salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

四十二才の夏休み

2015-06-25
いざというときの
葬儀の準備と心構え

 伯父のお迎えがそろそろだということで、去年の秋ぐらいから、葬儀の準備を進めていた。別に伯父に身寄りがないわけじゃない。親戚の中で僕がいちばん暇であり、とくに可愛がられていたという事情もあって、なんとなくみずからその役を買って出たのである。
 僕はさっそくお寺に電話をして、住職に病状を報告し、「この様子では年内はもたないので、よろしく」と頭を下げ、葬儀社に直接足を運んで、葬儀の規模や参列者の数などを告げて見積もりを依頼した。
 ふだん、仕事では人一倍腰が重いくせに、こういうときのフットワークはなぜかすこぶる軽い。数日のうちに遺影用の写真を選んで四つ切りサイズに引き伸ばし、Amazonで額の注文まで済ませた。写真は、数年前に両国国技館の力士通用門で僕が撮影したものだった。伯父の隣に並んでいるのは、幕下に昇進したばかりの臥牙丸。将来有望といわれていたグルジア出身の巨漢力士の身長が、自分とたいして変わらないことに気をよくした伯父は、最高の笑顔で写真に収まった。

 葬儀の手配を任せられたのは三度目だった。最初は義父のときだ。ずいぶん前、「いざというときの葬儀の準備と心構え」みたいな本をつくったことがあるので、一般的な葬儀の手順はだいたいわかっているつもりだった。だけど実際、葬儀を依頼する立場になってみると、物事はそう単純にはいかないものだった。あわただしい時間の中で、故人の社会的立場、家族の意向、地域の風習やらが複雑に絡み合う。悲しみの中で気丈にふるまう義母への遠慮や気兼ねもあった。だから僕は「じゃあ平均的なところでお願いします」と、葬儀社に下駄を預けてしまった。
 これがいけなかった。結果、ひっそり見送りたいという計画に反して、豪華すぎるほどの祭壇がしつらえられ、新盆のときには、部屋に入り切らないほどの大きな提灯や飾り物が用意された。義母はそれなりに満足しているようだったが、予想以上の出費をさせてしまい、僕は反省しきりだった。

 そのときの苦い経験があったから、数年後の自分の父のときは譲らなかった。極端なほど信心を持たず、何よりも形式や儀礼を嫌った父だったので、依頼は簡単だった。祭壇はいらない。読経も戒名もないから、お寺に払うお布施は不要。本当は棺も装束も省略したかったが、パジャマを着せたまま、ゴザの上に乗せて焼き場に運ぶのは決まりが悪かったので、いちばん価格が安い最低ランクのものを用意してもらった。
 葬儀屋は一瞬、こちらを侮蔑するような表情を見せたが、僕は主張を曲げるわけにはいかない。葬儀に対する僕の執念は、父を失った悲しみにも勝り、1円たりとも余計なお金を支払わないぞという大人げない気迫をともなって、葬儀屋の機先を制した。
 ところが、最後の最後に詰めの甘さが露呈した。納得がいかなかったのは、納棺の際、父の足下に納められた折り詰めのお弁当だった。それは「地域の風習なので絶対に削れませんから……」と、葬儀屋に半ば脅され強制的に用意させられたものだった。値段は消費税込みで5250円(2011年当時)。中身はいったいどんなものなのだろうか? 母も訝しがっていたらしく、棺の蓋が閉められる直前まで、包みを持ち上げたり、ゆすったりしていた。あとでいろいろと調べてみたのだが、棺に弁当を納めるのは、地域の風習などではなく、その葬儀屋が近所の仕出し屋さんと考えた独自のルールみたいなものであった。僕は、ヤラレタ、と思った。

