salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

四十二才の夏休み

2016-01-5
自分の話、他人の話

 このごろ、人と話すのが苦手なんじゃないかと本気で思い始めている。思い始めているということは、以前は思っていなかったということになるのだが、もう少し正確に言うと、以前はそれほど負担に感じていなかった他人との会話が、メンドクサイと感じ始めているのである。
 具体的な話をしよう。僕がほぼ毎日のように通っているスポーツジムでは、若いスタッフが笑顔で声をかけてくれるのだが、彼らの熱心なコミュニケーションに、僕はまともに応えられた試しがない。
「どんなスポーツがお好きですか?」「連休はどちらにお出かけになりましたか?」「いい汗をかきましたね。きょうはこれからどちらに?」
 親しい友人との酒の席であれば、そこから話の枝葉を広げて、とりとめのない会話を楽しむこともあるだろう。だけど、彼らが言葉を投げかける意図は、忠実な職務の遂行であり、僕に向けられた興味や関心は微塵もない。僕には、そんな彼らの心の内が透けて見えるから、迂闊な言動でこちらの心証を悪くしたり、自尊心をくすぐられたふりをして相手に達成感を味わわせてやりたくないと思うのである(僕が、ホステスのいるスナックやガールズバーを敬遠し、美容師との世間話をめんどくさがるも同じ理由だ)。
 にもかかわらず、世間には自分の立場や置かれた状況を顧みず、やたらと話をしたがる人たちが、けっこういる。僕の友人Aは、聞きもしないのに息子が就職した会社の業務を熱心に語り出すし、数年来のつきあいがあるカメラマンのBは、取材中に自分の失敗談を披露し、場を白けさせるのを得意技としている。家族旅行の一部始終を凡庸な表現力でとつとつと語るCさん。会うたびに不登校の娘の現状を延々と嘆くDさん。僕はそんな彼らの話に、絶妙な相づちを打ち、熱心に耳を傾けているふりをする。
 シジュウ半ばを過ぎて気づいてしまったことがある。人はみな、自分のドラマを語りたがるということである。しかも、そのドラマはたいていツマラナイものであり、本人以外にとっては退屈なものでしかない。でも、人は聴衆を求め、語る。立派な人も、そうじゃない人も、表現や演出に力量の差が多少あっても、同じ熱量で、語る。成功した人も、失敗した人も、幸せな人も、幸せになれなかった人も、一所懸命に語る。
 語る。語る。そして、語る。
 だから、僕一人くらい、聞き役に回ってもいいじゃないか。僕は自分にそう言い聞かせ、しばらく口を閉ざしていようと思う。口数の少ない、ペットのクサガメを見倣って…。

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村瀬 航太
村瀬 航太

むらせ・こうた/1970年、東京生まれ。確定申告書の職業欄に記入するのは「著述業」。自宅でクサガメの世話をしたり、大相撲中継や映画を観たり、マイナーな海外アーティストの音楽ライヴに足を運ぶ傍ら、出版編集にかかわる仕事をたまにしている。専門ジャンルはとくにないが、相手によって「写真が好きです」とか「実用書全般を手がけています」などと真面目な顔でテキトーにこたえている。

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