salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

四十二才の夏休み

2013-06-17
ベトナムのハイさん その1

 先日、またベトナムへ行ってきた。二年ぶり五回目の訪越である。
 アジアにさほど関心のない僕が、何度もベトナムを訪れているのにはわけがある。ホーチミン市在住の友人、ハイさんに会うためだ。

 ハイさんは、外国人観光客向けのガイドを生業にしている、ベトナム人である。ガイドとはいっても旅行会社と契約しているわけではない。街で欧米人に声をかけ、案内役を買って出るプライベートガイド、いい方を変えれば、社会主義国ベトナムで、政府や会社といった後ろ盾をもたない〈日雇いの非正規労働者〉である。
 とはいうものの、忙しそうに働いている気配はない。電話をすればバイクを飛ばしてすぐにやって来るし、旅行に誘えば着の身着のままで何日でもつきあってくれる。日課といえば、午前中に近所のプールで三キロほど泳ぎ、就寝前に二〇分以上かけて歯をみがくことぐらい。つまり、僕と同じように時間をもてあます、その日暮らしの自由人である。
 でも、これはハイさんに限ったことではない。僕が知っている多くのベトナム人は、およそ予定や約束などというモノをもたず、自由気ままに毎日を過ごしているふうである。おもむろに電子手帳を取り出して、「再来週の月曜の夜ならあいてるけど……」なんてもったいつける、無粋な輩はいないのだ。
 ハイさんの話を始める前に、僕の日本の友人「ヒロシ」について触れなければならない。ハイさんは、もともとは彼の友人だったからである。「ヒロシ」こと、写真家の日比野宏さんは、一九八七年の秋から一年三か月をかけてアジアの一六カ国を放浪。その後、ベトナムに何度も足を運び、九〇年代の初頭にハイさんと知り合っている。
 ハイさんの登場シーンは、日比野さんが著書のなかで印象的に書かれているので、その部分を本人には内緒で引用しよう。ドイモイと呼ばれる改革路線が進み、市場経済が導入され、ベトナムが海外からの旅行客を少しずつ受け入れ始めたころの話である。
「ハイさんとの出会いは突然のことだった。そのときの私は、空港のイミグレーションで係官を装った女にパスポートを奪われる目にあったり、深夜の裏通りの一角で自転車の二人組にショルダーバッグをひったくられそうになったりで意気消沈し、周囲に警戒の目を光らせている最中だった。そんな矢先、暗闇のなかからいきなり声をかけてきたのがハイさんなのである。ハイさんはヤマハのバイクにまたがっていた。ベトナム人ばなれした恰幅のよい体格にすぐ目がいった。初対面の私に、『こんなダメな国にわざわざ来てくれてありがとう。そんなあんたのために、オレはいまからこの街の深部をすみずみまで案内してやる』といって握手を求めてきた。『ダメな国でも、この街はエキサイティングだよ』と、少々やけ気味に言葉を返すと、ハイさんは『エグザクト!』と叫んで親指を立てた。そんな彼を最初は受けいれるつもりはなかったが、巧みな英語力と演説調のしゃべりに圧倒されてしまった私は、不安にかられながらもバイクの後部席にまたがった」
 日比野さんはハイさんと一緒に、列車、バス、バイクに乗ってベトナム中を隅々まで巡り、数冊の単行本に収めきれないほどのエピソードと、傑作写真をモノにした。日比野さんにとってハイさんは、ベトナムの旅のパートナーであるとともに、自身の創作活動を支えた最大の功労者なのであった。
 それからさらに数年後、僕は日比野さんの取材旅行に同行するような形でベトナムを旅し、友人としてハイさんを紹介された。アジアブームもやや落ち着き始めた、二〇〇〇年のことである。
 そのころ、僕はフリーの編集者として雑誌や単行本の仕事をしていた。フリーランスという立場に幾ばくかの不安はあったが、何者にも束縛されない自由なキブンが、旅を中心にした日比野さんの奔放な生き方に刺激を受け、それまでまったく関心の無かったベトナムに僕を向かわせたのである。