 そして、今回の伯父の葬儀である。愛着のあるお寺でお別れをしたいという家族の意向はあったが、できるだけお金をかけたくないというのは、父のときと同じだった。今回こそ葬儀屋のいいなりになるわけにはいかなかった。僕は見積書の金額をしつこいくらいに何度も確認し、お寺や墓石屋とさまざまな交渉を重ねた。
 一方、主役の伯父は、「もって年内」という医者の予想を裏切り続け、「お年の割に心臓が丈夫なんですね」などと看護婦におだてられているうちに、気がついたら年を越していた。きっと、僕らが枕元で葬儀の話ばかりしていたから、伯父は意識の遠くのほうで「冗談じゃないよ。ふざけんなよ」と思っていたに違いない。結局、伯父はその年の桜の開花まで持ちこたえ、三月に息を引き取った。
 家族は一年以上にわたって十分な介護をし、みんなが少しずつ覚悟を固めていたので、必要以上に気落ちしている人はいなかった。伯父の娘(僕の従姉)などは「何かあったらよろしく」と爽やかに言い残して、前日に友達と旅行に出かけたほどである。けろりとしていたのは僕も同じだ。実の親よりも身近に感じていた伯父なので、相当なショックを受けると思っていたが、まったく涙が出なかった。

 深夜に訃報を聞きつけて、僕はすぐに病院に向かった。まずやるべきことは、住職と葬儀者への連絡である。ずいぶん間があいてしまったので、忘れられていないだろうかと心配したが、相手はこちらが挨拶するよりも先に「ご愁傷様です」と切り出した。
 葬儀までの段取りは、僕がほぼ頭の中でシミュレーションしたとおりに進んだ。葬儀屋がこっそり教えてくれた費用のかからない裏ワザ(深夜の搬送は時間外手当が加算されるので、遺体は朝まで病院で預かってもらうといい)も役立ち、家族がほぼ望むような形で葬儀を執り行うことができた。葬儀屋ともだいぶ打ち解けた関係になり、親戚の前で「伯母のときもよろしく」と言って顰蹙を買ってしまったのは余計だったが、葬儀屋に抱いていた敵対心とわだかまりは、いつの間にか無くなっていた。

 四十九日法要と納骨を済ませ、すべての責任から解放された後も、伯父が死んだという実感は沸いてこなかった。そして不思議なことに、あれだけに心血を注いだはずの葬儀なのに、当日の様子は断片的にしか思い出せなかった。出棺の見送りも、骨上げも、精進落としのお弁当の味も、僕の記憶から抜け落ちているのである。
 ところが最近、ふとした瞬間に、伯父がもうこの世に存在しないのだという事実に気づかされることがある。たとえば、伯父が愛してやまなかった読売巨人軍の救援投手が撃ち込まれたとき。神田駅の改札を抜けてウナギの蒲焼の匂いがぷんと鼻孔に漂ったとき。銀座の晴海通りを歩いていて新しい歌舞伎座の建物を見上げたとき。伯父が期待していた力士が千秋楽でようやく勝ち越しを決めたとき。寂しさに襲われるというほど大げさなものではないが、生前であればなんとなく伯父の声が聞きたくなって、電話をした場面である。
 葬儀がセレモニーに過ぎないことはわかっているが、人は儀礼を通過することなしに、身近な死を事実として受け入れ、悲しみを鎮めることができないのではないか。三度の葬儀を経験して、僕はそんなことを感じ始めている。
 葬儀屋を他人の悲しみにつけ込む悪者だと勝手に決めつけ、一方的に敵対心を燃やしていた僕だったが、今は少しだけ考えを改めている。

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村瀬 航太
村瀬 航太

むらせ・こうた/1970年、東京生まれ。確定申告書の職業欄に記入するのは「著述業」。自宅でクサガメの世話をしたり、大相撲中継や映画を観たり、マイナーな海外アーティストの音楽ライヴに足を運ぶ傍ら、出版編集にかかわる仕事をたまにしている。専門ジャンルはとくにないが、相手によって「写真が好きです」とか「実用書全般を手がけています」などと真面目な顔でテキトーにこたえている。

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