2013-04-29
ストーリーテラーの平和な休日
異国の地に住む妹とのスカイプを閉じて、静まり返る部屋。
窓の外は近隣の物音と、不安のない晴れ。
昨日干してまだ畳んでいない洗濯物と、今朝から洗っていない食器、
明日出す予定の燃えるゴミ。昨日と今日と明日も生きる予定。
些細な、ごく個人的な取るに足らない騒動が、
飽きずに舞い込んでくるお陰で、日常は彩りを保っているものの、
心の調べを音にしようと新たな制作を試みても、
ドラマティックな高揚や悲哀の物語はなかなか降りてこない。
さて、どうしたものか
先日久しぶりに映画を見に行った。
寝てしまうほど退屈な内容でも、心がもげるほど大層な話でもなく、
けれど見終わったあとで、じんわりと気付きに出逢えるような作品だった。
映画や本や音楽、ストーリーを持つものには大抵事件が伴う。
刺激と安心、同調と異論。
主人公の胸の振動を聞き、一緒になって震えたい、
矛盾する心の欲求全てを満たしてくれるものを、人々は求めてやまない。
その役割を担うストーリーテラーはきっと皆、日頃からネタ探しに余念がないのだろう。
かく言う私も、音楽や詩、文章などの次なる投稿の取っ掛かりとなる出来事を、だいたいいつでも探している。
作物のない土をほじくり返しては、途方に暮れることも日常茶飯事。
火のないところに煙は立たぬと言うのだから、
煙さえ見つければ火の出処をきっと突き止められると目を見張っているのだけれど、何の変哲もない平和すぎる日々に、煙のけの字も見当たらないとなると、そのままふて寝でもしてしまいたくなる。
これも先日、パソコンをうだうだといじくり回していたら、こんな言葉に出くわした。
「キャンドルを灯し、シーツを新しくし、素敵な下着をつける。
特別な日のためにとっておくのではない。今日という日こそが特別なのだ。」
90歳のアメリカに住む老人が人生における45項の教訓を説くというタイトルで、そのひとつにあった言葉。
見に行った映画も老人が主人公の物語だった。最近老人付いてるのか。
人生の酸いも甘いも心得て、大方の物事に動じることがなくなった彼らの目から見た世界。
長い人生経験から、生きる上での激動を受け入れる態勢も備わっており、
平和の意味、その愛おしさ、守る手立ても知っている。
老人の視点をそのままスライドさせて、今の自分の日常に重ねてみる。
制作物がカタチにならない歯痒い日々もまた、いいではないかと 歳をとった気分で、むしろそういう今をカタチにしてやろうじゃないか という器量で、考えを変えてみる。
何も起こらないことに落胆することはない。平和であればあるほどいい。
ほら、とにかく目についた物事を片付けて、
いつ客人が来てもいいように態勢を整えて、
待たずとも事件は起こるのだから、
その時に大きな課題にとりかかればいいじゃないかと、
せわしない質の自分の心に言って聞かせる。
ということで、こんな投稿が書き上がった。
次の投稿では何か大きな表題が持ち上がる、とも限らない。
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