 「ヒロシ」の仲立ちによって、初対面のときから気の置けない関係となった僕とハイさんは、帰国後もメールでお互いの近況を報告し合っていた。ハイさんの英文は、綴りも文法もめちゃくちゃで、小学生の作文のようであったが、それがかえって、おためごかしのないストレートな気持ちを伝えていた。
「ところで、コウタ、今度はいつベトナムに来るんだ?」
「できれば来年の春あたりに会いたいですね」
 旅のきっかけは毎回こんなふうだった。
 しかし、ベトナムで何をしたい、どこへ行きたいという具体的な希望や計画が僕にはないため、結局いつも同じような場所で、同じような時間を過ごした。
僕らは安飯屋で得体の知れない臓物をつつき、ビアホイと呼ばれる安酒場で氷入りのジョッキを傾けながら、人生について熱っぽく語り合った。そして、寝苦しい夜には、自転車よりも遅いハイさんのバイクの後部座席にまたがって街を徘徊し、ときに社会勉強のために、女人禁制のちょっといかがわしい場所をのぞいたりした。僕はベトナムで、高校生の夏休みのような束の間のスリルと興奮を味わった。
 「ヒロシ」との出会いがよほど印象的だったのか。旅の間中、ハイさんは「ヒロシ」の近況を何度もたずねた。僕はそのたびに彼の仕事のようすや家族のこと、はては最近の女性関係までを事細かに説明した。するとハイさんは、愛弟子の活躍を喜ぶかのように目を細めて、「そうか。つまりヒロシは人生を楽しんでいるんだな」と、わけもなく納得してみせるのであった。
 さらにハイさんは、「二十年前、ヒロシはここでアオザイを着た少女に出会った」とか、「このレストランでイカのフライを食べた」とか、こちらにとってはたいして重要ではない、どうでもいい思い出を得意気に披露するのであった。
 僕はベトナム語を話さないので、ハイさんとのコミュニケーションは英語だ。ところがハイさんの操る英語は、発音が独特で聞き取りづらく、ボキャブラリーも限られているため、本当のことをいうと話の半分くらいしか理解ができない。それでもたくさんの時間を一緒に過ごしているうちに、長年連れ添った夫婦のように相手が考えていること、感じていることがわかるようになるから不思議であった。

 僕らは、親子といっていいほど歳が離れている。ハイさんは一九三八年生まれだから、日本でいえば来年、七十七歳の喜寿を迎えることになる。でも、僕はハイさんの年齢をほとんど意識することはない。もちろん、最初に出会ったころと比較すれば、歩く速度は幾分鈍ったかもしれないが、それでも歩幅は近衛兵の行進のように広く、背筋は定規を当てたようにまっすぐのびている。髪もふさふさで黒々としており、日焼けした腕は筋骨隆々で、丸太のように太い。実際の年齢を教えると、たいがいの人が目を丸くして驚くのであった。
 そんなハイさんが最近、夢中になっていることがある。街で見知らぬ人に声をかけ、自分の歳を当てさせるという他愛もない遊びだ。ハイさんは自分が若く見えることを自慢しているふうであり、足下のおぼつかない年寄りを見かけると相手の年齢を聞き出し、自分のほうが年上であることが判明すると、わざわざ周囲にいる人を呼び止めて「この爺さんが俺よりも若いなんて信じられるか?」と吹聴するのだった。
 最初のころは、面白がってそんな余興につきあっていたのだが、同じ状況が一日に何回も続くと、僕もだんだん煩わしくなり、冷たくあしらうことがある。だけど、儒教国家といわれるベトナムでは、年長者を立てるという習慣が社会の底辺にも浸透しているので、年下のベトナム人は辛抱強くハイさんの自慢話につき合わなければならないのであった。
「この歳になっても元気でいられる秘訣を聞きたいか? 俺は毎朝、コーヒーを飲んでいるんだ。そこに砂糖とミルクをたっぷりと入れ、ウィスキーをちょっぴりたらすのさ。毎日これを飲み続けているから一年中快調でいられるというわけさ」
 コーヒーのおかげだとは絶対に思えないが、たしかにハイさんの体力と気力は規格外だ。ここ十年以上、風邪を引いたことがなく、薬も飲んだことがないという。
 大きな病気こそ患ったことがないものの、一年の四分の一くらいは風邪気味だったり二日酔いだったりするひ弱な僕は、ハイさんの丈夫な体をうらやましく思うのだが、ハイさんの旺盛な食欲を連日のように見せつけられると、ちょっぴり疎ましく感じることもある。
「どうした食欲がないのか? しっかり食べないと、ベトナムの暑さに耐えられんぞ。もし、腹の調子が悪いなら、野菜をたっぷり食べるといいぞ。野菜は腸の中をクリーンにしてくれるからな」
 すでに三種類のおかずと山盛りのライスをたいらげているハイさんは、僕のために“スペシャルメニュー”とやらを注文した。僕の体を心配してくれるのはうれしいが、はっきり言ってありがた迷惑。朝の七時から、大皿に盛られた、ガーリックが利いた空芯菜炒めは食べられない……。

