salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

四十二才の夏休み

2013-06-25
ベトナムのハイさん その2

 ハイさんは、一九三八年にフランス統治下のハノイで生まれた。第二次大戦が終結すると、北の共産主義化を嫌った父に連れられて、南のサイゴン(現在のホーチミン市)へ移住。一九五四年にベトナムが北と南に分断されると、ハイさんは南ベトナムの軍人となった。ベトナム戦争では、メコンデルタのカントー第四区司令部に所属し、下士官としてアメリカ軍と作戦行動をともにした。ヘリコプターに乗って、上空からジャングルにひそむ北ベトナム軍やベトコンの動きを探っていたという。
 一九七〇年生まれの僕には、ベトナム戦争の記憶はない。だけど、ベトナムを描いたハリウッド映画はたくさん見ているので、戦場のようすをフィクションの映像として思い浮かべることはできる。
 M16を肩に担ぎ、ラッキーストライクをくわえた、迷彩服姿のハイさん。気さくで面倒見のよい親分肌のハイさんは、戦地に赴いたばかりの若い兵士に慕われ、尊敬されたことだろう。でも、終戦後のハイさんの過酷な運命は、なかなか想像することができない。
 南北統一の象徴となっている旧南ベトナム政権の大統領官邸は、いまは〈統一会堂〉と名をかえて、ホーチミン市の中心にたたずんでいる。現在の政府によって、解放軍の戦車やヘリコプターがこれ見よがしに並べられた、その建物の前を通りすぎるとき、ハイさんはしんみりとした調子で、凄惨な体験を話しだすことがある。
 戦争が終わって南北が統一された翌年、ハイさんは戦争犯罪人として〈再教育収容所〉という名の刑務所に拘束された。過酷な強制労働によって、ハイさんの体重は現在の半分以下の三十七キロまで落ちたという。だが、ふだんは陽気で饒舌なハイさんも、三年におよんだ収容所での生活については、あまり多くのことを語ろうとしない。
 ハイさんが収容所で過ごしたのは、四十代前半の時期なので、ちょうど今の僕と同じ年齢にあたる。歴史の教科書には、サイゴン陥落はベトナムが長い植民地支配から解放された日として記録されているが、ハイさんは当時、どのような思いで戦争終結の報を耳にしたのだろうか。
 やがて中国がベトナムに侵攻すると、中越戦争が勃発。中国国境の町、ラオカイにいたハイさんは身の危険を感じて収容所を脱出し、命からがら妻のもとへ逃げ帰った。
 ところが、社会主義としての道を歩み始めたベトナムは、以前とはまったく違っていた。かつて南ベトナムの首都だったサイゴンは、革命の指導者〈ホー・チ・ミン〉の名前に変わり、紙幣にはすべてその顔が印刷されていた。街はベトナム人民軍の支配下に置かれ、至るところに戦勝を記念するモニュメントや博物館が作られていた。八〇年代、外国からの援助を断たれたベトナムの経済は、年率七〇〇パーセントのインフレを引き起こし、通貨は下落の一途をたどった。
 九〇年代初頭、祖国での生活に見切りをつけたハイさんは、兄が暮らすアメリカヘの移住を決意。二歳になったばかりの娘をいったん親類のもと預け、妻とともにオレゴンへ飛んだ。
 しかし、アメリカでの生活は長く続かなかった。理由はよくわからない。アメリカの食事が繊細なハイさんの舌に合わなかったのかもしれないし、もしかしたら金になる仕事が見つからなかっただけなのかもしれない。でも、ハイさんにとってのいちばんの気がかりは、ベトナムに残された娘のことだったのではないかと、僕は思う。いつまで経っても娘の出国許可を出さないベトナム政府の対応にしびれを切らしたハイさんは、今度はアメリカに妻を残し、娘のいるベトナムに一人で戻った。
 こうして父娘二人だけの生活が始まった。六十近い年齢で、しかも南の軍人だったという経歴をもつハイさんが、ベトナムでまともな職業につくのは容易なことではなかったのだろう。ハイさんは戦争中に独学で学んだ英語力にさらに磨きをかけ、欧米人を相手にした通訳兼観光ガイドの仕事を始めた。ハイさんは空港や市内の観光地で客をつかまえると、彼らをベトナムの恥部に案内し、世界に報道されることがない貧困生活の実態を披露した。それは、この国の将来を案じるハイさんができる、ただひとつの救国の策だった。

