salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

天井の星 絨毯の染み

2013-06-4
梅雨時に思う

梅雨の合間の晴れ間。気づけばもう6月。
季節は日毎夏に向かい、風と光の色合いも日に日に変わるグラデーション。
心模様も天気に作用されて、浮き沈みの激しさが目に余るこの時期。
雨に濡れても乾きも早く、今泣いた烏がもう笑うみたいな 
自分の気まぐれにいちいち付き合わされるのも、もはや季節の風物詩。
表面で揺れ動くその裏側で、確かに進行していく自分の本筋をわきまえた上で、せわしない日常の悲喜こもごもを楽しめるなら良しとしよう。

世知辛い世の中とはよく聞くけれど、普段の生活の中で実感として今ひとつピンと来ないのは、私が単に人に恵まれ、甘えた自分のペースでも、のうのうと暮らしていけているからだろう。
それに、嫌なことは寝たら忘れてしまう、調子のいい性質も、健康な日常を保つ上で大いに役立っている。

しかし、心の持ち方や生き方について、方方で色々な人が声を上げているこのご時世。
自分と少し離れた場所で、ぐらつく心の土壌を抱え喘いでいる人が沢山いることを、否が応でも知らされる。
そしてときたま、それが自分の身近な友人知人の話となって耳に入る。
無関係な顔をして生きることは心苦しく、しかし、なんと言葉をかけるべきか

ちっぽけな私の経験から、こういった多岐にわたる複雑な問題に足を踏み入れるのは、如何せん勇気がいる。
他人の心の混乱に首を突っ込めるほど、自分には余裕も教養もないとは解りながらも、ここのところ、どうも気になって気持ち悪く、けれどこういう心境になるのは、少なからず私も途方の無い悩みを抱えたことがあるからだろう。
私の場合はこうでした、と偉そうな口を利くつもりはさらさらないのだけれど、私にも言えることはあるのではなかろうかと、遠慮がちに思ってみる。

マザー・テレサやマハトマ・ガンジーや瀬戸内寂聴や、、、
その他様々な偉人が残した胸に響く言葉を人伝いに聞くことができる。
しかし、感動はできるけれど、心の底から救われはしない。(と私は思う。)
宗教や病院や施設や図書館や、世の中には色々な救いの場が設けられているけれど、どこにいけば本当に心が救われるだろうか。

自分もしくは他人に対して、譲れない、許せない、諦められない気持ちで、頑なになった心に、自分の問題が世界一大きな問題になり、目は見えず、耳は聞こえず、感じなくなった心に、健康を取り戻させてくれる決まりきった手立ては、もはやないのかもしれない。

けれど、自分がされて嬉しいことを他人にもする、という小学生レベルの考えでよければ、私は困っている友人知人に向けて「あなたのことが好きですよ」と言いたい。
そして、私はその言葉を快く受け入れることが、救いの一手になってくれると信じている。
それは私も自分自身、そういった周囲の人たちの気持ちに触れて、何度となく救われてきたからだろう。

「あなたが転んだかどうかはどちらでもよい、起き上がったかかどうかが重要なのだ」
これは私がうじうじと悩んでいたある時期に、どこかしらで手に入れた言葉。
誰が言ったか、このつっけんどんな物言いに、思いもよらず奮い立たされたことを覚えている。

強い人が偉いわけでも、弱い人が悪いわけでもないと思う。
けれど同情の言葉なしでは生きられないとすれば、それは結構生きにくい。

自分のことは自分にしかわからない、他人とわかちあうのは難しい。
更に他人が自分に対して思っている本当のところを知りたいとすれば、それはきっとずっと無理だ。
それならもう求めることをやめて、朝な夕な気持ちを波打たせ、
自由に瞬間を生きればいいんじゃないかと、最近自分自身思うようになってきた。

不安定なお天気の続くこの時期、少し気がかりな知らせを風が告げたもんだから、こういうことを書いてしまった。
すごく個人的なことだけれど、これを読んでくれたあなたにも、
ありがとうとアイラブユーを、快く受け止めてもらえれば。

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岡田規絵
岡田規絵

おかだ・のりえ/1983年生まれ、大阪府出身、岡山県在住。 tony chanty という名前でピアノの弾き語りを中心に音楽活動をするSSW。 趣味は読書、旅、食事、お酒。何気ない日々の鼓動にゆっくり耳を傾けて、言葉や音に落とし込むのが好きです。

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