2013-12-25
クリスマスの思い出
トールマン・カポーティという作家が書いた「クリスマスの思い出」という小説がある。
主人公が7歳の少年だったころの思い出を語ったイノセントで温かな短編で、クリスマスが近づくと、ふいに本棚からひっぱりだして読みたくなってしまう。
人によって記憶の形や濃度というのは様々で、稀に幼少期の記憶が鮮明にあるという人がいたりもするが、大体は子どもの頃の記憶や子どもゴコロというのは、大人になるにつれ哀しくも少しずつ薄れていくもので、私の場合も小学生以前の記憶なんて限りなくないに等しいし、物心がつくようになったのがいつだったのかもはっきり覚えていない。
サンタクロースからのプレゼントを、何の疑心もなく下手な演技もなく、心から驚き喜べた時代の記憶を私はすっかり失くしてしまっている。
それなのに、この物語の生き生きと語られる彩り豊かな冬の様相、主人公バディとそのいとこであり親友の老婆スック、犬のクィーニーの二人と一匹が、まるで冒険を思わせるようなトキメキと真剣さでもって、クリスマスの準備に取り掛かる様子を追いかけていると、クリスマスの晩の、あの胸を跳ねまわるうさぎのような気持ちを、私も持っていたことを思い出さずにはいられない。
今年この物語の主人公と同じ7歳のクリスマスを迎える私の息子。
バディの利口さと未熟さ、すばしっこさと自由な発想、ちょうど今の彼を映し描いたようで、今年はいつになくこの物語を愛しく読み終えることができた。
息子はまだ、サンタクロースを信じてくれているだろうか。
12月がソリに乗って過ぎていく。
クリスマスも然ることながら、安堵のような幸福に頬を上気させ、いつの間にか浮き足立った年の瀬の空気が充満している。
よっぽどのどんでん返しでもない限り、今年を語るのに必要な事柄はもう全部済んだと言ってしまってもいいだろう。
今年手にしたいろんな物や思い出は、年が変わるあと数日の間に、埃を払って然るべき場所にしまうか、袋に詰めてゴミに出すか、はたまた賑やかな酒盛りの場に置き忘れてきてしまうか。
そんな12月の習わしに身を任せるように、私もそぞろに今年自分に起こったことを振り返ってみる。
人並みに一喜一憂し、それなりに変化もあったいい年だった。けれど、なんとも掴みどころのない口数と出番の少ない脇役のような一年でもあった。
20代に入るか入らないかくらいからここ10年ほどの間、これでもかというほど目まぐるしく激しい年月を過ごしてきたからか、心に亀裂が入るような出来事がひとつもなく、万事平穏に過ごせたこの一年に感謝する反面、どこか肩透かしを食らったような、「ホントにこれで終わっていいの?」みたいな気分にならなくもない。
けれどもしかしたら、自分と自分の生きる道がようやくそういう過程に突入したのかもしれないなあと、なんとなくしみじみ思ってしまう年末である。
これを書いている今日は24日、息子が寝た連絡が入ったらプレゼントを持って出動する。
「クリスマスの思い出」の本のタイトルを見て、夢のような幸せが散りばめられた物語の内容とはまた別に、3年前の今日をどうしても思い出してしまう。
泥棒のようにこっそりとプレゼントを置いてきた帰り道、冷えきった車内でひとり、フロントガラスに落ちてきた雪の粒を眺めながら、突然にぎゅーっと淋しさが襲ってきて、悲しくて悔して、わざと大袈裟に泣いたこと。
いろんな現実を受け止めきれずにいた当時、収拾のつかない気持ちが一気に溢れだした夜だった。
今夜はもうそんな気持ちになることはないだろう。
時間の経過というのは本当に、つれなくもあり救いでもある。記憶が日に日に塗り重ねられて、どんどん元の色を忘れていってしまうのは切ないけれど、だからこそ生きていけるんだなあと、今日は特に強く思う。
失うからこそ保たれているもの。かけがえのない記憶が今を成り立たせているなあと少しセンチに思うのは、師走という振り返るのにふさわしい時期だからだろうか。
物語の大詰め、スックが息を荒らげて勢いよく語る場面がある。少し長いけれど、とても好きなセリフだ。
”「ああ、私はなんて馬鹿なんだろう!」と僕の親友がはっと息を呑んで叫ぶ。まるでオーブンにパンを入れっぱなしにしてあることを、手遅れになってから思い出した女の人みたいに。
「私がこれまでどんな風に考えていたかわかるかい?」彼女は何かを発見したような口調で僕に言う。彼女はにっこりとしているが、僕の顔を見てほほえんでいるのではない。
僕のずっと後ろの一点を見ているのだ。「私はこれまでいつもこう思っていたんだよ。神様のお姿を見るには、私たちはまず病気になって死ななくちゃならない。
そして神様がおみえになる時はきっと、バプティスト教会の窓を見てるような感じなんだろうね。太陽が差し込んでいる色つきガラスみたいに綺麗でさ、とても明るいから、日が沈んできてもこれに気がつかないんだ。なんだか怖いくらいでさ。でもそれは正真正銘のおおまちがいだった。誓ってもいいけれどね、最後の最後に私たちははっと悟るんだよ、神様は前々から私たちの前にそのお姿を現しておられたんだということを。物事のあるがままの姿」
−彼女の手はぐるりと輪を描く。雲や凧や草や、骨を埋めた地面を前脚で掻いている クィーニーなんかを残らず指し示すように−
「人がこれまで常に目にしてきたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ。
私はね、今日という日を目に焼きつけたまま、今ここでぽっくりと死んでしまってもかまわないよ」”
二人と一匹で過ごすクリスマスがこの年で最後になったことが、この場面の後に書かれてある。
あと数日で今年が終わる。年を越したら、新しい空気の中に新しい野望が見つかるだろうか。
今抱いている混沌とした雲行きも心模様も、どこに通じていたかがわかるときがくるだろうか。
それら全てが神の姿だったと悟れる日がくるかどうか今はわからないが、この本を改めて読んで、私の持つ記憶全ては幸せの記憶なんだと満ち足りた気持ちに今初めてなれた気がする。
明日息子と、どんな顔して会えるだろう。
皆様も素敵なクリスマス、そして良いお年を。
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