2013-06-23
梅雨時に思う2
梅雨入りしたと言いながらも飽き飽きするほど晴れの日が続き、
そうかと思えば先週は、辻褄を合わせるかのように降り続いた雨。
乾かない洗濯物と外出への躊躇い、拭い切れない停滞感を気にしちゃ負けとは思いながらも、まんまと雨のトラップにハマってしまった。
晴れ間が見えて、ほっと一息。
けれど滞っていた作業を片付けるやいなや、またしてもなんだかんだと季節の不都合に声を上げる、言葉通り日和見主義な自分を情けなく思っても、開き直る他はない。
久しぶりによく降った雨の最中、案の定気持ちもウエットになってしまった。
流さないでいた涙がここぞとばかりに洪水みたいに溢れかえる、
辛うじてそんなことは起こらなかったが、それに近しい気持ちにはなった。
雨の日、予定が潰れ落胆する気持ちに便乗して、無闇に引っ張り出しては感傷に浸りたくなる某かの記憶。
晴れが好き、いつでも屈託なく笑っていたい、有り余る幸せにできるだけ長く、できるだけどっぷり身を置いていたい。
おそらく大方の人々はそう願っているはずなのに、何故ときに切なさに身を寄せたくなってしまうのだろう。
物事がトントン拍子に進んでいくときには感じ得ない、不具合から生まれる空白には、人生を美味しく味わうために必要な反芻の時間があると信じているからだろうか。
人には言えないこと、そこはかとない孤独や葛藤を、大なり小なりきっと誰もが持っている。
けれど日照りが続き過ぎると、そもそもそんな想いがあったことさえ頭に上らなくなる。
それはそれで良いのかもしれないけれど、「雨降って地固まる」という諺通り、考えても仕方のない事を考えないといけない時間というのもあるのではないかと思う。
しとしと降る自戒や反省や反抗心を、ちゃんと自分に突きつけなければいけないことを、皆どこかしらで感じながら過ごしている。
だからそれを遂行できた雨の日には、少しの安堵があるのかもしれない。
私の音楽に触れてくださる数少ない聴衆の方々から、ときどき雨に似てるとのお言葉をいただく。
音楽を育み始めて十数年、いつからか私は自分の作る音楽にも、そういう時間を持たせたいと思うようになった。
高き理想はまだまだ遠く、手中に収めることはいつまで経ってもできないけれど、切なく感じる瞬間の、消えそうで消えない愛おしさを、かれこれずっと追いかけている。
自分の意図が伝わっているかどうかは定かではないけれど、
抽象的なその批評をご褒美のように、ありがたく受け止めている。
とは言え、普段人前ではどう控え目に言っても淑やかな方ではないし、
おっさん勝りな振る舞いを誰彼かまわず露呈して、なるべく境界線を持たないをモットーに思慮浅く生きている。
だからこそその反動で、相反する儚げでいじらしい切なさに憧れが募るのだろうか。
3日ばかり続いた雨。恵みの雨と言われるところで切り良く止んで、また夏に向かう。
このコラムを始めた頃、生活環境をがらっと変化させた。
なんとなくリズムができてきて、つい数ヶ月前のことだけれど、その時四六時中考えていた悩み事のような渦も、今となっては赤の他人が思っていたことのように、殆ど薄れ消えかけている。
何度か降った雨と乾かしてくれた太陽が、知らず知らずのうちに私の地面を固めてくれているのだろう。
次に考えるべきはなんだろうかと、私も私で日々の模索を再び始める。
車窓から流れる景色のように、毎日は少しずつ変化を加え、私を退屈させない。
とりあえずは月末と来月のライブに向けて、追求すべき自分の理想と役割について考える。
恵みの雨に私もなりたい。もしくは雨でなくても。
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