 2区と呼ばれる貧困街の一角にあるカラオケバー。照明を落とした薄暗い部屋の隅で、数人の若い娘が膝に手を置いてしおらしく座っている。その中心にいるのは、ハイさんだ。
 数分前、片言の英語も理解しない彼女たちの接客に、もどかしさを感じていた僕は、事態を打開すべく、マイクを握ってアカペラで喉を披露した。それはベトナム国営テレビの特別番組で繰り返し耳にしていた、古いベトナムの歌だった。ゆったりとしたテンポとメロディが心地よかったので、知らず知らずのうちにおぼえてしまっていたのである。
 歌い始めてすぐ、僕は「しまった」と思った。歌詞の中に偉大なる指導者〈ホー・チ・ミン〉の名前が登場することに気づいたからだ。ところが、そんな心配をよそに、女の子たちは声を合わせて陽気に歌いだした。
 予想通り、ハイさんの顔色はみるみるうちに変わった。
 合唱が終わると、ハイさんは女の子たちを自分のまわりに座らせて、話を始めた。
「この街がかつてサイゴンと呼ばれていたのを、もちろんお前たちは知っているな?」
 時折こっそりとあくびを噛み殺しながら、女の子たちは神妙な面もちを装って、年長者の話に耳を傾けた。ハイさんの演説は、ベトナムの今後のあり方におよんだ。ベトナムがインターナショナルな国家として認められるには、国際共通語である英語をまず理解し、民主化を成し遂げなければならないということ。そのためには、海外から配信されるニュースにも関心をもち、世界の情勢に目を向けばなければいけないと、ハイさんは力説した。
 僕が心待ちにしていたサイゴンの夜は、ハイさんの独擅場となった。

「この町は変わりすぎて、別の場所のようになってしまった」
 郊外の町を訪れると、ハイさんは決まって、こんなセリフをはいて、大げさにため息をついた。そして「最近までここにフェリー乗り場があったんだ」と、感慨深げに言葉を続けた。だけど、町の人に聞いてみれば、港が整備されて橋が架けられたのは十年以上前の話だったりする。
「コウタ、気をつけろ。そのあたりの茂みにベトコンがひそんでいるかもしれないからな」
 ハイさんの理解を超えるスピードで変化を続けるベトナム。旅行者が日帰りで体験できるメコンデルタのクルージングも、ハイさんがそんな笑えない冗談を口にすると、目の前の風景が一変し、救出用のヘリコプターが頭上から接近してくるような気がした。
 きっと、ベトナムを長く見続けたハイさんにとっては、十年前や二十年前なんてつい先日のように思えるのだろう。もしかしたら、アメリカ軍が撤退したのも、最近のことだと感じているかもしれない。
「このごろはあまり見かけなくなったが、このあたりには〈ホンダガール〉と呼ばれるバイクに乗った売春婦たちがたくさんいてな。こんなふうに夕涼みをしながら、男たちを手招きしていたものさ」
 ハイさんの〈ホンダガール〉という単語を聞き取ったのだろうか? 隣に座っていた妙齢の女性が、さげすんだような目で僕らを一瞥した。

 メコンデルタの最大の街、カントー。夕暮れになると、川沿いの公園には涼を求めてたくさんの旅行者が集まる。その近くに、英語メニューを置いたハイさんお気に入りの食堂があった。僕らはハイネケンを注文し、この日何度目かの乾杯をした。店の奥では、馴染み客らしいアメリカ人の一団が、バースデイケーキを囲んでにぎやかに盛り上がっていた。ハイさんは彼らに向かってビール瓶を高く掲げると、「エンジョイ!」と叫んで、親指を突き出してみせた。
 ハイさんは、僕のほうに向き直ると、いつもより低い声でつぶやいた。
「結局、戦争は誰も幸せにしないんだ……」
 世界中の人権活動家や平和主義者たちが呪文のように唱えるスローガンだが、ハイさんの口から発せられると、言葉にその何百倍の重みと悲しみが加わった。
「ブルシット!(くそっ!)」
 たったいま、客のアメリカ人が会話の中で何気なくつぶやいた言葉を、ハイさんはさっそく自分のボキャブラリーにインプットし、僕の前で使った。
「戦争でたくさんの仲間が死んでいった。友達であれば四十人、顔見知りであればその十倍はあの世へいっている。だけどな、不思議なことに、俺の体には銃弾すらかすったことがないんだ。そんなことって、信じられるか?」
 ハイさんは「戦争」や「死」について語っても、必要以上に暗く湿っぽくはならない。心の奥は傷を負っているのかもしれないが、「生」に対する前向きさと、これまでの人生に立ちはだかってきた桁違いの困難が、ネガティブな思考を吹き飛ばしてしまうのだろう。
 アメリカで暮らしている妻とは、いつの間にか連絡が途絶えてしまったが、ハイさんには新しいガールフレンドができた。ハイさんがここだけの話だといって教えてくれたのは、彼女は戦争で家族も財産もすべて失っていて、出会った頃はホームレス同然だったということ。ハイさんはそんな彼女の境遇に同情して、食事と住む場所を与えたのだそうだ。現在、ガールフレンドとハイさんの娘は、誰が見ても本物の母娘であることを疑わないほど仲良く暮らしているが、彼女が背負ってきた境遇もまた、ベトナムの歴史を象徴しているのだろう。
 ハイさんの自宅は、かつてアメリカの軍事施設だったタンソンニャット国際空港の近くにある。ベトナムを訪れるたびに、僕は家に招かれるのだが、その暮らしぶりはお世辞にも快適そうとは言えず、事情を知らなければ物置かガレージだと思うほど粗末な作りであった。
 ところが今年、ハイさんの家を訪ねると、生活が変わっていた。昨年の娘の結婚、そして孫の誕生をきっかけに二世帯住宅となり、各階トイレ付きの三階建てに改築されていたのだ。室内の壁はペンキで白く塗り直され、二階に続く梯子はタイル張りの階段に、すすけたブラウン管テレビは薄型の液晶テレビになっていたのだった。
 改築にかかった費用は、およそ一二〇万円。都市部の平均的な労働者の月収が一万円ほどといわれるベトナムでは、目もくらむ大金である。
「大家がとてもいい人でな。ローンでの返済をすすめてくれたんだ。本当ならこの歳で借金なんかできないんだが、俺の元気な姿を見て、回収できると踏んだんだろうな」
 銀行に勤めている娘は、こっそり僕の耳元で「私も多少援助しているのよ」と耳打ちしたが、初孫を抱き上げるハイさんの耳に、そんな告げ口は届かなかった。孫をあやすハイさんの顔は、僕がこれまで見たことがないほど無防備で、幸せそうだった。

