がついたのかもしれない……そんなとき、雨あがりのアスファルトの匂いを胸いっぱいに吸い込んでいた……すると、なんだか満たされた気がするのだった…………。こんな説明をすれば、わかってもらえるのだろうか。なんだか疑わしい。——またたとえば、ずっとまえ、農業をいとなむ母の実家の、ひろい庭……雨ふりのなか、すみっこで母は傘をさして、しゃがみこんでいた……おどかすように、うしろから飛びついてみた……彼女は、いままで見たことのないような、やさしい表情でふりかえる……彼女の肩のむこうに、紫色の花が、隠れてのぞきこむようにこっちをみていた……アジサイ、はじめておぼえた花の名だった…………。ここまでいっておいても、ぼくは、ぼく自身でこうした説明に満足していない。これだけじゃない、と。だとすれば、これを誰もが、わかった、といったとしても、ぼくからすれば、誰も、わかってはいないのだ。

 ——海岸沿いのちいさな町は、ある日を境に、潮の香りでいっぱいになった……いつもと変わらない風景、変わらない人々……だが、道路をはさんだ向こうがわは、がらりと変わっていた……昔、この道路は犬の散歩コースだった……午前中の雨で、ぼくは駄々をこねて、散歩をさぼってしまう……犬はぼくに気をつかったのか、おとなしく眠っていた……うってかわって晴れた午後、ぼくは犬と一緒に道路をなん往復もした……そのときの、雨にぬれたこのアスファルトの匂いは、いまやもう、潮の香りでいっぱいになっている…………その向こうがわにある小学校、校庭に立つ一本の木に、無数の黄色いハンカチがいっぱいになってつながれている……この校庭の片隅にも、以前、アジサイが咲いていた……何年かまえには、この校庭に、たくさんの笑い声があった……おなじように、何年かまえには、あの犬も元気にかけまわり、飼い主だった伯父もまだ生きていた…………匂いとともに、花も思い出も、津波によって流されてしまった……この道路を境にして、あるいは、あの日を境にして……だからもう、この地で雨は降ってほしくない…………。こうしてみると、逆にいえば、ぼくにとって、まったくもって、そうじゃないこと——すきなものをきらいと説明すること——さえも、誰かが、わかった、といってしまえば、それがただ、ぼくの眼前にある現実として、彼の意識にあらわれてしまうのだろう。
 説明なんて、平年、みたいなものだ。平年は、どんな日だって含んでいるし、どんな日も含みきれてはいない。それなら、説明だって、それによっては、なんだってありえるし、なんだってありえない。ありえないことだって、ただそれが現実としてあるならば、ありえることが、いつ現実じゃなくなるかわからない。たとえば、ぼくがいま、こうだ、といえば、誰かは、そうじゃない、という。その逆もしかり。裏もしかり。対偶もしかり。そのすべてが正しくて、正しくない。ふたつの意味があるのじゃなくて、ふたつの意味が、ひとつの意味であり、それでいて、ひとつの意味でもなくて、なんだってありえる意味なのだ。もっといえば、なんの意味だってありえない。そもそも、こうした——ぼくの場合は、アスファルトの匂いや、アジサイへいだいていた——美意識というものは、言葉の意味を骨抜きにしてしまうものであるのだ。
 ならば、この言葉に思いをたくそう。

 きれいは穢い、穢いはきれい。
(ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』福田恆存訳)

 ——マクベスはただ、真面目で、一途な男だった。だから、彼は王になりえたし、王ではなくなったのだ。
 マクベスの運命は、魔女の預言によって約束されていた。これによって、彼の意識は、必然的な未来へと向き、その未来が彼に現実性をもたせ、現在は偶然的なものとなることで、現実ではなくなった。このとき、マクベスという自己は、未来でしかありえず、現在ではありえなかった。もちろん、現在における自己の否定は、とりもなおさず過去の自己をも否定することになる。
 それが、言葉によって、その運命を裏切られた——マクベスにとっての言葉の意味が崩壊した——とき、彼は未来でしかありえない自己をもうしなった。マクベスは、マクベスではなくなり、なんでもない彼の、ただ目のまえの現実だけが突如としてあらわれてきたのである。彼にとってはもう、生きるも死ぬも、善も悪も、生も否も、なんの意味さえもたなかったのだ。
 シェイクスピアはこれを、《Fair is foul, and foul is fair》として、物語の序盤において、魔女に語らせた。しかし、あらゆる説明も、もはや意味をなさないのなら、はじめから、言葉の意味というものを、骨抜きにしてしまう美意識をもって語るべきなのだ。だからこそ、福田恆存は、「きれいは穢い、穢いはきれい」と訳したのだろう。

 きれいはきたない、きたないはきれい——。この言葉は、なんだってありえるし、なんだってありえない、ということでありながら、ありえる、ありえない、という意味付けそのものをも、拒んだところにあるものなのだ。そんな言葉を受けいれて、体現させたマクベスは、きっとこれからも、あらゆる意味のなさのなかに、生きつづけていくのだろう。
 きれいはきたない、きたないはきれい——。こんな途方もない言葉をまえにして、意味にまみれた言葉をもって、さんざん書き連ねてきたあいだに、外はすっかり晴れたらしい。こんどはぼくの番だ。雨にぬれたアスファルトの匂いを大きく吸い込んで、意味付けることに、意味をもたないおもいでいっぱいになろう。なんで、といわれれば、こたえてさしあげよう。つまるところ、雨がきらいで、雨がすきなのだ、と。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。よろしければひとことどうぞ!

現在、コメントフォームは閉鎖中です。


福田祐太郎
福田祐太郎

ふくだ・ゆうたろう/留年系男子。1991年生まれ。宮城県仙台市出身。ライターとしての一歩目に、大人の道草にまぜてもらいました。大学では文芸を学んできましたが、「それ、なんになるのよ」と非難囂々のなか、この場にたどり着きました。

そのほかのコンテンツ