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| 編集部多川(以下多川) | 私は1970年生まれなので、80年代の音楽番組「ザ・ベストテン」や「ヒットスタジオ」で、当時大ヒットした演歌の名曲「雨の慕情」「舟唄」を聴いて育った世代。そんな雲の上の方にお会いできるなんて本当に信じられないくらい光栄です。まずは1971年のデビュー以来40年以上、演歌の女王として歌謡界に君臨し続けている八代さんの原点、なぜ演歌歌手をめざそうと思ったのか「八代亜紀」誕生のルーツからお聞かせいただきたく思います。 |
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| 八代亜紀さん(以下八代) | 私がデビューした70年代当時は、まだ「演歌」というジャンルがなかったんです。それまでは歌手の歌=歌謡曲という時代で、77年の「おんな港町」で初めて、演歌と呼ばれるようになったんです。なぜかというと、ちょうどその頃、それまでのフォーク、ロック、歌謡曲とは異なるシンガーソングライターが登場していて、彼らの歌は「ニューミュージック」と呼ばれるようになり、そこで初めて音楽ジャンルが分かれるようになった。それまでは、テレビに出ている歌手はみんな流行歌手で、その中にアイドル系がいたり、大人系がいたり、フォークがあったりという感じだったから。 |
| 多川 | 女の悲しみ、情念を歌い上げるという意味から「艶歌」、「演歌」なんですよね。 もともと八代さんは戦後の歌謡曲を聞いて育ったんですか? 何かお父さまが浪曲をやってらしたとか? |
| 八代 | ええ、父は歌がものすごく上手なの。親戚や近所の人たちがいつも父の浪曲を聞きに集まるくらい。父は、普通の会社員でしたけど、でも絵描き志望だったんですよ。 |
| 多川 | ああ、それで八代さんも絵画を。 |
| 八代 | そう、小さい頃は歌より先に絵の勉強をしていたわね。絵の教室に通って、休みの日は母が作ってくれたお弁当を持って、父と一緒に写生に出かけて、そこで父がギターを弾いて歌ってくれたりしてね。だから物心ついた頃からずっと、「絵」と「歌」が私の中にはいつも一緒にあるんです。 |
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| 多川 | あの、八代さんのお話を聞いていると、その貧乏のどん底を舐めて育ったような暗さや怨みみたいなものがないというか(苦笑)、かなり愛情豊かで恵まれたご家庭だったんですね。八代さんが生まれた頃というと、まだ戦後の貧しさが残っていた時代で、その八代さんの腹の底から振り絞るような哀切ある歌声から、「人には言えない苦労を舐めて育ったからこそ」みたいな悲惨なイメージを勝手に膨らませていたというか…。 |
| 八代 | 笑…。それはもう敗戦の傷があちこちに残っているような時代だったけど、でもあの頃は日本中が貧しくてどん底で、苦しいのも辛いのも自分たちだけではなかったから。わたしの家も親も決して裕福ではなく、お金の苦労はもちろんあったけれでも、でも精神的な貧しさや暗さはまったくなかった。 うちの父と母はね、19歳と20歳で若くして駆け落ち同然に結婚してるの。 若い夫婦の暮らしは決して楽なものではなかったけど、自分の子どもには贅沢はさせられなくても衣食住ひもじい思いをさせたくない一心で、父も母も2人して働き通し。朝昼晩、必死に懸命に働く親の姿を見て育ったから、子どもの頃から早く自分も大人になって働きたい、両親を楽にしてあげたいと思っていたし、そう思えることが子どもにとっては幸せなのよね。 |
| 多川 | そんな八代さんが歌手への思いを強くしたのはいつ頃、何歳くらいの頃だったんですか? |
