2013-07-16
夏休みの計画
いつの間にか蝉も鳴き出し、本格的な夏が遂に始まる。
長いようで実は短いことに、毎年終わりがけになって気づくのだけれど、
暑さにうなだれている最中には、なかなかその尊さを実感することができない。
夏休みを目前に、小学二年生の息子は、「宿題を一日で片付けてみせる!」と無謀な意気込みを見せているが、いざスタートすれば、およそそんな目標を掲げていたことすら3日で頭から消えてしまうのではないか。
と思うのも、私がまさに8月後半絶望の淵に立たされていた小学生時代の思い出を持つからであり、どうか息子が、そんな私の心配を見事裏切り、肝を冷やさず楽しい思い出だけで胸をいっぱいにして、夏休みを笑顔で締めくくれますように、と願うばかりである。
しかし、限られた解放の季節、夏の誘いに健全に受け応えし、思い出をたんと作らなければ勿体ない。
子どもも大人も同じ、私も宿題をやる余裕を少しだけ残して、後は目一杯胸躍る予定を詰め込んでいる。
大事に出来るときに大事にする という今を尊ぶ気持ちが、ここのところ甚く胸に芽生えている。
瞬間を愛おしむ教訓めいた言葉が琴線に触れるのは、今に始まったことではないが、ここ最近、身近な場所でお祝いやお悔やみが立て続けに起こり、改めて自分にも当てはめて考えてしまう。
始まりと終わり、それぞれの節目を迎えたとき、おそらく多くの人たちが、その瞬間の奮い立つ気持ちを手放さぬようにと、その手をぎゅっと握りしめるのに、どうしていつの間にか感触というものは薄れていってしまうのだろうか。
何においても継続するのは難しい。
熱い珈琲も放っておいたらぬるくなるし、キンキンに冷えたアイスも夏の暑さには敵わず溶けてしまう。
美味しさを感じ続けるためには、ある程度毎日手を施さなければならないし、ときに機を見て、食べてしまうことも必要だ。
中学生のとき、修学旅行先で母から手紙を受け取った。
皆それぞれが親ないし身内から、手紙と同封の幼少期の自分の写真を受け取るという先生側のサプライズ企画で、私はその時もらった手紙に書かれた母の言葉を、今も大事に保管している。
「あなたは磨けば光る原石です。けれどそれは毎日、根尽きるまで磨けばいいというものではなく、いろんな人やものに触れ、知らず知らずのうちに磨き磨かれていくものです。」
人一倍涙腺が弱かった当時の私は、手紙を読んで人目もはばからず泣いたと思う。
何故あんなに泣けたのか、今となってはちょっと訳がわからないが、
母の深い愛情と励ましが、かよわい胸をびしゃびしゃに濡らした。
という思い出はともかく、
母が諭したかったのは、無理なくしかし根気よく継続して努力せよ。という事だったのだろう。
そして、信じて愛せよと。
つい大風呂敷を広げてしまうのは、実際は子どもだけではなく、大人でもままあること。
勢いづいたことを公言して、大なり小なりマニフェストを掲げたからには、大人ならやってみせろよと。
皮肉ではなく、自分自身思い当たること。
取り返しがつかなくなって、先生に怒られるだけで済めばいいが、
そのヒヤヒヤを感じるうちに、悪い癖は治しておいて損はない。
今度息子と会った時は、褒めそやしながら計算ドリルを隣で見てやろう。
ひとつの命が生まれ、ひとつの愛が始まり、ひとつの命が天に召されて感じるこの頃。
感触が薄れても、消えぬように大事に扱おうと、私も私で肝に銘じて今日もいく。
蝉みたいにギャンギャンとフルパワーで鳴き叫びながら、日々は過ごせない。
毎日少しずつ宿題を片付けながら、思う存分夏らしい遊びをしてやろうじゃないかと、何度も頭を打って、私も少しは計画できる大人になったのかもしれない。
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