魚見幸代(以下、魚見) |
平野さんは『決壊』や『空白を満たしなさい』などの小説で、対人関係ごとに見せる複数の顔がすべて「本当の自分」という考え方「分人主義」を提唱されています。どのようにして「分人」は生まれたのですか?
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平野啓一郎さん(以下、平野) |
対人関係ごとにいろんな自分になるということは、多くの人が経験していることだと思うんです。職場の人と恋人と同じ態度で接する人なんていないですよね。
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魚見 |
はい。そこは、なんとなく理解しています。「友人」というくくりでも、相手によって子どもっぽくなったり、真面目に意見を交わしたりと変わる自分もいます。
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平野
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問題は、それを肯定的にとらえられないことだと思うんです。いろんな顔を使い分けているとか、演じ分けていることをネガティブに考えがちで、「本当の自分」は違うんじゃないかと思い悩んでしまうことが問題だと思うんです。まずそれを肯定的にとらえることを考えるというのが、根本的な発想です。
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魚見 |
それで新書『私とは何かー「個人」から「分人」へ』で、「個人」という語源からひも解いていったのですか?
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平野
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もともと「本当の自分」という考え方が、「個人」という概念に基づいた発想で、それ自体が実は、一神教であるキリスト教の信仰や論理学といった、西洋の文化的な背景を持った概念なんです。「常にただひとつの“本当の自分”で一なる神を信仰しなければならない」というのがイエスの教えでした。もうひとつの論理学ついては、椅子と机を思い浮かべてみてください。机は机でそれ以上分けられず、椅子は椅子で分けられない。差異によって分けられない最小単位が個体であり、人間の場合は「個人」。これは分析好きな西洋人の基本的な考え方です。
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魚見 |
日本語には「個人」という言葉はなかったのですね。
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平野
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日本語の「個人」は、英語のindividual(分けられない)の翻訳で、一般に広まったのは明治になってからです。日本においても、国家と国民、会社と一社員、クラスと一生徒…といった具合に、近代国家が成立していくためにはすごく重要な概念でした。ところが、生活実感の中で、実際にはいろんな人といろんな自分になってコミュニケーションをしている。一方でこのことを肯定的にとらえるには、言葉の成り立ちを理解したうえで、どうやって考えていくべきかを見る必要があると思いました。
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魚見
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「本当の自分」はあって、しかも、ひとつではないと?
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平野
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僕が大学生の頃まではポストモダン・ブームが続いていましたから、その頃は「本当の自分」へのこだわりなど時代錯誤な悩みだとされ、よく「人間はタマネギなのだ」という手軽な説明がされていました。つまり、人には自我があるように思われているが、実はタマネギのように社会的な属性を剥ぎ落としていった先には何も残らない。つまり「本当の自分」などないと。僕はそういう理屈に、嫌悪感を感じていました。
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魚見
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「自分探し」というのも流行りましたよね。言葉自体は青臭いですが、それでも「探してもそんなものはない」と言われても腑に落ちなかったです。
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平野
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浅田彰氏の『逃走論』という本があり、流行しました。人間をひとつのことにこだわり続けるタイプ<パラノ>と、いろいろなことに興味をもってあちこち逃げ回るタイプ<スギゾ>と分類して、スギゾを称揚していましたが、結局、逃げ回っていてもなにもできないとは思うんです。なにかを成し遂げるには、一定期間、継続的にある同じ人たちと共同でやっていく必要がどうしてもあります。ということは、どうしてもそこに関与する自分が必要なんだけど、それが自分のすべてになってしまって、逃げられなくなるというのは確かに危険です。だったら、逃げ続けるということではなくて、複数の場所に同時に帰属していて、そのひとつひとつの自分をある意味相対化する。ひとつの思考やひとつのコミュニティに完全にとらわれてしまわないってことが大事なのではないか、というのが核になる考え方です。
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魚見
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最初に平野さんの作品を手にしたのは『空白を満たしなさい』なんですが、この小説は自殺をテーマにされています。「逃げられなくなる危険性」を伝えるために取り上げられたのですか?
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平野
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「死」というのは、人間の根源的な問題というか、突き詰めると人間にとって重要なものは「死」以外にないと思うんですよ。生きていて、いつか死ぬというその大問題だけは、どんなに科学が発展しても乗り越えられない。
僕は『空白を満たしなさい』より前に『決壊』という作品で人が人を殺してしまう殺人について考えたんですけど、その後、否定的な感情が社会に向かうのではなく、自分に向かってしまうということを考えたくてテーマにしました。
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魚見
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私は3.11の震災後、自分の存在があまりにも心もとないものだと感じて、漠然とどう生きたらいいのかという、処理できない気持ちにぶち当たって、なんだかこの作品にひかれていったんです。
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平野
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この作品を出して以降、地方自治体や精神科医が開催している自殺に関するシンポジウムに招かれて参加してきましたけど、「自殺」ではなくて「自死」という言葉を使いましょうという方もいるんですね。自分を殺すという文字が強烈だから。僕はそれはどっちがいいか、なんとも言えないところがありますが、ただ自分で死ぬということは、何らかの葛藤があるんだと思うんです。自分というのを対象化して、こんな自分ではダメだとか、こんな自分は嫌だと否定したり責めたりする自分がいる。それは、もっと向上しないといけないとか、きちんと生きないとダメだとか、一見ポジティブな考えをもっている自分こそが、実は自分を否定して追いつめているんじゃないか、ということを考えたくて。それは現代の社会風潮とも重なっていると思うんです。お金がないなら努力して働けとか、一見正しいようなことを押し付ける。
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魚見
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『空白を満たしなさい』は死んだ人間がよみがえるというお話で、主人公は自殺したサラリーマン。復生したときに、自分は自殺をするような人間ではないと自らの死の謎を追究していきます。これまでの自分が「自分」のなかに、思ってもない自分を見つけたとき、それが嫌だと思うほどに、自分になにが潜んでいるのかと怖くなります。
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平野
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フロイトは「超自我(常に道徳的、意識的であろうとする精神)」といって、抽象的な概念で整理していますが、僕は分人という考え方でそれを整理できるんじゃないかと思ったんです。子どものときから影響を受けてきた親との分人とか、学校での分人とかが、不如意な分人を責めているのではないか。そこを可視化して整理していくと、よくわからないまま苦しみ続けている状態から抜け出していけるんじゃないかと思うんです。
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