| 八代 | はっきり歌手になろうと決めたのは12歳。それまでは、父の望み通り「絵描きさん」、画家になろうと思っていたの。それがある日、父がジュリー・ロンドンというジャズボーカリストのレコードを買ってきて、その音楽、リズム、何より歌声が衝撃的にかっこよくて子ども心にしびれちゃったわけ。 それで、LPジャケットの裏に記されているジュリー・ロンドンのプロフィールを見たら、「アメリカのクラブ歌手で、一流のシンガーとして…」みたいなことが書かれていて、それを読んだわたしは、「クラブ歌手=一流シンガー」だと勘違いして、そうかクラブで歌えばいいんだと(笑)。でも、「クラブ」といっても日本とアメリカでは、全然意味合いが違うのよね。 |
| 多川 | そうですよね。アメリカのクラブは、歌手やダンサー、明日のスターの登竜門的な場所で、ショービジネスの発展場みたいな位置づけですもんね。日本だと、酔いどれオヤジがママや女の子相手に飲んで、触って、その日の憂さを晴らすみたいな俗なイメージが一般的というか…。 |
| 八代 | そう、全然違うんです。で、ちょうど私が子どもの頃、父が独立して会社を作ったんです。でも、やっぱり会社の経営というのは大変で、日増しにその辛さや苦しさが重くのしかかっていたんでしょうね。それまで、いつも近所の人たちから頼られ、信頼され、尊敬され、大きくてかっこよかった父が汲々と苦悩している姿が悲しかった。 |
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| 多川 | お金に困っている父親が小さく見えたんですか? |
| 八代 | 苦悩している父というのを見たことがなかったのね。娘の私が言うのも何だけど、父はすごくハンサムで恰幅もよく、侠気があって、書もうまいし、墨をすりはじめる仕草や所作もものすごくかっこよくて(笑)。いつも堂々と明るく笑っている太陽みたいな存在の父親が苦しむ姿を見たくなかったのよね。「自分たちより社員の給料が先だからな」って母親にいいながら、苦渋に満ちた表情で黙々と帳簿をつけている父は、わたしにとっては「父じゃない」のよ。私の中のヒーローの父はかっこよくないとダメなわけよ。そこで決意したんです。早くクラブシンガーになって、私が稼ごうと。だから1日も早く大人になりたかった。なぜ私は子どもなんだと真剣に悩んでましたね。 |
| 多川 | それですぐクラブシンガーに? |
| 八代 | いえ、中学を卒業して15歳でバスガイドになりました。ガイドになって、クラブシンガーになるっていうつもりで。 |
| 多川 | 八代さんがバスガイドなんて、べっぴんさんで歌もうまいし、すごい人気だったんじゃないですか? |
| 八代 | いえいえ、それが人前に出る、人前で話すことが慣れなくて、恥ずかしくて、全然ダメ。若い女の子だし、結構冷やかされたりして、それがもうイヤで苦痛で、何も話せなくなっちゃって。そうしている間に観光名所を通り過ぎてしまうから運転手さんにも叱られるし、毎日心で泣いてたわね。で、その頃、「思い切って歌ってみたら」って友だちが近所のキャバレーに連れて行ってくれたのよ。ちょっとしたオーディションみたいな感じで、年齢はごまかして歌ったところ、すぐ「専属でお願いしたい」って言われたの。それでガイドの仕事は辞めて、キャバレーで歌うようになったんだけど、親の手前は「ガイドに行っている」フリをしないといけないでしょ。だから朝早く起きて、行ってきますと出て行って時間をつぶして、夜はキャバレーで歌うような毎日でした。 |
| 多川 | でも、すぐバレるでしょ(苦笑)。 |
| 八代 | そう、すぐにバレて、すごい叱られた(笑)「おまえはいつからそんな不良になったんだ、勘当だ!出て行け!」と。 |
| 多川 | それはもうお父様としては大ショックですよ。だって、子どもの頃に絵を習わせたり、知性と教養ある娘に育ってほしいからこそ、娘に下手に俗な苦労はさせたくないからこそお父さまとしては、必死に家族を守って働いてきたのに、その娘がいきなり「キャバレー勤め」なんて、そりゃ父親としてはすぐには受け入れられないでしょうね。 |
