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社会学博士 大澤真幸さんスペシャルインタビュー 第1回目

第1回 『八日目の蝉』に見る、現代若者のメンタリティ

わたしが大澤さんの論考に初めて触れたのは2010年の「THINKING O」でした。
その中で、大澤さんは角田光代さんのベストセラー小説『八日目の蝉』を題材に、本来不幸(幸福)であることが必ずしもそうではない人間、そうはならない人生の不可解さを紐解いて行きます。
これほど豊かで恵まれた社会であっても幸福を感じられない現代社会、夢や希望を持てない今の人々、若者たち。“満たされても満たされない”むなしさ、やるせなさとはいったい何なのか・・・
そこには「物語化できない人生」の生きづらさがあるという大澤さん。誰もがよく知る小説、映画、アニメ、事象を取り上げながら、とらえがたい人間存在の本質に迫ります。


***「八日目の蝉」あらすじ***
角田光代さんのベストセラー小説。物語は第一章と第二章からなる。第一章では、不倫関係にある秋山の子を妊娠、中絶した過去をひきずる希和子の視点で描かれる。ある朝、希和子は秋山夫婦が留守中、ひと目、秋山の子を見ようと家に忍ぶ込む。ベビーベッドに眠る生後間もない女の赤ちゃんを見た瞬間、希和子は発作的な衝動でその子を抱きかかえ、誘拐。「薫」と名付けたわが子を愛情いっぱいに育てながら逃亡生活を送る。
第二章は、希和子の逮捕によって、元の両親、秋山夫妻のもとで成長し20歳になった「薫」、秋山恵里菜の物語。自分を心から可愛がって育ててくれた母が誘拐犯だった事実に苦しみ、もがき、やがて愛された記憶を封印するために愛すべき母を憎むようになる恵里菜。しかし、彼女もまた、妻子持ちの男性の子を宿し、希和子と同じ道をたどろうとしていた・・・
編集部多川(以下多川) ドラマや映画化もされ話題を呼んだ角田光代さんのベストセラー小説「八日目の蝉」。わたしもあの小説を読んで、痛切に考えさせられたのは、本来その人の救いや希望になりえるもの、血のつながり、愛された記憶が必ずしもそうはならない人生の意味不明さ、人間の不可解さでした。大澤先生は、思想雑誌「THINKING 0」や近著「正義を考える」の中でこの小説を題材に、現代社会が抱える「物語化できない人生」の生きづらさについて論じられています。赤ちゃん誘拐、逃亡という普通ではありえない特異なストーリー設定でありながら、これほど多くの人が共感したということは、この物語には現代社会の人々の精神を強くとらえる何かがあると。
大澤真幸さん(以下大澤) 少なくとも、この物語は、「そうそう、俺もそうだった」「わたしと似てる」などと自分の体験を重ね合わせて共感し感情移入できる設定ではありません。赤ちゃんの頃に誘拐されて逃亡生活を送った人なんていないでしょ? にもかかわらず、この小説は非常に大きな反響を得た。
それは、何かと言うと、この薫であり恵理菜でもある女性は、「あれがあるから生きていられる」という愛された記憶が、誘拐犯の母親と過ごした3年半だったわけです。つまりその人の生きる力、支えとなるべきものが、その後の自分の苦悩、不幸の根源になっている。自分の原点を肯定しようとすると、現在が否定される。現在を肯定しようとすれば、自分の一番大切なもの、希和子という母と一緒にいた幸福な時間、記憶、自分のすべてが否定される。だから、どうにも物語にならない。その「物語化できない」生きづらさが、多くの人の心をとらえたのではないでしょうか。この恵理菜の人生は非常に特異だし、こんなタイプの誘拐事件に遭うなんてことはあり得ないことなんだけど、恵里菜という女性が苦しみながらも抱え続けるしかない空虚感は、何のためにあるのか分からない人生を生きるという、現代人にとって普遍的な人間のテーマに通じているのだと思います。
多川 現代の人々も、『八日目の蝉』の恵理菜のように、何のためにあるのか分からない人生を生きているということですか?
大澤 まず、僕らは自分の人生が無意味なものだとは思いたくない。
たとえば、今は苦しくても努力した先には必ず幸福にたどり着ける、信じて頑張れば人生はかならず良い方向に開けると、何かしら人生に意味を見出し、漠然とした自分の物語を作りあげることで、人生無駄なことなんてないんだと前向きに生きたいわけです。ところが現代を生きる僕ら、とくに若い人たちは、自分はどういう物語の中に生きているのかということを思い描けない社会に生きている、生きていかなければならないところに彼らの困難があるんじゃないかと。
多川 夢や希望が描けない現代の若者の生きづらさですか?
大澤 それがね、角田さんとの対談後に気がついて、すごくびっくりしたことがあるんですよ。NHK放送文化研究所が1970代から40年間、5年に1度の頻度で行っている調査があるんだけど、その中に「あなたは今幸福ですか?」「あなたは今の生活に満足してますか?」というブータンの幸福度調査みたいな質問があるんです。で、僕がそのデータの何が意外だったかというと、若い人の回答なんだよね。たとえば、1970年代から、80年、90年、2000年、2010年代と時代が変わるにつれ若者の幸福度はどう変化すると思いますか?

