2013-05-14
親の心 子の心
季節は手のひらを返したように急に夏めいて、薄ら寒い春はどこへやら。
長い休日と母を労る日の余韻もそこそこに、有無も言わさずやってくる日常。
うつらうつらしていても構わず叩き起こしてくる母のように、
燦然たる太陽が不健康な考えを一切合切乾かしてしまう。
昨日の夢は、はて、なんだったか。
GWと母の日は、人の誘いに乗っかって自然との戯れを満喫してきた。
日頃どちらかと言うと、ひきこもりがちな生活を送っているので、
陽の光を浴びて、土や風に触れるということが新鮮で、想像以上に心身のヒーリングになった。
とはいえ、もともと私は都会生まれ都会育ちでもなんでもなく、
実家は山奥、人間との対話より、鳥たち虫たちの声を聞くほうが身近で、
両親は畑を耕し、汗かき草刈り、季節ごとの花を愛でている。
そんな環境に育っていて、今更自然の素晴らしさに声を上げるなんて、甚だ恥ずかしく情けない話である。
情けない話で言えば、私がつい3年ほど前から嗜むようになったピアノ。
生まれてからずっと実家には立派なピアノがあったのに、全く触れようともせず、今になって必死こいてベタベタと触っては、思考と感情をその音色に浸している。
なんとも滑稽な と嫌味のひとつでも言ってもよさそうなものだが、両親は何も言わない。
私が自分の有様を羞恥していることを、両親も解っているからだろう。
親の心子知らず という永遠の題目について、子ども目線で語り続けたいところではあるが、実は私にも子どもがおり、名ばかりの母である。
息子は7歳、元気にすくすく逞しく育っており、GWも一緒に過ごした。
話すと長い経緯があって、今は離れ離れで暮らしているわけだが、
それは一旦置いておいて、関係は良好。一点の曇りもない。
色々な親子関係が世の中には存在するだろうから、一辺倒な言い方は出来ないが、私が知っている限り、親は子の前では毅然としていたいものである。
手渡しで幸せをあげられなくとも、いつも安心を与えたいと思っている。
我が心の葛藤など、子が子であるうちは知る必要がないと考える。
だから「あんたは知らなくてもいーの。」のひと言で片付けて、さっさとお風呂に入って寝なさいと促す。
賢い子どもは親の言うことを、聞くが良い。
自分が進もうとする道、開こうとする扉に、ことごとく親も通ったしるしを見つけて痛感する。
けれど、同じ道、同じ扉に手をかけて初めて、
親が再三にわたって言ってきた言葉の意味、何も言わなかった背中に張り付いた愛の重みを読み取れるのかもしれない。
次の休みはまた自然を感じに出掛けに行こう。
太陽を浴びて、心の母体となる存在を感じて、素直に謝るような気持ちで、土に触れ、風に触れ、そうしたらもっと欲のない音楽が生まれるかもしれない。
そして次また息子に会う時も、そうした世界を一緒に感じにいこう。
私の間違いも正しさも、息子はまだ知りたがらないが、愛は感じさせてやるべきだ。
1件のコメント
親のこゝろ、子知らず。
でも、親になってみると、親のこゝろが、ちょっと解る様な、
最近小職もそれを感じるようになり。
普段、ブツクサ、あーしろ・こーしろと、独り息子に言ったりするけれど、
どうしても、言いたいことがある時と、
単に、話したい時と、
邪魔したいときと、
色んな心情の動きがそこには、あるもんだ。
そんなことまで、子供は知る由もない。全部一緒。
だから、一度でいいから、結婚して、子供つくって、
そんな親心を、ちょっと共感してくれて、
親父もそんなことだったんだな〜、って
呟いて欲しいと、思った。
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