 ウン十年のガイド歴を自慢し、世界中のツーリストを案内してきたと豪語するハイさんだが、正直なところ僕は、ガイドとしての能力をそれほど高く評価していない。業界の最前線で活躍しているようなことをいうわりには、現地の最新情報に疎く、日本のガイドブックに見開きで紹介されている話題の観光スポットをまったく知らなかったりするからである。
 本人は優秀なネゴシエーターのつもりでいるが、その交渉能力についても疑問である。相手が男性の場合は、凄みをきかせて主導権をにぎることもあるが、気が強そうな女性に対しては、こちらが拍子抜けするほどあっさりと折れて、相手の言い値で妥協させられてしまうケースが多かった。
 有名な観光地を訪れたときの、ハイさんのガイドも実にテキトーである。チャウドックというカンボジア国境の町を訪れたときのことだ。この町の近くにそびえ立つサム山のふもとには、土地の女神を祀った廟があり、御利益を求めて全国から巡礼者や観光客が訪れる。関東でいう成田山や高尾山のようなところである。そのときのハイさんの説明はこうだった。
「どうだ、デカイだろ! でも俺はこれくらいふくよかなほうが、健康的で魅力的に思えるんだ。やせぎすの女はあまり好きじゃない」
 その隣では、旗を持った本物のガイドが歴史的背景や由来をていねいに説明しているが、ハイさんの手にかかれば、二〇秒もかからずに「ザッツ・オール!(これでおしまい)」。真剣にベトナムの歴史を知りたい人にとっては物足りないガイドかもしれないが、ベトナムの建築物にさほど興味のない僕にとっては、そのあっさりさがちょうどいいのであった。
 「すべて俺にまかせておけ」といいながら、事前のリサーチもいい加減だった。バスターミナルでは一日三便しかないバスが目の前で出発。目的地に着けばホテルが満室で、僕らはもと来た道をバイクで何キロも引き返して、宿を探さねばなかった。
 万事がこんな感じだから、旅はつねにハプニングの連続で、気もなかなか休まらないのだが、その無計画さがベトナムの印象を鮮烈なものにしてくれたのも確かであった。どんな非常事態に接してもハイさんはいつも冷静沈着だった。たとえ、トラブルの原因の大半が本人にあったとしても、ハイさんの側にいると僕はつねに安心でいられるのだった。
 「ヒロシ」と同じように、僕の中で、ハイさんはなくてはならない存在になっていた。

「コウタ、楽しんでるか? 明日がどうなるかなんて誰もわからないから、思うぞんぶん、楽しんでくれ」
 ベトナム滞在中、ハイさんが何度も口にする、お決まりのセリフだ。毎日聞き続けているものだから、僕はつい無反応にやり過ごしてしまうが、ハイさんの過酷な人生を知ると、その言葉は重みをもって心に響いてくる。それを味わうには、ハイさんの歩んできた道を少しだけ知らなければならない。
 ハイさんの人生は、ベトナムの戦争の歴史と重なっている。
(次回に続く)

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2件のコメント

誰も知らなかったベトナム、ハイさんの大きさ、豊かさ、そして、人間というものの奥行が、ベトナムの裏側、深部にうごめく人々を通して、コウタは知ることになるのでしょうか。異色のレポート、夏休みの日記、とても楽しみです。

by ヘチマ - 2013/06/18 10:19 AM

私もいい加減にハイさんを捉えていたので、なるほど! と再認識しました。ハイさんって、自分が思っていたとおりの人だったんだな、と。続きが楽しみです。沖縄より

by ヒロシ - 2013/07/09 7:42 PM

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コメント


村瀬 航太
村瀬 航太

むらせ・こうた/1970年、東京生まれ。確定申告書の職業欄に記入するのは「著述業」。自宅でクサガメの世話をしたり、大相撲中継や映画を観たり、マイナーな海外アーティストの音楽ライヴに足を運ぶ傍ら、出版編集にかかわる仕事をたまにしている。専門ジャンルはとくにないが、相手によって「写真が好きです」とか「実用書全般を手がけています」などと真面目な顔でテキトーにこたえている。

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