 日中、四十度近くまで上がった気温もようやく下がり、カントー川から吹くひんやりとした風が、シルクのように頬をなでつけた。
「いいか、コウタ。人生の先輩としていうが、ちょっと仕事がうまくいかないくらいでクヨクヨするな。人生はサバイバルだから辛い時期もある。だけどそれを耐え抜けば、いつか必ずいいことがあるんだ」
 ハイさんのエールに、僕はだまってうなずいた。ハイさんは身を乗り出して将来の計画を話し始めた。
「体力に自信はあるが、いつまでもというわけにはいかない。でもな、あと八年は現役で仕事を続けられる気がするんだ。だから、そのために俺は、健康管理を怠らず、明日も五時半に起きてコーヒーを飲み、プールで三キロ泳ぐというわけさ」
 話の内容はいつもとたいして変わらなかったが、〈もしかしたら人生はそんなに悪いもんじゃないかもしれない〉というポジティブな気持ちがわいてきた。
「コウタ、俺が年金をいくらもらっているか知っているか?」
 僕はわからないと首を振った。
「答えはゼロだ。再来年、満八十歳になれば、月額十ドルが支給されるが、たったそれっぽっちの金じゃあ、一日の食事にもならないよな。ベトナムは平等で公正な社会主義の国だと思われているかもしれないが、その恩恵に授かれるのは一部の特権階級だけなんだよ」
 気がつくと、先ほどまで空を真っ赤に染めていた太陽は沈み、あたりは薄闇に包まれていた。
〈さあ、そろそろ街に繰り出してメコンデルタの夜を満喫するか〉
 そんな気持ちが僕らの間でテレパシーのように伝わり、支払いを済ませて立ち上がろうとした瞬間、川沿いの公園の照明が一斉に点灯した。ハイさんの背中で、片手を上げてにっこりと微笑む〈ホー・チ・ミン〉の銅像が、金色に輝いていた。

(ハイさんの話、次回もたぶんつづく)

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1件のコメント

岩波新書の「死の商人」の巻頭に、確かこんなアラブの昔話が載っていました。ある男が昼寝をしていると、兵隊たちの行進の足音に起こされました。男は、兵隊たちに聞きました。「どこから来たんだ」。兵隊たちは答えます。「平和からさ」。男はまた聞きます。「で、どこへ行くんだい」「戦争さ」。男はさらに聞きます。「で、そのあとは?」。兵隊たちは答えました。「平和に決まっているさ」。それなら元の平和に居ればいいのにと思い、男はあきれて、また寝てしまいました。――といった内容だったと思います。「戦争は、誰も幸福にしない」というのは、ちょっと不正確かもしれません。「一握りの人を除いて、誰も幸福にしない」というのが、正しい言い方のような気がします。

by ヒノキの書見台 - 2013/06/26 4:52 PM

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村瀬 航太
村瀬 航太

むらせ・こうた/1970年、東京生まれ。確定申告書の職業欄に記入するのは「著述業」。自宅でクサガメの世話をしたり、大相撲中継や映画を観たり、マイナーな海外アーティストの音楽ライヴに足を運ぶ傍ら、出版編集にかかわる仕事をたまにしている。専門ジャンルはとくにないが、相手によって「写真が好きです」とか「実用書全般を手がけています」などと真面目な顔でテキトーにこたえている。

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