| 八代 | そうよね。それで父の逆鱗に触れて、勘当されて東京に出たんだけど、つねにわたしのことは心配してくれてたみたいで。東京には親戚がいて、そこに下宿させてもらって音楽学院に通うようになったんだけど、東京での生活の足場は母親がちゃんと付けてくれました。たぶんそれは父親の言いつけだと思いますけど。ただ一切仕送りはないから、学費と生活費を稼ぐために歌える喫茶店でバイトして、学校に通って、明日を夢見る毎日だったわね。 |
| 多川 | デビューのきっかけは何だったんですか? |
| 八代 | 通っていた音楽学院にレコード会社のスカウトが来て、それであっという間にレコードデビューが決まったの。でも、もともと私はレコード歌手になるつもりはないの。クラブシンガーになりたかったから。だけど、あれよあれよとレコーディングが進められ、デビュー日も決まって、記者発表会までして、でもだまされたんですよ。それが人生の最初のつまづき。もともとレコード歌手になる気がないのに成り行きで流されるままになってしまって、それでお金につまづいたから、やっぱり自分はテレビの世界や芸能界には向かないと思った。 それから銀座のクラブで歌うようになったんです。 |
| 多川 | レコード歌手は自分には向いていないということでクラブで歌っていた八代さんが、またレコードデビューしようと思われたのはなぜなんですか? |
| 八代 | ホステスのお姉さん達がレコードを出しなさいと強く後押ししてくれたの。「あきちゃん、私たちはあきちゃんの歌を毎日タダで聴けてうれしいけど、でも、世の中には私たちみたいな悲しみを背負った女性がたくさんいるからそういう人たちにあきちゃんの歌を届けてあげてほしい。だから、レコード出さないとダメよ」って。実はクラブで歌うようになってからも、レコード会社からのスカウトがものすごく多かったんです。でも、「あきちゃんはやる気ないから」ってお姉さんたちがが事務所やレコード会社のオファーを全部仕切ってくれていたのね。そんなお姉さんたちがこれほど言ってくれるなら、いっちょ出してみるかと。若いから、生意気だったのね(笑) |
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| 013 歌手 八代亜紀さん Interview | |
|---|---|
| 第1回 「八代亜紀」誕生のルーツ | 2012年8月8日更新 |
| 第2回 歌の心を歌う、代弁者として。 | 2012年8月22日更新 |
| 第3回 悲しみの底で響く歌がある。 | 2012年9月5日更新 |
熊本県八代市出身。1971年デビュー。73年に出世作「なみだ恋」を発売。その後、「愛の終着駅」「もう一度逢いたい」「舟唄」等、数々のヒットを記録し、1980年には「雨の慕情」で第22回日本レコード大賞・大賞 を受賞する。また、画家としてフランスの由緒ある「ル・サロン展」に5年連続入選を果たし、永久会員となる。2011年10月発売のシングル「デスティニーラブ 〜運命の人〜」にはデビュー40周年記念第二弾の好評曲「人生の贈りもの」をカップリング。2012年5月には銀幕スター小林旭氏と久しぶりの二人歌「クレオパトラの夢」をリリース。
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2件のコメント
感激しました。
女の悲しさ、寂しさを切々と歌い上げる八代亜紀演歌に多くの女性が涙したように、私(男)も涙し、その女性の女らしさ、優しさ、愛しさを感じ男心を揺さぶられて八代亜紀に魅了されて同時代を歩いて来ました。この記事を読み、良い星の下に生まれ、ご両親に愛され、しっかり躾され、親の生き方を学び、すべての事が八代亜紀へと導く激しい流れを感じました。お父さん譲りの頑固さ、あきちゃんのぶれない生き方が流れを引き寄せてきたのがよく分かりました。
今回人間あきちゃんを知り、またまた好きになりました。あきちゃんの考え方、生き方素晴らしい、いいね
今宵八代亜紀のジャズを聴きながら静かにグラスを傾けようか
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