2013-10-25
消えない染み、届かない星
芳しい庭の金木犀の香りもいつの間にか途絶え、少しずつ少しずつ血の気が引いていくように、過ごしやすい秋はその寿命の短さを尊げに漂わせている。
肌のかさつき、毛布の恋しさ、取るに足らないこちらの緊急自体を気にも留めず、季節は神妙な面持ちで、何かとても大事な考え事をしているようだ。
日々の雑事をそれとなくこなしながらも、なんとなく不安なまま、
新しい土地に移り住んでもう半年が過ぎてしまった。
こないだ妹と久しぶりに会った時、他愛のない会話の途中で、
「私は季節の移ろいにしか興味が無いから」と半ば冗談のつもりで言ったら、思いの外ウケた。
半分は冗談だけど、半分は本当だ。
ここでこうして(居間で庭に面した窓の外を眺めて)、
移り変わる季節の表情と自分の心模様を重ねあわせて、ここに書き留めることは、いつの間にか私にとって、おざなりには出来ない一種の課業のようになってしまった。
ずぼらな私にとってはそれが、散らかった部屋を片付けて掃除する行為にも似ていて、自分の部屋を居心地のいい場所にするための最低限の営み、人のためか、自分のためか、はっきりさせたいけれどさせようのない、ひとつの義務。
けれど億劫な作業ほど、片付いてしまうと「やってよかった」と素直に思えるものである。
そして、何のために何をしたかなどは、さして重要な事柄ではないと、いつも後になってから気づくのだ。
最近なぜだか気分が落ち込んで、不景気みたいなうっとおしい暗雲が心にモヤモヤ立ち込めていて、うだつが上がらない自分を今更咎めてみたり、ため息だけは気前よく出るのだけれど、どこから発生したかわからない、昨日今日始まったわけではなさそうな、根深い不安と戦っている。
天井の星、絨毯の染み と題して書き始めたコラムも投稿11回目、
そのタイトルと今の自分を改めて重ねあわせてみて、未だ同じ部屋でうだうだと頭や心をもてあそんでいる、変わらない自分を思い知る。
いつまでも消えない染みと、いつまでたっても届かない星。
しかし、それはただの無変化ではなく、変化が自分の目にまだ映らないだけなのだろう。
昔、母に言われた言葉を思い出す。
「小判焼きはじっくり焼かないとひっくり返らない。無理に急ぐと生焼けで美味しくない。
ひっくり返せる時が必ず来るから、それまではただじっと待つしかない。」と。
そんな言葉を時折思い出しながら、最近は専ら料理に没頭している。
短い主婦経験と長いアルバイトでの調理場経験から、もともと料理は好きなのだけれど、なかなか毎日張り切って料理をする気にはなれなかったのだが、最近はなんだか手間暇をかけることが楽しくて仕方ない。
つうと言えばかあと応える頼もしい相棒のように、
手間を惜しまなければちゃんと美味しくなってくれる料理そのものが、なんだか心強い私の励みになっているのだ。
折りに触れ、家族や友人知人が何かしらの優しいメッセージを届けてくれる。
虫が知らせたのか、誰かが私を思い出し、遠回しだったりストレートだったりする励ましの言葉をくれる。
かつて私もここに書いた、愛を伝える作業を、今度は私が受け取っている。恥ずかしくも有難い心持ちだ。
皆が皆、それぞれの部屋で、それぞれの過去や未来を受け入れたり突き放したりしながら、同じ季節の中にいるのだろう。
然りとて、短くも愛おしい季節。
読書の秋、食欲の秋、芸術の秋、その他にも色々な冠を持つ秋。
読もうと思っているのだけれど、結局3ページ目から先へ進んでいない可哀想な物語、買ったはいいけど未だ日の目をみないランニングシューズ、未完成のまま放置している作品たち。
食欲だけはいつでも旺盛なので例外ではあるけれど、
重い腰を持ち上げて、気がかりなそれらに手を付けるのに、秋という季節はうってつけなのかもしれない。
空気はだんだん引き締まり、冷たく、けれど深く温かく、
私のつまらない戯言さえ真剣に聞いてくれるような、豊かに熟した大人のような顔つきをしている。
中途半端で宙ぶらりんな自分についても、そろそろ真剣に語り出さなければ、解決へも近づかないのかもしれない。
誰のためかもわからないけれど、今回はそういう理由を持ってここに自分の無様さを書こうと思った。
これからも続ける意志と、感謝の意を持って。
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