多川 年々、幸福度、満足度は上がってる?
大澤 あ、そう思いますか? 僕は当初そうは思ってなかった。何しろ今は就職氷河期で、リーマンショック以降はさらに新卒の正社員雇用は少なく、就職難民や若者の貧困化が問題視されている。だから若い人たちは、相当時代社会に不満を持っているはずだと、社会学者としての仮説を立てていた。70年代、80年代の高度成長・安定期、バブル期の若者より、不況しか知らない今の若者の方が幸福度は断然低くなるはずだと予想してたんですよね。ところが、そうなっていないんです。1990年代初め、バブル崩壊の時期を境に、若者の幸福満足度がすごく上がってるんですよ。

多川 その、若いときに「幸福」を感じるというか、今ある世界、社会、自分に満足できる感性、感覚そのものが若者らしくないような・・・。自分が10代、20代の頃を振り返ると、何か違和感を覚えます。

大澤 そう、このデータは、「若い人が幸福でよかったね」って、そういうことを言う人もいるけど、僕はちょっと不思議な現象だと思っています。普通に考えれば、スマホに携帯、パソコンやインターネット、FBやtwitterなど、70年代の若者より今の若者の方が、はるかに便利で快適な生活、これ以上ないほど進化した情報ネットワークの有利さを手にしている。でも、70年代の学生はスマホがなくて不幸だっていうことは、絶対ありえないわけです。ということは70年代の学生が不幸だと思った理由はスマホがないことじゃないですよね、明らかに。
そうするとね、70・80年代においては、満足度が年齢とともに右肩上がりになるのはどうしてなのか、ということから考えたほうがいいんですよ。
どうしてだと思いますか?どうして若い人のほうが不満で、なぜ年寄りのほうが幸福度があがるか。
多川 年寄りは、残された時間が見えているので、これで良かった、幸せだったと思うしかない境地に至るしかないような気も(苦笑)。でも、若いときは、自分もそうですが、身近に貧富の差や不当な差別、世の不条理や不平等を目の当たりにする中で、社会や大人に対する怒りや反発が沸き起こりがちだと思うんです。
大澤 まず、そもそも普通の人は、自分の人生が幸せかどうかなんて質問されたときに考えるんです。つまり、そのときの心情を考えるといいんですよ。たとえば、自分の人生は終わりかけていると思ったときに「不幸」と答えれば、自分の人生は全体として不幸であり、つまらない無意味なものとして全否定することになる。だから、高齢に至るほど、よほどの事情がない限り、原則的に肯定したい気持ちが起こるんです。自分の人生は良かったと考えなければ、それでおしまいなわけだから、よっぽど否定しがたい理由で不幸でない限り、歳をとれば幸福だというのは当然。
多川 それはそうですよね。
大澤 自分は社長にはなれなかったけど、部長にはなれたとか、大きな家ではないけれども、とりあえず一戸建ては持てたと、「まあ、よかった。満足じゃないか」となるわけです。逆に若い人がなんで不満かというと、こんなところで満足するわけにはいかないからです。有名大学を卒業して、いい就職先や一流企業に入って、客観的にはまったく不満や不幸な要素が見当たらない若者でも、「これから、もっと良くなる未来」を予測して、ここで満足するわけにはいかないと「やや不満」に○をつける。
多川 ということは、今の若い人の多くが「満足」に○をつけるのは、「これから良くなる」であろう未来や可能性になんら期待も希望も持っていないから?

