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社会学博士 大澤真幸さんスペシャルインタビュー 第4回目

第4回 「大義」なき「絆」はない。

編集部多川(以下多川) ピースボートの若者たちが世界を旅して得た唯一のものが、「そこそこ仲のいい友だち」というのは非常に痛切でやるせない若者心理を物語っているようにも思います。というのも、今の小中学生の一番の恐怖は「友だちがいなくなること」だそうで、おそらくそれは世界の終わり、人類滅亡くらい大きな危機感なんでしょうね。
大澤真幸さん(以下大澤) 若い人にとって一番恥ずかしいことは「友だちがいない」と思われることでしょ。彼氏や彼女がいないのはどうってことない。いない人も結構いるし、まだ笑える。でも、「友だちいない」というのは、救いようがないって感じ。
実際にそういう人はあまりいないと思うけど、1人で食事をとる姿を見られたくなくてトイレでお弁当を食べる「便所メシ」というネット表現。僕はその言葉が若者の気持ちをうまく表現しているような気がします。学食で1人で食べている=友だちがいないと思われないよう、気づかれないよう、本当にひとりきりで食べることで、その恥ずかしさ、惨めさを回避するっていう逆説になっているんだけど。
多川 友だちをつくる、友だちのネットワークを広げる、友だちに嫌われない自分であることには異様に熱心というか、小学6年生あたりですでに「友だちづきあい」や「友人関係」に神経を磨り減らしている現状があったりして、そこまで執着するということは、本来あるべきものが失われているからではないかと思ったりします。
大澤 人生には、ふたつの軸があると考えます。ひとつは、その人がどういう関係の中で生きているかという関係性の軸。もうひとつは、何のために生きるかという「大義」の軸。今、問題になっているのは、大義がない、目的の軸がないってことですよね。だからせめて関係の軸だけ抑えておきたい、失われてはならないという精神的な飢えが、「友だち」への異様な熱心さにつながっているように思います。
多川 でもその「友だち」というのも、そこそこ仲のいい友だち程度だとすると、「自分は何のためにどう生きるか」という「大義」を埋めるには弱すぎるというか軽すぎますよね・・・。
大澤 そう、この2つの軸は無関係ではない所が恐ろしい。自分は何がしたくて、何のためにどう生きるかということの確立と、友だちをつくるという関係性づくりは一見、別の話なんです。けれど、どこか根の深い部分で関連している。簡単にいうと、深いつながりをつくるためには、大義が必要だってことなんです。例えば、さっき大義の話の例に出した『巨人の星』は、一流の野球選手になって巨人の星になることが飛雄馬の生きる目的であり「大義」の軸。
父親の一徹に毎日しごかれ、どんなに辛くとも苦しくとも「巨人の星」になるために野球ひと筋試練の道を突き進む。そして、そのプロセスに、ライバルの花形満や伴宙太との深く厚い友情が生まれるんです。

多川 ああ、それすごくわかります。若い人だけではなく、わたしたち世代の女性、大人でも「本当の友だち」がいる・いないというのは人生の大きな問題だったりするわけです。でも、それは結局、自分がどう生きたいのかという自分自身の根幹がしっかりあるか、ないかという自分の生き方に去来するものなんですね。
大澤 「大義」があるから「絆」が強くなる。けれども、ここで重要なのは、当人にとっては「絆」よりも「大義」が大事に見えているということなんです。
多川 それは?
大澤 「絆」が真に固くなるためには、「大義」が「絆」より大事に見えないとダメなんです。たとえば、「大義」のために仲間を捨てるとか、裏切らないといけないとか。そういうときに「絆」の方が大事だからっていうのは、大義ではないんですよ。大義のために、泣く泣く、恋人や妻子を捨てるとかね。
また『巨人の星』を持ち出すと、父親の一徹はめちゃくちゃな人で、並み居るライバルにどんどん勝っていく飛雄馬を見て、一徹自身が飛雄馬にライバルを作らなければならない状態に追い込まれる。そこで誰をライバルに仕立て上げようかと思案した一徹は、親友の伴宙太を別の球団に引き抜き、飛雄馬に匹敵する選手に鍛え上げる。飛雄馬を「巨人の星」にするという「大義」のために、父は息子と闘い、親友の伴宙太は飛雄馬を裏切るわけです。それほど過酷な葛藤、苦悩、ジレンマに苛まれてこそ「大義」なんです。
多川 何というか「大義」は冷厳な理性で、「絆」は自然の情緒という感じがします。その「義」という概念が、西洋と日本では違うような気がしますが・・・
大澤 日本は義理と人情の「義」ですね。「大義」は英語でいうと原因と同じcauseになる。「大義cause」は、その人を動かす根拠となるものという意味。日本における「義理」は、その個人の行動の根拠(理由)になるものではないので「大義cause」ではない。「義理」というのは、具体的な人間との関係性の中で問題になっているわけですよね。あの人には義理があるからやってあげなきゃとか。義理というのは、互酬的な関係の中での「負債」に関係した概念ですね。
多川 確かに、忠義、恩義も、関係性における「義」ですね。

