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四十二才の夏休み

2013-10-25
貧乏の系譜 その1

「貧乏はするもんじゃない。味わうものだ」というのは五代目古今亭志ん生の至言だが、江戸っ子には苦労を苦労と思わず、逆境を余裕で笑い飛ばそうとする性分があるらしい。かくいう僕も東京生まれの東京育ち。江戸っ子を気取るつもりはないが、自分の祖父や伯父伯母、自分の母親を見ていると、同じ血を引いているのだなとつくづく感じることがある。

 明治生まれの母方の祖父は、神田錦町に店を構えるYシャツの仕立て職人だった。話を膨らませるのが天才的にうまい伯父(祖父の長男)が伝えるところによると、界隈ではなかなか腕の立つ職人であり、神田駿河町出身の吉田茂首相も黒塗りの車に乗って駆けつけたことがあるという。
 しかし、祖父には重大な欠陥があった。あたりまえの経済原則を理解できなかったのである。注文を受けると、前金をあっという間に使ってしまう。だから、家賃や生地代が払えずにツケがたまる。その結果、わずかな収入はすべて支払いに回って、毎日の食事にもこまるという、貧乏のお手本のような生き方を実践していたのである。
 祖父が人並みはずれた酒飲みだったり、博打打ちだったり、女遊びが派手だったという話は聞いたことがない。それなのに生活が安定しなかったのは、お金が入ると仕事をほったらかしにして芝居や寄席に出かけ、寿司屋で江戸前の穴子を頬張り、残りは当たりもしない宝くじにつぎこんで、きれいさっぱり使い果たしてしまったからである。だから当然、首相のもとにYシャツが届くことはなく、自宅兼仕事場はいつも借金の取り立て人と、催促にきた客で賑わっていた。
 傑作なのは、債権者や客に対する祖父の言い訳である。
「ええ、おっしゃるとおりです。来週には耳をそろえて気持ちよくお返しします」
「いいところにお出でくださいました。生地が入荷したのでちょうど今、取りかかろうと思っていたところです」
 祖父の口からポンポンと飛び出す、反省のない言葉を聞くと、その場しのぎの言い訳だとわかっていても、ほとんどの人が「なんだよ、またかい? しょうがねぇなぁ」とあきれて帰ってしまったという。

 貧乏の原因は、祖父の多趣味にあった。道楽というほどの資金はなかったが、祖父にとって、日銭を使い果たすくらいの暇つぶしは十分すぎるくらいにあった。落語、都都逸、活動(映画)、新国劇、六大学野球……。なかでも歌舞伎は生活の中心をなしていて、歌舞伎座で好きな演目がある日は、朝からそわそわして仕事が手につかなかった。
 祖父は“大向う”をつとめていたので、歌舞伎座へは木戸銭を払わずに、警備員に敬礼をして裏口から入った。大向うとは、観客席の上のほうから威勢のいい声で「成田屋!」とか「音羽屋!」と叫ぶ人たちのことである。掛け声は役者にとって芝居のきっかけをつかむ重要な合図になるため、職業ではないのだが一応専門家として認められる人がいて、祖父もその一人に名を連ねていたらしい。
 ちなみに、小学生のときから親にくっついて歌舞伎座に通っていた伯父は、通路に座らされて同じ演目を何度も見続けているうちに、セリフをそらんじることができるようになってしまった。近頃はあまり披露する場面がないと嘆く伯父の特技である。

 祖父の妻、つまり僕の祖母は、結核で若い頃に亡くなっていた。戦争中、祖父が徴兵を免れて、東京で生活を続けてこられたのは、父子家庭だったからだという。そんな優遇措置を受けていたにもかかわらず、息子や娘たちは、「子供としてかわいがってもらった記憶がまったくない」と口をそろえて言う。
 伯父の話によれば、たまに気まぐれで野球のグローブなどを買い与えられても、三日とたたずに質に入れられ、秋に買ってもらった防寒用コートも冬が来る前に質に流れてしまったという。友達にはグローブをなくしたとウソをつき、薄手のセーター一枚で真冬を過ごした伯父の心中は、さぞかし複雑だったに違いない。
 質屋通いの常連だった祖父への恨みは、一足早く社会人になっていた長女、つまり僕の伯母が一番強く抱いている。彼女が今も許せないのは、買ったばかりの日傘を、その日のうちに質に入れられたことである。しかも祖父は、日傘の行方を尋ねた伯母に向かって、「さ~、しらねえな~。よそで忘れてきたんじゃないかい? よく探してごらんよ」と、何食わぬ顔で答えたという。これにはさすがに腹が立った。祖父の目に触れる場所に置いたのが悪いと、周囲の大人になだめられたそうだが、気の強い伯母は納得がいかない。翌朝、質屋を歩き回って日傘を見つけ出すと、伯母は鬼の形相で祖父につかみかかったという。
 当時の出来事を蒸し返すと、伯母は今でも頭の上に湯気を立てて本気で怒り、伯父と母は涙を流してゲラゲラと笑う。自分たちに降りかかった不条理をネタとしてしまうあたり、やっぱり彼らは江戸っ子なのである。

 生まれたばかりの僕を抱いた祖父は、「この子は侍のような顔つきをした子供だ」と言って喜んだという。その真意はよくわからないが、人生の終盤に誕生した孫にも、プライドを持って、人生を味わい尽くしてほしいと願ったのかもしれない。
 慢性的な生活困窮者にかかわらず、糊の利いたYシャツをいつも身につけ、外出のときはジャン・ギャバンを気取った中折れ帽をかぶり、チャールズ・チャップリンの哀愁のある仕草と、八代目三笑亭可楽の渋みのある声音を真似て悦に入っていた洒落者の祖父。自分の楽しみを何よりも優先して、家族に苦痛を強いるのはいかがなものかと思うが、スッカラカンの財布には、退屈な日常と運命に吸い込まれまいとする、江戸っ子の反骨心と見栄、痩せ我慢が詰まっていた。
 武士は食わねど高楊枝。胸を張って大きな声では言えないが、その遺伝子は明らかに僕が受け継いでいる。困ったものである。


クサガメのカメリ。さむいさむいというのでヒーターをつけてやりました(※写真と本文は関係ありません)

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4件のコメント

いいなあ。お金をからかっている。世間を愚弄して人生を謳歌している。これこそ真の貴族。目指すところだ。でもなあ。世間や周囲の非難に耐えるには、どんな才能が必要なのか。愛嬌かな。厚顔かな。次回はそのあたりをもっとていねいに教えてください。

by こうたくんの友達 - 2013/10/25 5:41 PM

コメント届いたかなぁ

by ヒロ - 2013/10/31 10:17 PM

面白くて笑ってしまいました。間違いなく私達孫もその血を引いているのね♪本当に楽しいお祖父ちゃんだった☆

by ヒロ - 2013/10/31 10:20 PM

さすがの

by あきら - 2015/01/11 12:48 PM

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コメント


村瀬 航太
村瀬 航太

むらせ・こうた/1970年、東京生まれ。確定申告書の職業欄に記入するのは「著述業」。自宅でクサガメの世話をしたり、大相撲中継や映画を観たり、マイナーな海外アーティストの音楽ライヴに足を運ぶ傍ら、出版編集にかかわる仕事をたまにしている。専門ジャンルはとくにないが、相手によって「写真が好きです」とか「実用書全般を手がけています」などと真面目な顔でテキトーにこたえている。

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