大澤 そう、今の時点で「不満である」「不幸である」といえる人は、言いかえれば、もっと幸福になる、自分はこのままでは終わらないと言っているに等しい。
でも、今現在「満足」という学生は、これより満足な状態になるとは思っていないってことを意味しているわけですよね。つまり、この先これより良くならないのに、ここで「不満」だとしたら、自分の人生まるごと「不満」で終わってしまう。だから、今の若い人がさっきの年寄りと同じ状況になっているわけ。これよりも良くなる予定がない以上、よほど文句がない限り、いま、満足だと言わざるをえないんですよね。

多川 今の若い人に時折感じるやけに達観した目線、妙な落ち着きというのは、そういうことですか。そうなると、彼・彼女らの「物語化できない」生きづらさというのは?
大澤 このデータがさっきの「八日目の蝉」の話とどう関係があるかというと、人生を物語として描きうるには、自分の人生がよき方向へ進んでいる過程、プロセスとして解釈できなければならない。物語の終わりは「死ぬとき」ですが、物語を生きるということはどういうことかというと、漠然とでも自分の人生が良きエンドに向かっているという思いを描けるかどうか、ということなんです。悲劇の物語もあるではないか、と思うかもしれませんが、「悲劇」として物語化したときには、その結末を受け入れたということですからね。悲劇も含めて物語は、広い意味で肯定できる結末への過程なのです。
70年、80年代の若者は、よきことを目指す物語の序盤にいる気分なんですよね。これから社会に出て、こんな仕事をして、そこで自分を鍛え磨いて、出世したり、成功したり、社会を変える影響力のある人間になってやる!と、そうなるまでの途中が、若者にとっての「今」なんです。だから今の段階では不満なんだけど、物語全体としてはいいわけですよ。
ところが、自分の「今」を肯定してしまう90年代以降の若い人は、自分たちの内に「よき物語の中に生きてる」感覚が持てなくなっている。だって、社会も政治も経済も、今より良くはなりそうもないんだから。つまり、このデータは、若い人たちが、物語の中を生きられていないことの証拠だと思うんですよ。
多川 ほんまは「終わってる」と思っているくせに、それを「肯定」する、しようとするから余計しんどくなるんじゃないかと・・・。
大澤 そう。逆にいうとね、ここで肯定してしまう人は、実は不安なわけですよね。むしろ、今現在をネガティブに否定できる人の方が、漠然とでも希望を持っているといえる。一方で、現代の若い人たちは、就職難や世代間格差の問題もあって、自分たちはこの社会の中で最も冷遇された「不幸な世代」という感覚を持っている。70年代の若い人たちは、そういう感覚は持ってなかったと思いますね。自分たちが、ある意味でいちばん恵まれているんじゃないかみたいな、ちょっと、逆のうしろめたさを持ってると思う。とくに、70年代若者世代、今の50〜60代は余計そう思えるでしょうね。何しろ自分の親よりずっといい生活を送り、ずっといい教育を受けられた世代だから。
多川 わたしは今、40代ですが、確かに自分の親世代よりずっと恵まれた時代に生まれた幸せは、ことあるごとに感じます。
大澤 団塊の世代は、自分は前の世代には到底享受できなかった、非常に恵まれた状況に置かれた“後ろめたさ”を感じる人はいっぱいいたんですよ。70年代の学生は、自分たちは一番恵まれていることがわかっているのに、わざわざ不幸だといっている。それに対して21世紀平成の若者は、自分は親や祖父母、10歳20歳上の人より冷遇されていることを自覚しているのに、他方で、幸福かと聞かれたら、幸福だと言わざるを得ない。
多川 結構、高度な物の考え方ですね。
大澤 確かに高度で、シニカルな認識ですね。能天気で幸福だと言っているのではなく、非常に冷ややかな認識のもとで、「ま、そんなによくならないでしょ」と言っている。たとえば、今の若者に「この国の問題」を訊くと、年金の話が出てきたりするわけです。確かにこのまま少子高齢化が進むと将来的に「年金はもらえない」ことは確実だから、若い人がそういう意識を持つことは当然なんだけど、でも年金というのは、人生の物語のラスト、「付け足し」の部分でしょ? ということは、今の若い人は本文も書いてないのに「あとがき」だけを気にしている状態。さらには、これから本文を書く予定もないってこと。つまり、物語を描けない状態にあるということなんだよね。