大澤 「大義cause」は、人間同士の関係性より前に見えることが重要なんです。関係が先にあって生じる「義理」とは、順序が逆。時には関係を犠牲にしても、やらないといけないのが「大義」。そこが大きな違いです。日本人には伝統的に関係まで犠牲にして、守ろうとするものはあまりないですよね。ただ、関係の中に重要な関係とそれほど重要でない関係という序列がある。武士だったら、主君との関係、家族との関係でどっちを取るかという事態が起きたり、幕府との関係と藩主との関係どちらを優先するかとか。
たとえば、よくある物語としては「大義」のために仲間を捨てるとか、裏切らないといけないとか。そういうときに、「絆」の方が大事だからっていうのは、「大義」ではないんですよ。
多川 今の時代は、会社のために仕事のために家族を犠牲にするとか、何かの関係のために別の関係を犠牲にするということもほとんどないので、「大義」どころか「義」も見当たらない感じですね。
大澤 「だからこそ、無意識のうちに“大義的なもの”が欲しいというか、自分の人生、人との関係性を決定づけるアクセント、ピリッとしたスパイスとして「大義」を求めているんじゃないかな。
しかも「大義」というのは生半可なものではなく、それ抜きには自分の人生はない、自分自身はないとすら思えるものでなければならないわけ。たとえば星飛雄馬が野球をしていなかったら、あそこまで打ち込んでいなかったら、花形満と気が合っただろうか。伴宙太と深い友情を育めただろうか。野球抜きに、彼らが毎日お茶を飲んで、一緒にゲームしたり買い物したりするような関係だったとしたら、3人が互いに固い友情で結ばれるなんてことには、まずならないでしょう。
多川 まさに、そうだと思います。今、何かにつけて言われる「絆」というのもそうですが、「絆」だけを求めていても得られるものではないということですよね。飛雄馬みたいに何かを犠牲にしたり、失ったり、本来は認めたくない、受け入れたくないもの受け入れる不自由さが「大義」だとしたら、そういう覚悟もなしに「絆」だけ欲しいというのは、人を舐めた考えですよね。
大澤 「絆」は、みんな欲しいですよ。「絆」がなければ不幸なのは当たり前で、それなくして人が人として幸せに生きることはできません。だけど、それだけを目標にすると、大した「絆」は得られないところが、苦しいところなんです。
偶然にも、震災という不幸が人々に共通の目的や大義を与えた。そのことによって、わたしたちは「絆」というものの大切さに気づかされた。つまり、普通ではあり得ない逆境や悲しみ、苦難によって強烈に深まるのが「絆」だということです。何とか今日を生き延びよう、再び同じ町に戻ろうという人々の悲痛な思い、何としても復興や再生を果たそうという覚悟、そういうものが「大義」として現れたんですよね。だから、「大義」なくして「絆」だけ取り戻すことはできないということ。「絆」が「絆」らしく照り輝くためには、どうしても「大義」が必要なんですよ。
深い「絆」は、それを直接に求めても、決して得られない。それは、常に副産物としてしか得られないわけです。何の副産物かといえば、「大義」の、です。
撮影/編集部
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1件のコメント

21歳の大学生です。
何故か社会を生理的に受け入れられず、就職活動を前に足踏みしています。

人は、なかなかに苦しい存在です。
生きていこうとする力を、自ら生み出さなくてはなりません。
現代の若者は、幸にも不幸にもとっかかりがなく、平らで、ある意味分かりにくい現代をスタートとして今まで生きてきたのでしょうか。
無意識的にでも、器用に流して生きていければ良いものの、そこに気付いてしまったわたしたちは、考えはじめ、立ち止まってしまった不器用なわたしたちは、今後どのようにしてまた、歩き始めることができるでしょう。
どこかを麻痺させるか、何か大きなものに迫られるか、いずれにせよこのままでは進めないことは明らかです。

大義を生きられるなんていうドラマチックな話は、もはや望めないでしょう。
前に進む原動力は、頭ではなく身体に見出すほかなさそうです。

by smkoeo - 2014/05/15 5:26 PM

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社会学博士 大澤真幸さんスペシャルインタビュー 第4回目




おおさわ・まさち

1958年長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。現在は明治大学非常勤講師を務める。著書に『不可能生の時代』(岩波新書)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎氏との共著/講談社現代新書)、『二千年紀の社会と思想』(太田出版)、『夢よりも深い覚醒へ 3・11後の哲学』(岩波新書)など多数。思想月刊誌『THINKING「O」』(左右社)主宰。

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