多川 はぁ・・・。すでに終わっている人生を生きているような空虚さ、無意味さ。それが『八日目の蝉』に通じるわけですね。
大澤 そう、この小説は、色んなことを教えてくれています。ひとつは、物語を描けない人生とはどういう状況かということ。もうひとつは、自分たちは最も冷遇され、失業率も高く、将来的に大変になることは確実なのに、「幸福だ」と答える若者のメンタリティ。彼らは事実認識ができずに、何も知らずに「幸福だ」と勘違いしているという仮説も成り立つけど、社会調査のデータと照合すると、若者はちゃんと危機感を持っている。ということは、若者がバカなわけじゃない。むしろ、冷静な認識を持っているから、「幸福だ」と答える。知らなくて幸福だといっているわけではなく、幸福だと答えざるを得ない状況なんです。
撮影/編集部
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2件のコメント

大澤さんの話、まさにそのとおり!という感じでした。心理療法って(私はサイコセラピストをしてます)、クライアントと一緒にその人の「物語」を創るような作業なんです。その物語によって、その人は救われていく。
その人が「自分の物語」を掴んでいるかどうかが重要で、幸福か幸福じゃないか?なんてことはどうでもいいんです。
それと、若者が「幸福だ」と答えることに対する違和感にも共感します。若者だけじゃなく、我々はメディアが発する「幸福像」に洗脳されていると感じます。

by ゆぅ - 2012/06/06 11:14 AM

それは違うと思います。わたしは20代前半ですが、自分の世代を冷遇された不幸な世代だなんて考えたこともありませんよ。バブル世代というら絶頂期を経験された大澤さんの、世代の方々にとっては、今が経済的に冷え切った時代であるという自覚があるかもしれませんが、私にとっては、今のこの状況しか知らないので、この状態を不幸だなんて思いません。年金について触れられていましたが、それはメディア等で頻繁に深刻な問題だとして取り上げられるために、それほど認識が強くなるのは当然だと思います。若者は何も老人と同様に、幸福だと、思わざるを得ない状況だからそう感じているのではないと思いますよ。

by みほ - 2016/02/10 2:35 PM

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社会学博士 大澤真幸さんスペシャルインタビュー 第1回目




おおさわ・まさち

1958年長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。現在は明治大学非常勤講師を務める。著書に『不可能生の時代』(岩波新書)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎氏との共著/講談社現代新書)、『二千年紀の社会と思想』(太田出版)、『夢よりも深い覚醒へ 3・11後の哲学』(岩波新書)など多数。思想月刊誌『THINKING「O」』(左右社)主宰。

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